はがき通信ホームページへもどる No.103 2007.1.25.
Page. 1 . 2 . 3 . 4 .
前ページへ戻る

 起こってしまった4回目の脊損! 何ということだ! 


 私はそれまで3度も脊髄損傷を負った。骨傷なしの不全損傷である。さらに4回目に遭遇することになった。悪運が強すぎるというか、悪霊が憑いているというか、われながら呆れてしまうほどであるが、どの場合も自分のせいではないので怒り心頭に達してもいる。
 頸損の皆様のご苦労を考えると、不全損傷は残存能力が多く、ある意味では「ぜいたくな悩み」と思われるかもしれない。でも少しお付き合いをお願いしたい。
◇3度の脊損まで
 まず始めに3度の脊損について振り返っておこう。
 第1回目の脊髄損傷は、1984年、高校3年の時、体育の時間にバスケの試合中他の人に接触して転倒し、脳挫傷と骨傷のない中心性頸髄損傷になったことである。不全麻痺でリハビリによって何とか立位と歩行は可能となり、卒業のため退院した。その後は通院しながら専門学校に通った。見かけはノーマルだったが、左の上下肢に麻痺と痺れ、上肢の麻痺の進行、激しい頭痛と肩凝り、頸部の痛みが残った。専門学校卒業後、麻痺の進行と強まる痛みを抑えることにまず取り組んだ。1990年、本格的な疼痛緩和をめざして、名の知れた総合病院のペインクリニックを受診していろいろな神経ブロックを試みた。
 2回目の脊髄損傷はこの時起きた。最後のブロック試しとして、胸椎1〜2あたりに硬膜外に注射針とカテーテルを留置して麻酔薬の持続注入をおこなったが、留置した装置の管理が悪く感染を起こして髄膜炎となり、そこから脊髄炎が引き起こされた。医原性脊損である。この結果、ノーマルな知覚があるのは鎖骨上だけとなったが、下半身にある種の知覚シグナルは残った。立位歩行に杖が必要となり、用心のため車イスも必要となった。痙性が強まり、痛みの範囲が広がり強まった。この病院では、頸髄損傷について「詐病」扱いされ苦しんだ(この辺の事情については、「はがき通信」74号に投稿)。退院後リハビリに励み、気持ちを入れ替えて障害者枠公務員試験を受け、区役所に仕事を得た。生き甲斐を求めて障害者スポーツも始めた。
 3回目の脊損は2003年に職場で起きた。机から立ち上がった時、床にムキ出しに張り巡らされている電話と電気の配線に引っかかり転倒したのである。職場には障害者の労働環境への配慮はなかった。救急車で病院に運ばれ、C4付近に腫れが認められる中心性頸髄損傷と診断された。これによって立つこと、歩行することは不可能となり、常時車イス生活となった。痛みと痙性、過敏反応、自律神経過反射が強まった。それでも職場復帰をし、低下したADLを考慮に入れつつも障害者スポーツを再開した。どんな状態でも記録を狙う、それを生き甲斐に据えた。そして、何とかアテネパラリンピックで銀メダルを獲得した。次は北京だ。そんな矢先の4回目の脊損だった。
 受傷をして、ボディイメージがすっかりと変わってしまい、新しい身体イメージや生活環境を確立してなんとか社会復帰を果たす。これが、大方の頸損の辿る道。しかし、新しい生活の中で次の頸損が起こってしまい、再び振り出しに戻ったとしたら貴方ならどう乗り越えていきますか。それも回数を増すごとに麻痺や疼痛がひどくなっていき残存能力が少なくなってきたとしら、どうしますか。
◇第4回目の頸損−それは2006年8月14日に起きた
 職場のエレベータの出口でのことである。「落ちた」と瞬間的に感じた。この時、車イスは背中向きに倒れていった。直接頭を打ちたくないと、わずかにアゴを引いた。これでバタンと倒れるイメージを描いて、背中を床に打ちつけるだろうと思った。ところが、現実はそんなに甘くなかった。段差が10㎝以上あったために倒れ方に勢いがあり、身体が折れ曲がり膝が顔の方へ向かってきた。ちょうど、でんぐり返しの様子となった。バキバキと鳴る背中の音を聞きながら、身体がロールケーキのように回ってきた。両肩と後頭部だけが私の身体を支える状態になった時、このまま1回転をしたら頸を脱臼(C2〜4のレベルで)するかもしれないと(このことは死ぬ可能性を意味する)勢いのついた身体を右側に捻った。右側を下にした状態で倒れた。
