今は昔、といっても35年前のこと。大学紛争も不完全燃焼に終わり、濡れた焼けボックイがプスプスと音を立ててくすぶっていた。世は平穏を取り戻し、再び繁栄に向け誰れもが邁進(まいしん)していた。こんな日常を苦々しく噛みしめながらも、何するともなく過ごしていた。まともな就職口とてなかった。コネを頼りに映画産業に潜り込もうと活動はしていたが、目指した映画会社も倒産した。
当時私たちは京都に住んでいて、着物地の絵付けをしていたカアチャンの収入で生活していた。いわばヒモである。こんな生活をいつまでも続けるわけにはいかない、との思いが募っていたが、ある時、単身東京に戻って椎名町のしもた屋風の安アパートにころがりこんだ。職はすぐに見つかったが、写真家の助手。給料6000円。こんなもんで2人暮らせるはずもないが、ここを足場にまた探せばいいや、と若いがゆえの楽天気分であった。
結局、助手生活は1年続いたが、仕事の内容よりも精神的に参ってしまった。徒弟制度の極みで、なんで大学まで行って、こんな使い走りのようなことばかりやらなあかんのや、と馴染めなかった。同期だったMが同じころ上京し、錦糸町のアパートで寝泊まりしながらCMプロダクションに通っていたが、ふたりして錦糸町の呑み屋でとぐろを巻いていたものだ。
そんなある日、突然カアチャンが東京に乗り込んできた。それはまさに、乗り込んできたという表現がぴったりの登場であった。酔いつぶれて早朝アパートに戻ってくると、3畳1間の万年床にカアチャンが鎮座ましましていたのである。直後の修羅場については書くに忍びないので割愛する。
いったん京都に戻り荷物をまとめて本格的に東京に引っ越すことになった。荷物なんて全然ないと思っていたのに、それでもトラック1杯の量になった。新しい住居は豊島園近くのこぎれいなアパート。6畳1間に台所付きであった。もちろん月給6000円ではやっていけないから、別の写真家についた。月給は確か1万円だったと思う。カアチャンも私の首に手綱をつけた安堵感からか、平々凡々ながらも物静かな生活が続いた。
ある休日のこと、ポット出のカアチャンが「銀座でも行ってみたいわ」と言い出し、電車を乗り継ぎ出かけてみた。今でもあるのかどうか知らないが、数寄屋橋のソニービルの1階で、オランダ名画クイズとやらをやっていた。オランダ政府観光局とKLM(オランダ航空)の共催だった。絵画の作者を当てるというもので、そんなに難しいものではなかったように思う。2人でそれぞれ答えを書き込んで、銀座通りの4丁目辺りをあてもなくぶらぶらと歩いた。
クイズのことなどすっかり忘れたひと月後、突然KLMから封書が届いた。開いてみると手書きの文字で「オランダ名画クイズに貴殿が当選しました。ヨーロッパへの往復航空券を差し上げますので、弊社までお越しください」と書かれてあった。「ほんまかいな、だれかのイタズラちゃうか」というのが最初の感想だった。カアチャンも「何千人も応募しているはずだのにね。おカネかかるんちゃう?」と半信半疑である。
行くだけ行ってみようか、と有楽町のオフィスを尋ねると広報室に通された。ここでお会いしたのが担当のKさん。この人とは縁あって25年後に再会することになるのだが、それについては後に触れよう。
Kさんはにこやかに笑いながら説明した。「羽田からアムステルダムまでの往復航空券をお渡しします。ヨーロッパ中だったらどこに行っても構いません。最初の宿泊はこちらで用意します。また行った先々での相談は弊社の駐在員がを受けます。条件はただひとつ、アムステルダムのライクス・ミュージアムに行ってレンブラントの絵の前で写真を撮り、訪問記を書いてください」。あまりの呆気なさに、多分私はキョトンとした顔をしていたことだろう。
「で、どこに行ってみたいですか」畳み掛けるようにKさんは言った。航空券の話自体に疑問を抱いていた私は、本心狼狽(ろうばい)していた。しかし、ここまできたら真実に違いあるまい。一息おいて思いをめぐらせた。ホントにヨーロッパに行けるのであれば、フランスとギリシャしかない。
