車椅子からの目線
皆様方の真剣なご投稿の中に割り込んで、前号に引き続き、性懲りもなく世のため人のためにならない不謹慎な書き込みで申し訳ございません。
皆様良くご存じのように、車椅子に乗っていると視線は自ずとあのあたり? に……なるのであります。以前、若い娘さんが(娘さんはだいたい若いのですが)Gパンのファスナーを全開のまま歩いて来たので迷った挙句、思い切って注意してあげたらサッとファスナーを引き上げて、何事もなかったかのような顔をして通り過ぎて行ったのであります。 病院で知り合い(尻合いではない)の娘さんが超ミニスカートを穿(は)いていたので、「それは短か過ぎるぞ」と言ったら「これくらいはどう?」とパンツ丸見えのところまでスカートを引っ張り上げました。 ♪目の毒 気の毒 ふぐの毒 毒消しゃ要らんかね〜♪ 今時の若い女性には太刀打ちできませんな〜。 バンコクの街で娘(私の娘同様のネパール人)に車椅子を押してもらっていたら欧米女性3人の直ぐ後ろを行くので、「お尻ばかり見えるから追い越しなさい」と言ったところ、「お父さんは見えるのではなくて見るのです。横を向きなさい」と、ぬかしおったのであります。因みに彼女の姪はシリシリ(多分ニックネーム)、バンコクで大変親切にしていただいた障害者作業所チーフの女性は、シリポーンという名前です。 私は身も心も純真無垢、決してH爺ではないと自認していますが、古来、人口に膾炙(かいしゃ)された「久米の仙人」の例もあり、男性のあのあたり? には目が焦点を結ばないところをみると、ひょっとして、ひょっとすると私は「?爺」なのかもね。(>_<) 福岡県:H・M E-mail: bistari_2@ybb.ne.jp
台風狂想曲
みなさんこんにちは、Iです。この時期は、もう台風シーズンは過ぎ去ってしまいましたが、8月、9月と、大型の台風が3つも立て続けに九州を直撃しました(これを書いている時にも大型台風22号が東海、関東地方に上陸しそうというニュースを言っています)。
16号は、鹿児島(串木野)から熊本市を抜けて九州縦断でした。18号は、長崎(佐世保)から大分へ、九州の上部横断。21号は、鹿児島(串木野)から宮崎へ、九州の下部横断でした。熊本市を直撃した16号が、一番被害が少なかったのが不思議でした。逆に超大型台風18号は、恐怖を覚えるくらいの強い風でした。この日、妻は朝早くから会社に出勤していたため、風が強くなった午前9時頃からはベッドで一人でした。雨戸は閉めていますが、風が「ゴー」とうなり、外では何かが割れる音が時々聞こえます。また、遠くから一段と強い風の音がした時は、その後、徐々にうなるような音が近づいて家全体が「ミシミシ」と揺さぶられます。 私はベッドの上で、身体を硬直させて天井を眺めているだけでした。停電になるとギャッジベッドの昇降ができなくなるので、ベッドは寝かせたままにしておき、テレビのニュースを聞き入っていました。そうしている内に、危惧していた通りに停電になりましたが、2,3分で復旧することが3回続いた後、お昼の0時頃にはいつまでも復旧しなくなりました。それでも、しばらくすれば復旧するだろうと安易に考えていましたし、「ベッドを寝かせていて正解だった」と自己満足しておりました。この強烈な台風は3時間余りも居座って、お昼の0時30分頃にやっと収まりました。妻も13時頃には帰ってきました。 わが家の被害は幸いにも、自転車と自転車小屋の破損とアンテナの向きがずれたくらいで済みました。しかし、ご近所では屋根瓦が飛んだり、瓦が車を壊したり、玄関のひさし部が飛んだりとかなりの被害がでたようです。しかし、物理的被害も痛手ですが、24時間の停電には参りました。当初から、家の破損より停電を恐れていただけにかなりのショックでした。