私の『自立生活』……“たんこぶ”だらけの奮闘記
支援費制度施行を機に『自立』の第一歩を、それからもう5年目、「未だ自立できずの情けない自分」という、気がつくと必ずついている私の自己紹介の決まり文句にも磨きがかかって、老化と退化と焦りも日々増進。
「くそー、自立できずのまま自滅したくないぞ! 最後まで人間であり続けたいぞ! 自分の人生だから、自分らしく生きたいぞ! 自分の意志で、責任を持って、堂々と前を向いて生きたいぞ!」……そんな私の昔からのでっかい志、あまり口にすることもなかった私の人としての目標、「私はこんな人間になりたい!」をこの場で公言させてください。自分の弱さに負けないように、志を見失わないように!
もし私が消えた時、“可哀想”だったなんて言われたくない! 急に消えるなんて困るじゃないかと言われたい! いないと困ると言われたい! そんな存在になれるよう、必要とされる自分になれるような“今”を生きたい。
もし私が消えた時、バカな奴だったけど信頼できる奴だったよね。信じられる奴だったと言われたい! そんな自分になれるような“今”を生きたい。
もし私が消えた時、迷惑ばかり、面倒ばかりかけられたけど、出会えて良かった、かかわれて良かったと言われたい! ほんの一瞬の出会いでも、ほんの一瞬のかかわりでも、良かったと言ってもらいたい! そんな自分になれるような“今”を生きたい。
まだまだそんな自分づくりもままならず、まだまだ中途半端、努力足らずの現状だけど、いよいよ今年が正念場かな、などと心新たに気合いを入れ直して、皆さんからたくさんの知恵と勇気とパワーをもらって、私自身の『自立生活』を自分の手でつかみたい、自分の足で築きたい。前を向いて生きることに全力投球、命がけで「生きるを楽しむ」にチャレンジしたい。それが今の私です。
私は頸損四肢麻痺、一人世帯、区分6(C4・5不全麻痺)の重度訪問介護、支給量は1日7時間で月217時間、これでは生きられないよ! と悲鳴をあげても、悲しいかな、私の生きる地域ではまだまだ“重度障害者の自立”などあり得ない、考えられないこと。専門職である指定事業所の代表までが「ずいぶん多いですねぇ」と、思わず悲鳴も声にならぬまま溜め息に。
でも溜め息ばかりじゃ生きてもいけず、この地域で必死に生きようとしている未だ会えぬ仲間たちの生きる道を閉ざしてしまう存在にはなりたくない。私自身のためにも頑張りたい。
いつの間にか「すみません」ばかりが口癖になってしまった自分に喝を入れて、真っ当に「支給量を増やしてくだされ」と、“無視と言葉の刃”覚悟でいざお役所へ……。これもこの場で公言させてください。弱虫自分に一歩踏み出す勇気をください。
もともと根性なしで臆病で尻込みする私、毎日とことん落ち込んで、どん底辺りに思いっきりぶつかって、デッカイたんこぶもらって、また浮き上がる。毎日壁にぶつかって、またまたデッカイたんこぶ一つ、増やしていく。たんこぶは私の勲章、私の自慢です。そして、これが私の“たんこぶだらけの人生”“たんこぶだらけの『自立生活』”です。
長々とまとまりもなく、ごめんなさい! 最後に、こんな私が目指している「人生の達人・自立の達人」から教えてもらった言葉、私の教訓等々を少しだけご紹介します。
★泣いても笑っても同じ一日、どうせなら笑って過ごしたい!
★最大なるピンチは最大なるチャンス!
★迷ったら勇気を出して一歩踏み出せ。そこに新たな自分の道が開けているはず!
★今できることは、今、全力投球。後悔したくないから!
★最後に決めるのは自分。誰の責任にもできない、自分の人生だから!
★気負わず、焦らず、ありのままに!
★“ガンバッテ”ではなくて、“Do your Best!!”
★大丈夫、自分という味方がいるかぎりは!
★幸せは自分の心が決める!
★車いすにならなかったらきっとあなたと出会えなかった。
★行く道は異なろうと、はるかであろうと、想いは近くにあり!
★自分の身を削って得られる心のふくよかさ!
★差別をなくそうと言っている人が自分を差別してどうするの?
福島県:T.S.