大学の専攻は日本史であったが、フランス文学とギリシャ哲学ばかり読みふけっていた。フローベールとヴェルレーヌ。彼らが日々の生活し文筆活動をしていた国へ、いつかは行ってみたいとかねがね考えていた。「それだけでいいんですか」Kさんは何ともったいないという表情を作った。「じゃ今日中に発券しましょう」
あとはパスポートの申請方法、両替の仕方、所持品、その他の細々とした注意事項が続いたが、ほとんど頭には入っていなかった。その当時、ヨーロッパへの正規往復航空券は30万円を超えていたと思われる。月給1万円の私がヨーロッパへ行ける機会なんて皆無に等しいことであった。
新しい勤め先にこのことを告げ、休暇を申し出たのであるが、写真家はしばらく考え、もう来なくてよいというような意味の返事であった。まだ勤めて数週間であったが、早い話がクビである。しかし帰路の私に悲壮感は全くなかった。
日本人の海外旅行は極めて少ない頃であった。もしかするとこの欧州旅行が人生の大きな転機になるかもしれない。このチャンスを逃すべきではない。写真家の助手なんてもうまっぴらだ、という気持ちもあった。職は失ってしまったが、凡ゆる可能性を秘めた大海原が目前に広がっていた。
早速準備に取り掛かった。自慢じゃないが貯金なんて1銭もない。おやじ殿に無心して金10万円を借りうけた。学生時代に使っていたキヤノンの長尺ムービーカメラを処分して、ニコンのスチールカメラ2台と交換レンズを買いそろえた。どこにでも寝泊まりできるように、ワンダーフォーゲル部の連中が使っていたようなキスリングを買って、着替えや薬などを詰め込んだ。当時、こういう出で立ちの若者たちが世界中を闊歩(かっぽ)していて、その格好が蟹に似ていることからカニ族と呼ばれていた。
「I様、このままでは飛行機に乗れません!」と、突然JALから言われて大パニック! これは、沖縄へ出発する羽田空港での出来事である。
今年の7月下旬、3泊4日で義母の故郷である沖縄へ行って来た。家族と義姉の4人で、旅行するのは初めて。私だけが、初沖縄。出発の半年前から、インターネットで沖縄情報を集め、旅行会社に航空会社とホテル等を依頼した。早速、旅行会社から、JALの「May I Help You?」というお客様への質問表が添付ファイルで届いた。それには、障がいの内容や電動車イスのバッテリーの種類などが尋ねてあって記入して送り返した。過去、飛行機に乗ったら電動車イスを壊されたこともあったので、個人的に「プライオリティ・ゲストサポート」にも電話して、電動車イスの取り扱いや機内用のリクライニング式車イスの使用、座席の指定も頼んでおいた。細かいことまで確認しておかなくては、出発前にトラブルがあっては大変。だから、いつも旅行の時は、エレベーターの大きさまで確認するほど慎重にする。
準備万全で、当日2時間前に羽田空港へ行き、搭乗手続きを済ませた。そして、手荷物を検査し、出発ゲートへ。ここで、電動車イスからリクライニング式車イスに乗り換えた。あとは、機内へ移動する手はずだったのだが……。その時、JALスタッフから電動車イスのバッテリーの切り方を聞かれ、いつも通り電源を教えた。しかし、電源を切るだけではダメだと言われ、理由を聞くと「また、電源が入るおそれがありますから」と言う。「では、電源が入らないように切り替えスイッチをテープで固定すれば大丈夫でしょう」と言っても、「バッテリーのコネクターは、どこですか」と尋ねられ、「これは、ドライバッテリーなので、今まで電源を切るだけで大丈夫でした」と説明した。それでも、バッテリーを絶縁するためバッテリーを外して欲しいと言う。そんなことを初めて聞いたのでパニくった。コネクターやバッテリーの外し方も分からない。
