はがき通信ホームページへもどる No.111 2008.5.25.
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 腰折れ俳句(3) 


歩いても駆けても風を切る五月 
叱られて仔猫こまかき耳たたむ
籠までの両手は仮の螢籠
蛇苺魔法の森に居る如し
蝶を乗せ回転木馬右まはり



熊本県:K.S.



 骨密度、私の場合 


 2005年、小倉での懇親会で「ふだんどおりのトイレ動作で大腿骨が音を立てて折れた、骨密度を測ってもらったら80代のおばあちゃんですよ、と言われがっかりした……」という60代の友人の話を聞き、10月に腰椎正面で測ってもらった。
 結果「信じられないかもしれませんが、驚くことに20代の骨密度ですよ」との太鼓判を押され安心していたのだが、2007年、京都での懇親会で骨密度の話になり、「われわれのような車椅子使用者は下半身で測らなければ意味がない……」とのご指摘をいただいた。
 前回の測定から2年経つ。主治医に「先生、大腿骨で測ってもらえませんか……」と頼んだら、「大腿骨で測るいうてもな、いまのところ基本となるべきデータがないんや、どうしてもと言うのなら股関節で測るか、手首で測るかやなぁ」とおっしゃる。「じゃぁ、両方で測って下さい」と念押ししておいたのだが、右大腿骨頸部のみだった……(-_-;)
 えーっ、Kリハビリテーション病院では骨密度と体脂肪の両方が測定できる機器があり、頭部・両腕・両足・胴体・肋骨・骨盤・脊椎……全身の部分部分のすべてが測定できるというではないか!? 都会の専門病院と地方の総合病院との格差を感じる……(-_-;)
 測定の結果、やはり動かない下半身では20代とはいかず、「50代、年相応の骨密度です」だった。今のところ骨粗鬆症(こつそしょうしょう)ではなさそうである。その後、水路の金網に車椅子の前輪がはまりこみ前倒しに落車、念のためレントゲンを撮ってもらったら、「骨に異常はないけれど、やはり動けないから骨は痩(や)せてるねぇ……」と言われる。身はちっとも痩(や)せないのに、骨だけが痩(や)せているなんて……(T_T) 
 2008年、新年早々初詣に出かけようとしてバックドロップ。後頭部をしたたか打ったが、石頭が幸いして事なきを得た。頭蓋骨にも骨密度のデータってあるのだろうか……? 先月、岡山の友人から「風呂に入っとって骨が折れ、ただいま入院中、リハビリ中にまた折れた、おえりゃぁせんわ〜、おみゃーさんも気をつけな〜おえんぞな……」との電話があった。友も私も50代で頸損歴20年以上、これからは老化に向かって一直線。とりあえず、伊吹のイリコでカルシウム補給を図っている。体重だけは2年前と変わらぬ(*^_^*)まるまる丸子(*^_^*)