 そして、私の身体はピクリとも動かすことができなくなっていた。一緒に乗っていた女性の悲鳴で誰かが集まってきた。ほんの数秒のことだけが鮮明に記憶に残っている。この後から最初の病院のベッドに落ち着くまでの記憶は、まだらな状態の断片しか残っていない。
 もう少しくわしく説明しよう。2006年8月14日の月曜日、東京都の一部地域で、朝7時30分ごろから大規模な停電があった日のことである。停電騒ぎも9時ごろには落ち着き、この日もごく普通の生活が始まった。そして、いつもの時間どおりに10時30分トイレへと向かった。私の毎日の目安として、10時30分と昼休みと15時30分の最低3回はトイレへと向かう。これは1日中座っていることで、お尻への圧力が負担となり褥瘡ができることを避けたり、身体上のトラブルがないか確認する。そして、もちろんトイレのため。気を付けていないと、半日以上トイレに行かずに、おしっこが膀胱に貯まりすぎてしまい身体に大きな無理をさせてしまう。実際に感じる尿意と身体がトイレを必要とするタイミングが一致しない時があるからだ。
 ふだんは手動の車イスを使用し、職場では利便性のつごうで重さ30㎏の簡易型電動車イスを使用している。「頸髄損傷」だが、幸運なことに不全損傷という状態のために首から下が全く動かないということではなく、汚いながらもペンで文字を書き、パソコンを操り、車を運転して通勤をしている。そんな日常の中で、アクシデントは突然に起こった。
 私の働く4階のフロアには、車イス用のトイレがない。3階・2階にある車イス用トイレを使用している。このため、築40年を誇るエレベータに乗らなければならない。定員9名か11名の2基あるエレベータの右側が点検中で使用ができず、左側にもう1人の女性と前向きに乗り込んだ。3階に着いてエレベータの扉が開いた。女性の「どうぞ(後に人はいないの意味)」の声を聞き、バックで(後ろ向き)エレベータを降りようとした瞬間に落ちたのだ。エレベータの乗っているカゴが3階のフロアの地面に着かないうちに扉が開いたのだ。エレベータを降りる時に、その先に何もないなどと考えて降りる人がいるのだろうか。奈落の底へ落ちたと感じたのは、この一瞬でもあり、この事故の後に続く闘病生活への暗示でもあった。
◇世界大会を目前にしての災難
 虫歯の治療も終わり、JAPANのユニホームも手元に届いて、後は荷造りをするだけだった。事故からちょうど2週間後の8月27日から9月12日まで、私はオランダのアッセンという小さな都市で開かれる障害者の陸上競技世界大会で「砲丸投げ」に参加するための準備をしていた。必要な休暇は有給休暇を取らなければならないため、夏休みを5日間分と有給休暇8日分の届けを出し、留守の間に同僚にお願いをする仕事をまとめていた。職場を土曜日、日曜日を含めて17日間も空けることに心苦しさはあった。しかし、どんなに無理をお願いしてでも参加をしたい大会だった。理由は、2008年北京オリンピックの1ヶ月後に開催される北京パラリンピックへの国別での、第1次参加人数が決められる大会であったためである。当然、参加をしてきちんとした成績を残せば、自分の北京パラリンピックへの道が開かれるのだから。
 昨年の12月に予定が決まってから、病気・怪我に細心の注意をはらっていた。食事、仕事、痛みをコントロールするための薬の調整をおこなった。もちろん、ふだんは練習をしていないと公言をしているが、自分に必要なことの中で最低限の練習項目を選び、体力的に無理のないトレーニングを重ねていた。砲丸の投げ込みの練習でも、アテネパラリンピックで4位入賞で記録した5m01を超える数字も出ていた。後は、参加をするだけだった。
 参加できないと直感的に確信したのは、救急車で搬送された日赤医療センターの救命救急外来で「ステロイド8000単位から始めよう」という医師の声を聞いた時だ。陸上競技の世界においてドーピング検査の禁止薬物の対象になるステロイド剤は、どのような使い方をしても大会2週間前に大量投与の点滴でながしたら、万が一にでも渡航できる身体に戻っていても、ドーピングチェックで参加できなくなることは13年間の陸上競技生活の中で知り得た事実。