そんな時、「このバッテリーは、ドライバッテリーではございません」と言い出したのである。怒りを抑えて、私が説明するより、電動車イスの業者から説明してもらうと電話をした。暫く、JALと話し合っていたようだが、業者の人が怒って電話を切ったと言う。普段、温厚な人なのに……。コネクターやバッテリーの外し方も分からず時間が過ぎて行く。そんな押し問答をしているうちに、11:45発沖縄行きの飛行機がターミナルから離れて行くのを見ながら大爆発。「飛行機に乗れないのなら乗れないと言って下さいよ!」と怒鳴った。「責任者を呼んできて下さい。」と告げると、すぐに責任者が来て、マニュアルを見ながら「ジェルの密閉型バッテリーは、ドライバッテリーじゃないので、バッテリーを外して欲しい」と言う。それを聞いて、「このバッテリーは、国際的にはドライバッテリーの部類のはずですが……。インバケアの電動車イスは、知っていますか?」と尋ねると「初めてです」と答えた。「インバケアの電動車イスを知らないで、ドライバッテリーじゃないと言えるんですか」と聞くとマニュアルを見ながら「ドライではありません」と言い切った。
それほど言われたら、バッテリーを外すしかなく、もう一度、業者に電話をして経緯を説明し、バッテリーの外し方を聞いていると、12:45発の沖縄行きも飛び去って行った。MちゃんとJALの技術の方で、何とかバッテリーを外すことが確認できると、次の沖縄行きの便が15:45だと説明された。その間、搭乗口前で見世物状態であった。出発から4時間も待たされ、家族皆グッタリ。
責任者に「コネクターやバッテリーを外すのなら、何故、事前に言ってくれないのか。事前に質問表を書いて提出しているし、プライオリティ・ゲストサポートでも何も言われなかった」と説明した。その答えは、返ってこなかった。アメリカのインバケアにバッテリーの件を確認して、報告書を提出するように要望した。
一番腹が立ったのは、JALが私ではなく、妻にバッテリーを外すように言い寄っていたことである。私に説明するように怒鳴っておいた。
到着の那覇空港は、羽田から電動車イスとバッテリーの取り扱いの写真が送られてきていたので、スムーズに済んだ。
旅行後、質問表を確認したところ、「(ご注意)の中には、希硫酸(腐食性液体)を使用したバッテリーの場合、危険品としての取り扱いが必要となり、バッテリーを車イスから外していただくことがあります。」と書いてあったが、ジェルバッテリーについては記載がなかった。
今回の問題は、どこにあるかというと、ⅰ事前にバッテリーを外さなくてはいけなかったことを知らなかった。ⅱ今まで飛行機に数回乗ったが、バッテリーを外すことまではしなくても良かったことにある。とにかく、事前確認の時に分かっていれば、どこのコネクターを抜けばいいのかとかバッテリーの外し方を調べておけたのだ。大きなアクシテントでも、なんとか沖縄に行かれたので良かったが、こんなに腹が立ったことも久しぶりだった。
JALは、時間の変更を簡単に考えているが、何ヶ月も前からリフトタクシーの予約をし、那覇空港に待たせているリフトタクシーのことも分かって欲しいものである。リフトタクシーの運転手さんがいい人だったので、4時間遅れでも待っていてくれたことを……。
JALから1ヶ月後に回答がきた。『日本航空では、「ドライバッテリー」を電解液の補充が不要で、軽量・小型、車イスからワンタッチで取り外しができるような蓄電型乾電池(ニッカド電池、ニッケル水素、鉛電池)と規定しております。(例:ヤマハJW-Ⅰ、JW-Ⅱ、アイシン精機TAOLIGHT等)これらのドライバッテリーでは、1回の充電で15km程度しか走行できません。それ以外の電解液を必要としない湿式電池(ジェルタイプ等)を「ウエットバッテリー防漏型」と規定しており、現在、長距離の利用に対応できる電動車イスのバッテリーのほとんどがこのタイプに分類されます。そして、自動車に使用されているような電解液の補充が必要なバッテリーを「ウエットバッテリー非防漏型」と規定しております。』
私が利用しているジェルタイプの密閉式は、「ウエットバッテリー防漏型」に分類されるそうです。輸送中の取り扱いは、「ドライバッテリー」や「ウエットバッテリー防漏型」にかかわらず、ショートしないように、車イスとバッテリーを繋ぐコネクター(接続線)を外すという。インバケアの電動車イスに乗っている方は、ご注意を……。
神奈川県:M.I.