まるまる丸子



 初めての大腸ガンの内視鏡検査 

男、C4不全、頸損歴22年

 妻から「最近、便に血が付いているよ。ガンじゃないよね」と問われるたびに、「摘便の時傷つけたか、便が硬いから内壁がこすれて血が付くのだろう。大丈夫。心配ないよ」と答え続けてきました。しかし、何回もそう答えていると私自身だんだん不安になって、「もしガンで大腸を切除したら人工肛門になるのかなあ」とか「人工肛門の管理も妻にしてもらうのは気がひけるなあ」と思うようなってきました。そして、早くガンの有無をはっきりさせたいと思うようになりました。
 歯医者さんに行った折、近所の病院で大腸ガン検診のキャンペーンをやっているのを見つけましたので、話を聞きにいくと検査セット一式と検査の説明書をくれました。1週間のうち2回、付属のブラシで便の表面を撫(な)でてそのブラシ2本を検査機関に郵送するというものでした。簡単にできそうでしたのでこの検査を行いました。結果は「++」判定。この検査は、便の中に含まれる血液を調べる検査らしいので当然の結果といえば当然でした。内視鏡による精密検査が必要とのことでした。
 掛かりつけの内科医院にこの結果を持っていって相談したところ、内視鏡検査は健常者の場合だと外来で行える検査で当医院でもできるが、あなたの場合は何が起こるかわからないから、総合病院に入院して検査した方がよかろうということなりました。
 そこで総合病院での2泊3日の入院検査となりました。入院初日は肝臓、すい臓、そして腎臓のエコー検査、心電図そして胸のレントゲン検査を行いました。食事は検査食で、昼食は小さなロールパン、夜は重湯とスープのみ。こんなに少しの食事では低血糖になり、エネルギー切れにならないか心配しましたが、なんともありませんでした。寝る前に下剤を飲みました。そのため、夜中に便がたくさんでました。2日目の朝はおなかをきれいにするために下剤入りの2リットルの水を飲みました。今回の検査で最も辛かったのはこの水を2リットル飲むことでした。それでも1時間かけてやっと飲むことができました。一度に多量の水を飲んで目の前が真っ暗になった経験がありましたので、貧血が起こらないか不安でしたがこれも起きませんでした。
 検査は午後からでした。検査には誓約書にサインが必要でした。内視鏡で腸の壁を傷つけて出血する確率1/300、出血が多量で開腹手術になる確率1/5000の危険性があるけれども、検査すること。もし、検査中に内視鏡手術で簡単に摘出できるポリープ等が見つかった場合、それを摘出してもよいことへの同意のサインでした。この時、一瞬、すでに1/10000(?)の確率に当たって頸損になっているのだけどなあという想いが浮かびましが、そんなことを言ってもしかたがないと思い、そのままサインしました。
 検査はきわめてスムーズに行われました。痛覚も触覚もないから、お尻から内視鏡が入ってもまったく違和感はありません。医師の説明を聞きながら、目の前のモニター画面を観ていました。まるで他人の腸を覗いているような感じでした。どこにも異常は見つかりませんでした。病室で待っていた妻も異常なしの結果を聞いて安心したようです。3日目の昼に、腸内壁で出血などの検査による体の異常がないことを確認して退院しました。
 結局、便に血が混じる原因は特定できませんでしたが、ガンの可能性がなくなり、晴れやかな気分になり、検査してよかったと思いました。

福岡県:Y.I.