 今回病院に運び込まれた時、痛みに苦しむ私に、医師から鎮痛剤を使うとしたら何を使っているのか問われたので、ある注射薬の名前(ソセゴン筋注)をあえてあげた。この薬も禁止薬物の中でも上位に位置付けられる麻薬に近い薬剤である。2004年アテネパラリンピックの参加が内定した時に、ドーピングの問題で迫られた決断は「治療優先で、この薬の使用を続けてパラリンピックを諦めるか、多少の無理をしてでも代替の薬に切り替えるか」だった。
 そして、この時に私は、自分の生きていく糧となり支えとなっている陸上競技を続けることを選んだ。身体の痛みで睡眠時間が1日2〜4時間しか取れない日々が始まった。身体は痛みとストレス、疲労でボロボロの状態になっていた。アテネの選手村に入ってから3日間、点滴を受けチームドクターの往診を受けたが、ドクターと何を話したのかさえ記憶に残っていないほどだった。それでも、自分が参加できる種目は2種目、円盤投げと砲丸投げだ。どうしても両親に1個ずつ金メダルを渡したい一心で試合に挑んだ。円盤投げは、11m09の世界新記録を出して銀メダルだった。砲丸投げは5m01の日本新記録を出したが、4位入賞で終わった。
 この時に、4年後の北京でのリベンジを誓った。負けたままでは終われない。やはり、勝負の世界だから勝って金メダルでなければ意味がない。アテネパラリンピックを通じて自分の夢が、そんなに無謀な挑戦とは感じなくなっていた。手が届く範囲になったと感じた。それなのに何故、使用をしてはならない薬品であることを知りながらも医師に頼んだのか。答えは簡単だ。ステロイドの点滴をしてしまった以上は、もうオランダは諦めなくてはいけない。それなのに何も、全身を縛り付けるような雷に打たれたような痛みを耐える理由も必要も何一つない。自分の手足の感覚が麻痺していたため検査の間中、「手がない、足はベッドの上に乗っているのか」と、しつこいくらいに医師や看護師に問うた。激しい痛みが薬の薬効を超えて襲ってくる。何故、自分がこのような状況を受け入れなければならないのか答えはなかった。
◇労災の認定もされないとは
 エレベータから落ちて頭や首、背中等を強打したことで私の身体にはいろいろな現象が現れていた。朝8時30分に食べたおにぎりが消化することができずに、突然18時ごろに大量の嘔吐物として口から流れ出た。吐き出す力がなく、危うく窒息しそうになっているところで吸引機を使って吸い出してもらった。トイレに行く途中だったにもかかわらず、そして点滴をしているのに尿意を感じない。カテーテルという排尿の管から出ていた量は、驚くほどに少ない。
 身体の中でも見えない闘いが起こっていた。飲み込みができないので窒息の危険があり、細かくカットされたおかずや軟らかいおかゆのようなご飯が出されるようになったのは4日後のことであった。この病院での診断名は頸髄損傷。ただし、骨折や脱臼、出血はないと言う。それこそ幸運であったが、それなら何故身動きができないのか分からない。事故前の私の身体の状況が分からない中での医師の説明では、全く症状が治らない訳ではなく、年単位で考えてくださいと家族には説明をしたそうだ。 
 一方で私は、この病院ではリハビリテーションの分野があまり得意ではないと感じて、筋肉の固まっていく様子を自覚し始めた頃に、転院の話が切り出された。通常、急性期が落ち着くと転院の必要性があることは分かっていた。しかし、受け入れ先を探すことはとても大変な作業である。8月の猛暑の中、母はくやし涙と汗にまみれて転院先を確保してくれた。本当ならば家に帰りたいと思うのが普通の気持ちだが、身体は家に帰れる状態ではなかった。
 四肢が突っ張り、30分と車イスに座っていられない、1人で食事も排泄も着替えも寝返りも何もかもができない。排尿のためのカテーテルは付けたままで、天井を見つめるだけの日々だ。転院先は、2003年3月に職場で転倒をして頸を痛めた時にお世話になった病院に決まった。受傷して10日後、転院となった。これは異例の速さであり、ふだんお世話になっている主治医のお力添えも大きかった。転院先での診断名も、やはり(中心性)頸髄損傷であった。これは、骨に損傷がないが頸髄に大きな負担がかかって障害が出現する意味である。障害レベルの診断は、残存機能レベルC4〜5であった。