短歌(4)
雀蜂窓を開ければ部屋に入り
我に一瞥(いちべつ)呉れて出てゆく
現在の住所に昨年11月に転居してきたのですが、以前住んでいた家のすぐ裏が山。前は畑という田舎でしたので、暖かくなると様々な動物が来ていました。
蛇や蛙は勿論のこと、夏になると部屋の灯りに誘われて夜はよくカブトムシ、クワガタが窓ガラスや網戸にぶつかることがありました。蝶は心を和ませ害をなすことはないのでいいのですが、たまに雀蜂が入ってくることもありこの時は雀蜂が部屋から出てゆくのをひたすら待つ緊張のひと時です。雀蜂に劣らず怖いのが、部屋の灯りに誘われてくる小さな虫たちです。網戸をしていても隙間から虫は入ってきます。
一度寝ているときに左耳に虫が入ったことがあるのですが、その時は難儀しました。自分では左耳の穴に指を入れて虫を取ることはできないので、それ以後夏は左耳にティシュを詰めて寝るようにしていました。田舎に住む者にとって夏の夜の虫は要注意です。
宮崎県:R.S.
連載特集!「介護する側、される側」
手も足も使えないとはどういう心理状況なのか、人を介助するとはどういうことなのか、たいへんな介助を続けていられるのはなぜか、などなど、皆さんに共通するテーマである「介護する側、される側」の体験談を連載特集として引き続きご紹介いたします。
<特集> 介助者とのやり取りのなかで
私が10年以上前に自立生活を始めたとき、先輩・障害者が言った言葉が忘れられない。「介助者は育てるもの、そして自分も育っていくもの」。なぜそう言ったのか? やがて身をもって体験することになりました。
今と違い制度が緩やかなときに、医療や福祉に関わってくれた学生が生活に入ってくれたことがあります。当然のことながら、重度の四肢麻痺、頸髄損傷などという単語は全く分からない。まずは自己紹介を兼ねて身体の説明と介助の流れ。さぁ、実際に動いてもらい「すぐに言葉の意味を理解した」。力加減というものがよく分からない。かなりイライラさせられるものです。内心、もう少し丁寧に扱ってほしいとか、そういうやり方ではないだろうと心の中で思うことがありました。生活に余裕のあるときには大丈夫なのですが、私自身が大きな行事などの直前だと気持ちに余裕がなくなり落ち着かないものです。それでも気分を変えて彼らの介助に付き合っていると時間は掛かりますが、やがて戦力となっていきます。そうなれば頼もしいものです。手間が掛かったから不器用ということはありません。最後まで残った人が良いのです。特別、私が何か言ったわけではないのですが、介助に入らなくなる人もいて残念に思います。
親元離れての生活をしていますと、親のありがたさがよく分かりました。なんせ呼べばすぐに来てくれますから。また、過去には看護師、施設の職員といった専門的な知識もあれば動きも軽い、そんな人たちしか知りませんでした。
遅刻もあり、心配してどうしたのかと電話をすると、
「すみません忘れました。すぐに行きますやります」(これはまだいい)
「一生懸命走ってきました」(これもまぁ許せる)
だが、面白かったのは朝の介助者が1時間遅刻したときです。
「Hさんにゆっくり寝ていてもらいたいために遅くきました」(呆れてものが言えない。思い出に残る名セリフでした)
ただ、遅刻も責められないときがあります。毎週定期的に入ってもらっていると遅刻も少ないのですが、不定期の場合にはやはり向こうも忘れがちです。この辺は強くは責められない場面です。そこで大きなカレンダーに印を付けてもらうなどの、お互いの中で事前に確認(工夫)が必要となります。
他にも介助者とのやり取りでは、言ったとか言わないというつまらない議論は止めるようにしています。この手のことは議論して、答えが出て勝っても負けてもうお互いに気分の良いものではないからです。また、長い生活の中では必ず貸し借りが出てきます。先ほどの遅刻の話ではないのですが、相手だけが遅刻をするわけではなく、私も外出すれば夜は電車の本数の少なさの関係などから予定より遅くなるときもあります。最近も、携帯電話を忘れて時間の変更の連絡ができなかったこともありました。なので、なるべく無用な議論は避けるようにしています。また、今夜は天気が悪いけれど来てくれるのか?と不安にもなります。大雪の日に歩いてきてくれたときには非常に嬉しかった。だから、お互いのなかで気をつけていかなければならないことなのかもしれないです。ただ、ボランティアではなく、それぞれの事業所から派遣してもらっていますので、どうしても言いづらいことがあった場合にはコーディネーター、いわゆる調整役に相談して調整してもらうこともあります。なぜこのようなことを書いたのか。利用者によっては攻撃的な方もいて、介助者も神経を使うことが多いと。それではお互いに長続きしないのではないかと思います。