 新・今昔物語集  第四話『ユースホステルであった人々』 


 今は昔。
 (承前)やがて列車はパリ北駅に吸い込まれるように入っていった。パリには市を囲むように七つの終着駅がある。東京のように市街地の中心に鉄道が入り込むということはない。ベルギー、オランダ方面からの列車は総て北駅を終着とする。ガアル・ド・ノール、なんて暗い響きであろうか。でも北駅はローマのテルミ二、ミラノのチェントラーレ・スタチオーネとならんで、私の好きな終着駅だ。
 北駅からは地下鉄に乗り換え、なんとかいう駅で下車して、すぐ上のユースホステルに行くようKLMパリ駐在員の方から指示を受けていた。今回この稿を起こすにあたって、下車した駅の名称を思い出そうとしたのだが、なかなか出てこない。こうなると収まりがつかないのが私の悪い性分で、仕舞いにはネットで「パリの地下鉄」を検索。確か国の名がついていたのだがなあ……と探すうち、あったあった。Place d’italie。イタリア広場とでもいうのだろうか。当時は市の南西のはずれと思い込んでいたが、実際は東南部だった。
 なんにもなかった。石畳と石造の建造物ばかりでできた市街地とは対照的に、空間と緑だけの場所だった。こんなところに何故こだわるのかというと、外国人との初めての交流があったところだからだ。ユースホステルに到着したのは午後3時ごろだったと思うが、すでに長蛇の列ができていて最後尾に並ばねばならなかった。
 私の前にはスイスからきたという2人の青年。後ろにはアメリカ人の女性2人がついた。スイス人2人はビートルズのフアンだとかで、底抜けに明るくて享楽的な現代っ子だった。うち1人は当時はやったアフロヘアーだ。女性の1人はメアリーというドイツ系アメリカ人で、髪をひっつめにした地味な人であった。アメリカの大学を卒業し、ドイツの大学院に入る前に下見に来たということだった。
 5人はすぐに打ち解けた。アフロヘアーのボブが言った。「このユースホステルはサイテーだよ。毎日総入れ替え制で先着順ときてる。確実に泊まるためには11時ごろから並ばなきゃあならない。何のためにパリまで来たのか分かりゃしないョ」列を離れるわけにいかないので、各々持ち合わせの食品で夕食をとることになった。2〜3日前にパリに入っていたスイス人2人は、フランスパンとソーセージを準備していた。アメリカ人2人はデニッシュパンと白ワインを取り出した。オランダから到着したばかりの私には持ち合わせがない。日本の漬物みたいだと思って買っておいたキュウリのピクルスがあったのを思い出した。ちょっとためらいながら取り出すと、一同爆笑となった。これで立派なサンドイッチになる。
 翌朝から一緒に市内観光しようということになって、ボブが着いたばかりの私に「どこに行きたい」と尋ねた。「そうねぇ、ルーブル美術館かな」「ひょエーっ、美術館に行って何すんの」と彼は茶化した。すかさずメアリーが「私も行くわ」と毅然とした口調で言う。異論を挟ませない物腰に、皆とぼとぼと従うことになった。
 美術館に入ってすぐの回廊の突き当たりに、『サモトラケのニケ』が大きく羽ばたこうとしていた。ボブがかけよってポーズを真似、「ねぇ写真撮ってくれない」と声を張り上げた。どうもこの青年には、こういう場所は水が合わないようだ。
 ルーブルではひとつ感銘を受けたことがある。館内で無名画家や画学生がイーゼルを立て、展示した絵の摸写をしている。作品を傷つけられたくないという理由で、模写を禁ずる国が多いようだが、さすがにルーブルの見識だと思った。「芸術は模写に始まる」というではないか。有名な『モナリザ』や『ミロのヴィーナス』などを観て、夕方にはKLMの駐在員氏に会うため一行とは別行動になった。
 オフィスはオペラ座の近くだったように思う。打ち合わせを終えると駐在員氏は「日本食欲しくないですか」と蕎麦屋に誘ってくれた。カツ丼だったか天丼だったかご馳走になりながら、いい機会なので例の雄鶏の一件について尋ねてみた。「普通じゃ考えられないですね、1等と2等を間違えたくらいでパスポートを取り上げるなんてね」。やはりテルアビブ事件の報復と考えるのが順当でしょうね、と彼は眉を寄せた。「実はわれわれも反日感情が昂まらないか、心配していたところなんですよ。『名画クイズ』もこれから日本人観光客を誘致しようというキャンペーンの一環ですので」。
 お断りしておくが私にはユダヤ人差別などというものはいっさい存在しない。キリスト教とユダヤ教の問題はあるとしても、東洋人としての私にとっては埒外(らちがい)の事項なのである。しかしこの一件を契機に、私のなかで外国人、とくに白色人種との接触に一定のスタンスがおかれるようになった。平たく言うと、決して物怖じしないこと、主張すべきはきちんと主張すること、不必要に虚勢を張らないということ、などである。この旅を境に白人コンプレックスなんてものは吹っ飛んでしまった。
 この駐在員さんとの面会は、しかし思わぬ余禄となった。「パリのつぎはアテネでしたよね。ピレウスという港から船に乗って、ミコノスという島に行ってごらんなさい。何があるかは内緒だけど、カメラマンにとっては恰好の題材になるかもしれませんよ」。
 ユースホステルに戻ると、すでに長蛇の列だった。仲間はすぐに見つかった。後ろから何か言われるかなとためらいもあったが、しぜんに輪の中に入れた。斜め前方に不思議な男女がいた。2人とも腰まであろうかという長髪。男の痩(や)せこけた頬には黒々としたヒゲが。モーゼのような黒い長衣を身に纏(まと)っている。地面にフランスパンを無造作に投げ出し、瞑想(めいそう)にふけるかのように目をつぶっていた。アラブ人か、それともエスキモーかなんて想像していると、この男がおもむろに立ち上がって私のそばに移ってきた。「日本人ですか」と笑った。その笑顔がおどろおどろしい風体とはまるでそぐわない無邪気なものだった。
 聞けば、もう何年もヨーロッパに滞在していて、現在はモロッコから帰ったばかり。アパートを探しているという。この男からもいろいろと情報を仕入れた。漠然とヒッチハイクのようなことを考えていた私に、「ヨーロッパって隣国との戦争の歴史みたいなところがあるじゃないですか。ヒトを見れば敵と思えみたいな……」。そういえば何故ヨーロッパ人って一様に陰気な顔をしているんだろう。