 事故の2日後に家族に頼み陸上競技連盟に私の身に起こったことを話してもらい、オランダ行きを正式に辞退した。その後、大会の結果等をメールや手紙で知らされた内容で、ハッキリと突きつけられたことはやはり、北京への道は限りなく断たれてしまった状況に置かれていること。予想していた結果ではあったが、空虚な気持ちが心を支配していった。
 なんで2度も職場でこんな怪我をせんとアカンのだ。どんな形にせよ「頸髄損傷は重大事故」だ。前回3回目の事故の時は、歩いて生活をしていたのに、車イス生活を強いられるようになった。それでも入院と通院費用は1年6ヶ月までで、それ以上はサポートも保障もなかった。頸髄がMRIの所見で腫れていたのにだ。言い分は「あなたは、もともと1級の障害者だから、歩けなくなったのは怪我がなくても加齢のためです」と通告してきた。今回は、公務災害(労災)の認定の結果さえ連絡がない。勤務先の区役所の説明では事故のあったエレベータは、その日のうちに修理をしたので今後2度と同じ事故は起こらない。今回事故のあったのはエレベータが古く、故障の原因になったセンサーは定期点検の項目に入っていなかったので仕方がないとのこと。これからは点検回数を増やすようにする。この2つだけであった。段差が15㎝以上であればエレベータ会社の責任が問えるが11㎝なので、それもできないとのこと。それで終わりにしてしまう形であった。
 ちょっと待て。実際に落ちて怪我をした私はいったい何なんだ。古いエレベータの点検をしてもらうためにこんな怪我をした訳ではない。毎晩のように、麻痺して感覚がおかしくなった手や足を目覚めるたびに探さなければならない恐怖。痛みのために本格的なリハビリテーションが始められない現実。3週間以上も頸の状態が安定しなくて風呂にさえ入れない。そして、それまでどんなに辛くてもシンドクても我慢して仕事に行き、陸上を続けてきた意味は、両親を世界一の親にしたい、パラリンピックで金メダルを取り、最初に怪我をしてから約20年以上苦労をかけた両親に形で感謝を表したいと思っていた気力は消し飛んだ。
 この時に私は、ハッキリと自覚をした。事故の時にとっさに身体を捻り横に倒れ込んだが、知識がなくてあのまま頸を脱臼していたら死んでいただろう。しかし、死亡事故になっていれば警察も介入することだろうし、少なくともこんな苦しさや悔しさを味わう必要もなかった。そして、役所は誠意のない意味のハッキリと分からない理不尽な回答で解決をしようとして、うやむやになんかできなかったハズだ。今まで、自分を支えていた「つっかえ棒」がなくなった今、何のためにシンドイ思いを我慢して生きていかなければいけないのだろうか。
 前回の職場での事故の後、住んでいたエレベータなしの3階のマンションでは生活が難しいと、父は自らの退職金を全て使い、私が主治医のいる病院への通院と会社への通勤に不便のない所に土地を買い、バリアフリーの家を築いてくれた。車イスの私のために、月極で借りる駐車場は将来的に不安だと駐車スペースまで考えての家だ。両親の老後に必要であるはずの蓄えを全て使ってくれたのである。これで、不自由な身体ながらも家族でホッとして暮らせると思った。そんな小さな幸せを崩されてしまったのだ。
 何故、3年弱の間に職場で頸髄損傷という重大事故に遭わなければいけないのだ。私が障害者であるからなのか。職場に放置されたムキ出しの電気コードに引っかかって転倒した私に非があるのか。職場にあるエレベータが中途半端に地面に着かず扉が開いて、そこから転落した私は車イスだったから仕方がないことなのか。頸損という障害を持った(しかし、歩行ができた)人間が2度も頸髄損傷という重症を負っても、何の問題意識を持たずに起こった出来事の重大性を考えていない、この役所の意識はいったいどうなっているのだろう。これが、万が一お客さんで障害を持っている人が巻き込まれた事故だとしたら、「古いエレベータですから。今後は2度と事故はないですから」と説明に行って済まされる問題なのだろうか。