他に私の介助者への口癖は「腰を痛めるなよ」と伝えています。「若いから大丈夫だ」と返事をもらいますが、意外と腰の重心の移動の仕方が分からないケースが多い。特に大きく体を動かすときには、屈伸運動をしてもらうことがあります。介護の専門職として仕事をしている人も腰を痛める場合が多いので、毎回のように指摘しています。
また、当初、思わぬ事故も経験しました。入浴中に相手が滑ってしまい、怪我を負わせてしまったことです。天井リフターなどもない風呂場だったのに、一人介助をさせてしまい起きた事故です。体力もある方なので任せてしまった部分がありました。幸いにも相手の方もよい方だったので、今後このような事故を起こさない対策を考えることで一件落着しました。もちろんお詫びもしましたし、保険には入っていたので金銭的には問題はなかったのですが、いまも記憶に残る苦い経験です。
いろいろな介助者が私に関わってくれました。ひとつ面白い話を。介助者のなかで学生であったが目指すべき道が高い人がいた。話しを聞いていても、ずいぶん勉強していたようでした。だからと言うわけではないのですが介助も丁寧でした。最初に教えた人のやり方を素直に実行していました。なんとなくの予想ですが、きっと彼は高い目標に向かって今も進んでいるに違いない。そう感じさせられる人間でした。何年か前の話なので、今どうしているのかは分からない(思い出したのでメールでもしてみよう)。何も高い目標だけじゃなく、介助者の中にはいろいろな特技や個性があります。たとえば、昨年の10月に引っ越しをしました。今まで生活していた所から新居に移りましたが、今まであった物を分解して新しい場所に組み立てていく作業は難しいものです。特に頸損の場合、ここに何がほしい、この位置に設定してほしいということが多い。日曜大工のできる人がいたのは、大きな手助けとなりました。
いつもこのような試行錯誤をしながら今日も生活しています。これからも生活に関わってくれている皆様には、いつも「どうぞよろしくお願いします」という気持ちでいます。私の雑感でした。
神奈川県:F.H.
<特集> 塵も積もれば……
福祉とまったく関係のない仕事をしていた自分が現在、頸髄損傷者のガイドヘルパーをしていることは不思議な感じである。
初めての障害者ボランティアのきっかけは、趣味的に通う野外活動の会場で養護施設の臨海学校の手伝いを依頼されたことに始まる。引っ込み思案なところがある自分なのに、なぜか迷うことなく引き受けていた。当日、車いすの方(今は筋ジストロフィーと知る)とは初対面、2、3人でグループになっていたこともあり、不安もなく楽しんでいる自分がいた。その後、知的障害者の機能訓練会、障害者のハイキングのサポートなどの障害者ボランティアを続け、その間に父が脳梗塞で倒れ、入院中の外泊時に排泄の後処理と食事介助をしたりしていた。約2年後に父が他界。
父を見送り、残された高齢の母のこともあり、もっときちんと専門的な技術を身につけたいと思い、2級のヘルパー資格取得を目指した。講義では主に老人介護の対応が多く、思っていた以上に細かな部分の介護については、不安を抱えながらなので困難の連続だった。ただ、車いすの方たちのハイキングのサポートを長年してきたので、車いすでの移動介助と車いすの操作にだけは自信が持てた。実習は受講した施設の職員同行であるが、きっと介護をされる相手の方も不安は同じであったと思う。どうにか資格の取得はできた。
ヘルパーの仕事として少しは自覚をしているつもり(自分だけ?)だが、現在、カイドヘルパーとして入っている頸損の方がレベルの良い方なので移動介助がメインのため、課題は食事、着替え、歯磨きといった細かな介助に対して今もって不安を抱えていることです。頸損の方の顔見知りもたくさんでき、介助の手伝いを依頼されるが障害部位は同じでも個人差が大きく、介助の方法もそれぞれ異なることを感じています。どのように対応したらよいのか不安に思っていたとき、障害当事者同士の話の中で『介助者を育てるのも生活をしていくには必要』の言葉を聞き、障害者ハイキングに初参加したときに『わからないことは本人に聞け』の言葉を思い出し、気持ちが少し楽になりました。少しずつですが、介助の方法を尋ねながらも手伝いをさせていただける方ができてきました。
初めての不安を抱えながらの介助は、受ける側も同じと思います。ひとつひとつの機会を大切にして実践経験を積み重ね、ひとつでも多く安心していただける介助ができるようになりたいです。時間はかかると思いますが目標です。『塵も積もれば山となる』の心を持って……。多くの課題はいつかなうかまったくわかりません。今は近頃から始めた課題をまずかなえたいです。
神奈川県:カメタロウ
|