千葉県:T.D.



 感 謝 

52歳、C4完全麻痺、頸損歴23年、O型

 昨年の11月に、心臓の手術をしました。私の病名は心臓弁膜症といって、弁の閉鎖が不十分なために血液が逆流し、十分な量を体に送ることができません。そこで、人工の弁に取り替えるわけですが、開胸して胸骨を取り外し心臓を止めたのち、切り開いて2ヶ所の弁を交換するという、考えるだけでもゾッとするものでした。ちみに、弁はオーストラリア牛の心臓の筋肉から作ったものです。
 私の住む東広島市の病院では手術ができないとのことで、広島市の病院を紹介されました。病院側でも頸髄損傷者の心臓手術は初めてで、受けるべきか否かの議論が医師と看護師(組合?)の間で交わされたと聞きました。
 全身麻酔で7時間にも及ぶ手術でしたが、心配していた肺炎や他の臓器のダメージもなく予想に反して(?)術後の経過は順調に行き、35日で退院することができました。
 入院中は、24時間体制で広島市の家政婦さんに介助をお願いしました。ベテランの家政婦さん4人でローテーションを組んで十分過ぎるくらいのお世話をしていただきありがたい限りです。手術後の狭い観察室で夜中立っておられたので「休んで下さいね」と声をかけると、「大竹さんは自分のことだけ考えればいいのよ。私は平気だからね」と微笑んだ姿は、昨年に三十三間堂で見た観音様のようでした。
 私はこのたびの手術を受けるに際して「信じよう!」と考えました。「信じるものは救われる」という言葉があるように、県内随一といわれる病院で心臓の手術ができることに感謝し、「全てを信じて任せよう。結果はどうあれ……」私に、こう考えるきっかけを与えてくれたのは向坊さんなのです。手術を1ヶ月後にひかえたころ、向坊さんがテレビに出演されているDVDを藤田忠さんが送って下さいました。
 その中で向坊さんは、「命の行く末は自分では決められない。他力(仏様)に任せればいい」という他力本願や「お陰」のもとに生かされている命という仏教の考えを述べておられました。私には、ただ漠然としたものしか解らなかった(今も)けど、気持ちがずいぶんと楽になりました。
 東広島市の2ヶ所の病院は手術をすることに対して、危険度が大きいとの理由で消極的でした。私は、このような状況で手術を決めた自分の判断は正しかったのかと悩みました。しかし、広島市民病院は、「やりましょう!」と言って下さったのです。お医者さんを信じ、手術できる体や環境をありがたく思えた時、不安は消え、むしろ安心の気持ちで手術を迎えることができました。
 広島市民でない私を受け入れて下さった病院やスタッフの皆さん、本当にありがとうございました。また、入院中お見舞いに来て下さった方々や励ましのメッセージを下さった多くの皆様に心より感謝申し上げます。今ある命が幾多の「お陰」のもとにあることに気づかされ、ブタ肉ジャガをありがたくいただかせております。
 追伸:術後が順調だったと書きましたが、やはり手術は大変です。麻酔が切れたあと脳が混乱(今も?)したり、気管内挿入による喉の痛み、味覚障害や痰の詰まりに苦しみました。ただ、38度を越える高熱が出なかったのが幸いしたようで、心臓は順調に回復して行きました。
※写真は術後11日目のものです。



 

広島県:Y.O.

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