◇誰か教えて欲しい。答えをください。
 私がエレベータから転落をして怪我をしたという事実に対して、何故その日のうちにメンテナンスができるようなことを放置していたのか。私が職員であるために、何の誠意もない言葉しかなく、今後何のサポートも受けられないのか。いったい何故、こんな無駄な怪我をしなければならなかったのか。こんな建物が公共の場所にあっていいのか。この建物の名前は「S区役所本庁舎」。エレベータは庁舎内にある公共の乗り物で、来庁者も利用する物である。そして、私はこの区役所に常勤している正規の職員である。
 事故から2ヶ月(10月24日現在)が過ぎ、未だに公務災害(労災)の認定はされていない。その上に、10月21日の朝日新聞夕刊に突然、事故の記事が載せられていた。それも私本人への確認が一切ないままで、事実と異なることが書かれていた(asahi.com15時35分更新分)。「エレベータの扉の誤作動の原因は私の車イスのタイヤが扉に接触していたから起こった可能性がある」とのこと。ふだん使っているエレベータの扉に接触しているか否かぐらいの判断力は私にはある。何も事情を知らない人がこの記事を読んだら、私に非があると読み取れてしまう。実際に私も友人からの連絡でこのことを知った。
 現在、退院のメドはもちろんたっていない。この先、さらに転院をしてリハビリテーションが必要となるだろう。事故の前の身体能力までに回復するという保証もない。古くからお世話になっている主治医も「今回は今までどおりにがんばるのは、かなり厳しい」と言う。家族も体力的にも精神的にも、入院をしている私を支えることに限界が感じられる。正直な話として、未だに生きていることに後悔をしている。人様は気軽にがんばれと言うが、何をどうがんばれと言うのか。今まで必死になって生きてきた。そうやって、しがみついて生きてきた挙げ句がこの結果なのか。こんな人生なんか、もういらない。老いた両親を悲しませ、辛い思いをさせて、入院してベッドの上にいる自分をどうやって愛しいと思うのか。生きていくための支えもプライドも人を信じることさえも失ってしまった今を、がんばる理由も気力もどこにも残っていない。弱者は声を大にして起こった事実を話す場所さえないのか。理不尽なことをおかしいと訴える場所はないのか。
 追伸:現在いる病院の理学療法士さんと作業療法士さんに手伝ってもらい、本当に落ちた段差は11㎝なのか検証をしました。私の話している状況での転倒は確かに起こりえることは充分に考えられる。しかし、それだけの勢いが付くとしたら、本当に11㎝の高さだったのだろうか。もう少し高さがあった可能性も考えられないこともない。あくまでも、素人の検証ですが。
 2006年10月24日
 
東京都:K.S.


 編集者追記:この原稿は「はがき通信」前号に投稿されたものですが、スペース等の関係上、今回号での一挙掲載とさせていただきました。K.S.さんは1月4日より、Kリハビリテーション病院に転院予定だそうです。なお、このエレベータ事故は、毎日新聞2006年12月11日付の夕刊に実名入りで大きく報道されました。


 リクライニング電動車イスで新幹線に乗る 

50歳、C4、頸損歴13年目、施設10年目、人工呼吸器、電動車椅子使用

 表題の件は、人によっては何でもないこととして普段から実行していらっしゃる方が多いと思いますが、私が実現するのには2年かかりました。年末にあたり、今年の一つの成果として経過報告させて下さい。
 2004年5月〜6月:この年の6月中旬に新幹線を利用して東京まで行きたいと考えて、5月の上旬からJR東日本のホームページの問い合わせフォームから「車イスを使うに当たって、乗ることのできる新幹線に制約(『とき』だけとか、『MAX』だけとか)はありますか?」と問い合わせたところ、車イスの大きさについてメールでの逆質問があり「カタログ上、幅=60cm、長さはギャッチダウン時179cm、高さはギャッチアップ時140cm」と伝えたら、「車イスの幅×高さ×長さ=70×120×120cmの制限値があって、ギャッチダウン状態のスペースを確保できないのでNG」ということでした。同じような車イスに乗っている知人に聞いてみると、新幹線を利用していると言います。差異は利用時のギャッチ角度のきつさぐらいなのに、そんな杓子定規な返答もないものです。
 そこで、まずは新幹線最寄り駅に行って、駅構内を通るのに問題はないかを確認しました。エレベータは狭いのですが、新幹線ホームまで行くことができました。そして、一提案「私と同様に電動車イスをリクライニングして乗車の必要な新幹線利用経験者によれば、後ろの席の人から了解が得られればリクライングしたまま乗車可能とのことでした。私の場合、付き添いが1人つきますので、その人の席を私の後ろの座席にしてもらえれば、長さ方向についても問題ないと考えられるということになりませんでしょうか?」と再度問い合わせたのでした。回答は「他のお客さまに、その都度のご案内はいたしかねますので、前回ご案内させていただきましたサイズ内にてご利用いただくことでご理解をお願いいたします。」とまたもそっけないものでした。
 知人に言わせれば職務怠慢! また「メールでは表面的な交渉しかできないので電話でねばり強く交渉する」よう助言も得たので、私の場合手が利かず介助が必要なのですが、思い切ってJRに電話してみました。最寄り駅から新潟支社さらに本社まで電話を廻されましたが、時間切れのためこの時の新幹線利用はかないませんでした。一応、次回のために再度問い合わせフォームから要望を入れましたが、結局はゼロ回答でした。
 2005年1月〜2月:次の新幹線利用希望は年が明けてから訪れました。そこでまずは、電動は置いておいて、手動ででも新幹線に乗ってみなければ問題点がわからないだろうと考えて以下を提案しました。「今般、私の手動のリクライニング車イスについて、必要時フットレストを引き下げることによって、大きさ制限値内に入れることができることを確認しました。私の手動のリクライニング車イスで新幹線は利用可能でしょうか?」これに対する回答は、「使用時に制限値内でなければダメ」というものでした。
 「使用時」がキーワードです。乗っちゃえば大丈夫だから強行乗車してしまえという意見もありましたが、列車内部の状況を想像できない私は強行乗車は思い止まったのでした。
 2005年6月:列車に乗ることにどんな問題があるのかを知ることを目的として、JRではなく第3セクター路線の列車に乗ってみようと考えました。電話で第3セクター本社に乗車を申し入れ、聞かれたことだけ必要最小限の回答を行なった結果、乗車に何の異議もありませんでした。
 乗車当日は、手動のリクライニング車イスで行きました。往路は最後尾車両の運転席の横の比較的広いスペースに入って、ゆったりリクライニングして楽だったのですが、復路の列車には「車イス席」なるものがついていて、そこに案内されました。そこは、列車の出口端の向かい合わせ席の片側の座席をはずしているだけのものでした。
 なるほど、フットレストを下げてギリギリ入るスペースで、電動車イスでは通路にはみ出てしまったでしょう。実際に乗ってみなければわからない問題でした。しかし、電動で列車に乗りたいならば往路と同型の列車を選べばいい訳です。
 2005年11月:新潟までは通常車で行くのですが、この時は費用が高くついても新幹線の利用機会にしようと考えました。前回2月交渉のキーワードは「使用時」だったので、問い合わせに「フットレストを引き下げた状態も使用状態の一つです」の一文を加えました。回答は「列車の乗降時に限らず車内でのご利用時を含めて、常時車いすのサイズが制限値以内のものであればご利用いただくことは可能でございます。ただし、繰り返しになりますが、列車の乗降時のみに限らず車内でのご利用時においても常時車いすのサイズが制限値に収まることが必要となりますので、ご利用の際には充分にご注意いただきますようお願い申し上げます。」でした。繰り返しの注意はありますが、今回はダメという表現はありません。
 キーワードは「常時」です。私が「常時」ある程度の角度を保って車イスの長さ方向を収めておくには、呼吸器が必要です。問題は呼吸器内部バッテリーがもつかどうかなのですが、使ったり使わなかったりして節約して使えばいい、仮にバッテリーが切れても吸引さえできれば何とかなるという心積もりでした。
 そして、手動のリクライニング車イスで実行。新幹線『とき』には車イス席として、8号車の最後尾12番13番の3列席の内C席をはずした形に車イス席が用意されていました。2席分使えれば電動でも大丈夫そうです。
 一方、8号車にはプライベートルームといって、通常は鍵がかかっている個室があります。この時は車掌さんにお願いしてそこを使わせてもらいましたが、そこは入り口が狭くて中もキツキツで、電動だと難しいということもわかりました。さらに、新潟駅でホームに止まっていた2階建てMAXの内部の車イス席を付き添いの人に写真を撮ってきてもらったのですが、イスが用意されていてそこに移る形式らしく、リクライニングの必要な私には難しそうです。また通路も狭いそうです。
 この時点で私の当初の問い合わせについて「私にとって『とき』はOK、『MAX』はNG」という回答が得られたのでした。そしてこのときの経験で、ようやくJRが懸念していたことがわかった気がしました。懸念点が私にとってどうなのかはJRからは個別事項なので「その都度のご案内はいたしかねます」と扱われれば、つまり同じ障害でも千差万別なのにそれを一律に斟酌(しんしゃく)することになり、私のように新幹線に乗れた人をも問い合わせ段階でNGとして排除してしまう結果となってしまいます。
 2006年6月:ようやく、当初望んだリクライニング電動車イスで新幹線を利用する機会が訪れました。新幹線『とき』の8号車の最後尾の車イス席に限定されます。12番13番2席分のスペースが必要なので、混雑する時期は遠慮すべきです。以上の制約条件はつきますが、新幹線を利用できるのですから何ということもありません。
 一方、在来線のつなぎが心配でしたが、駅員さんは親切であり何の問題もなく横浜まで行って帰ってくることができました。
 振り返ってみると、私がホームページから問い合わせを行なったことで問題をこじらせてしまったかも知れません。JRは私の状態を知らず、私も新幹線内部を知らず、そんな中での交渉ですからお互い踏ん切りがつかず、時間ばかりがかかってしまいました。最初から下見に行った最寄り駅に相談し続けたら、案外あっさり新幹線乗車を実現できていたような気もします。
 2006年12月30日記

 
新潟県:T.H.


 『中島虎彦歌集 とろうのおの』は反戦歌集ならぬ反省歌集だ 

C5損傷20年、58歳♂

◇サマワ出兵に危機感をいだき
 巻頭にかかげられた津軽三味線奏者高橋竹山のことばが、本書の立場を象徴している。《まなぐの見えねえもんにとって、一番ひどかったのは戦争だったな。戦争になると、まなぐの見えねえもんは、役立たず、言われて、生ぎていがれねえもんな。したはんで戦争だば絶対まいねじゃ》作者の中島さんは、佐賀県の過疎の村に住む頸髄損傷者だ。重度障害者がなんとか生きていかれるのも平和であればこそ。戦争が始まろうものならバッサリ切り捨てられるのは目に見えている。「大川にポイってなもん猫の子にかぎらずご用心ご用心」
 2003年のサマワ出兵に危機感をいだき、「非戦の願い」をこめた短歌を2006年に撤退がきまるまで首相官邸のホームページに配信しつづけてきた。相手にされるわけがない。そんなことははなからわかっている。だからおのれの短歌は小泉総理やアメリカのネオコンなどに対しては「蟷螂(とうろう)の斧(おの)」であり徒労に終わるだろうと覚悟して「とろうのおの」と名づけたのだ。「カーテンの襞(ひだ)に閉じ込められているおはぐろトンボほどの雄叫び」しかし絶望しているわけではない。言霊の力、祈りの力を信じて短歌を発信しつづけている。「ヒロシマの徒労のような祈念ゆえここまで使われずにすんでいる」
◇反省のひと
 「腰抜けと言われたくないばっかりに憲法だってねじ曲げてゆく」「雪おろしの自衛隊ならたのもしくサマワへ向かうリアリティーのなさ」のようないかにも反戦歌らしいものも中にはあるが、それは少ない。車椅子の低い視点からいきりたつひとびとを三白眼で見上げながら「えらそうに」とつぶやいているようなものが多い。「戦争は必要悪という人のローレックスがぎらついてくる」「国益を言いつのる人自分さえよければいいかのように聴こえる」
 「戦友とは人を殺しあった友達という意味ならば裏声になる」これはまた思いきったことを。鋭い歌だ。だが本書の特徴は糾弾攻撃よりも省察反省にあると思う。かくいうあんたはどうなのよ、かくいうおのれはどうなのよ、といつも振り返っているのが中島虎彦という歌人だ。「雑踏のなかの私をもうひとり別の私が見下ろしている」
 「がさつにしか言えぬ農婦と知りながらやや心臓をえぐられている」のような家族関係の苦しさや、「棚田までのぼってくれば減反のこれではまるでナズナ畑か」のような過疎の村を詠んだものにも秀歌はたくさんあるが、ここでは「反省」に焦点を当ててみたい。
 「タマネギを廃棄している夕空が北までずっとつながっている」北は北朝鮮だろう。同じ空の下、かなたでは飢餓に苦しみ、こなたでは農作物を踏みにじっている。
 「かの国をわらう六十年前のこの国をわらうように苦く」どうしてあんなに悲惨な情況に置かれていて人民は反乱を起こさないのかねえ、といったって、戦時中の日本で反乱を起こした者などいるのか。
 「山道の不法投棄にみる民度となりの国のことは言えない」テレビを見ていると上から下まで我欲ばかりでうんざりする。
 かくいうおのれはどうか。
 「捨てきれぬキトクケンエキ族議員から電動車いすまで」評者は最近車椅子をあたらしくしたが、役所から来た「補装具交付通知書」を見てこんなに税金を使っているんだなあと恐縮してしまった。だからといって自費でやりますとは申し出ない。
 「えらそうな日誌書きつぎクーラーをつけっぱなしのことにはふれず」体温調節ができないからしかたがないとはいえ、気が引けるのね。
 「アリバイのようなものかもしれないと『とろうのおの』を更新している」おのれにきびしいひとなのだ。
 そんなに反省ばかりしているから鬱憤(うっぷん)がたまる。「大雨のあと濁流に身を乗り出してどやしつけている誰にともなく」まわりにひとがいないのをたしかめて。
 ユーモラスな歌も少しはある。「勲章を打診されたらどう言って断ろうかと頭が痛い」「焼酎を変えてうんこが出なくなる違いのわかる男のお腹」
 「うれしの川沿いの桜をこの春も飲んだくれてゆく文句あっかあ」その意気その意気、たまには発散しないと鬱病になっちまうよ。元気出していこうぜ虎ちゃん。

編集部員:藤川 景

このページの先頭へもどる  次ページへ進む



HOME ホームページ MAIL ご意見ご要望