全てにおいて、電気を使用している障害者にとって停電は最悪です。 困った点を一部列挙してみます。 ・クーラーがないと、体温調整のできない私には蒸し風呂地獄です。これはアイスノンをかき集めて対処しました。 ・エアマットが効かないため、背中は蒸れていつも以上の痺れと痛さに苦しみました。これは頻繁な体位変換が必要でした。 ・ギャッジベッドが昇がらないため、起き上がれません。一日中まっすぐな姿勢で寝たままで、食事も寝た姿勢で摂りました。 ・リフターが動かせないので、車椅子の移乗もできませんので寝たきり状態でした。 たまりかねて、2日めには発電機を借りる手続きをしましたが、発電機を持って来る直前に電気が点きました。電気が点いた時は、本当に嬉しかったです。熊本市内でも、所によっては3日間停電もあったと聞きました。わずか「24時間しか」と言うべきか、「24時間も」と言うべきかはわかりませんが、停電のおかげで体調をすっかり崩し、回復には1週間以上かかりました。今後は、早めに発電機の手配をしようと思っていますが、あらためて電気や電気製品に頼っている生活を認識いたしました。 台風の当たり年と台風のうた
台風銀座の九州を、超大型の23号もかすめて過ぎました。電動車いすの私たちは部屋でひたすらやり過ごすしかありません。哀しみをやり過ごすしかないように。
これで今年の上陸は10個めとなり新記録を更新しました。人も農作物もやられっ放しの夏・秋となるのでしょうか。なんともやりきれない気持ちです。 台風が来て、何かいいことってないのでしょうか? 昔ならあくる日の焚き木(たきぎ)拾いが楽になったことでしょうが、電器釜やボイラー風呂の時代には関係ないですしね。 都会の汚れた空気や水を蹴散らしてくれるとか? ついでに汚職議員や官僚も蹴散らしてくれればいいのに。そうだ、土砂崩れや水害の跡を修復するために、地元の土建屋さんたちは仕事が回ってきて一息つくでしょう。それくらいのものでしょうか。 いや、待てよ……。青森県の頸髄損傷で川柳作家のSさんは子どもの頃は台風が来ると嬉しかった、と言ってます(笑い)。めったに来ないからでしょう。たまに来ると何かが劇的に昇華されてゆくような気がするのかな。私にもその気持ちがわからないではありません。 そして最後に、私のように台風の歌をたくさん詠む者もいます。 【短歌抄 台風のうた】 暴風に一人暮らしの車いすとなればさぞかし心細かろう 懲らしめられ続けねばならぬわけでもあるかのように台風がくる 台風は嫌いではない車いすなどなぎ倒されそうになりながら 台風のあくる朝には焚き木(たきぎ)ひろう手間がはぶけただろう父祖たち 台風は嫌いではない首ねっこねじ伏せられそうになりながら 台風がくるのはいたしかたないせめて100キロで突っ走ってくれ 台風はやりすごすしかない哀しみをやりすごすしかないように 台風に蹂躙(じゅうりん)される列島をかの国はどう見ているのだろう 日本に台風アメリカにハリケーンそんなとこまで似通らずとも 舗装路をころんころんとする猫になりたくもありなりたくもなし 台風の進行方向右側は荒れ狂ってゆくわれらが九州 避難所に配られてゆく炊き出しのおにぎりはせめてうまそうである 台風で亡くなるお一人お二人に私がならぬわけを知りたい 台風で都市の汚わいは蹴散らされ政治家や官僚はどうか この夏は台風のうたどっさりと詠ませていただきました。 佐賀県:中島 虎彦 E-mail: henomohe@po.ktknet.ne.jp
台風21号
台風や地震と災害続きの日本列島です。災害に会われた皆様、心よりお見舞い申し上げます。
私ごとですが、9月7日21号のときは、27時間の停電、国道の数カ所の土砂崩れ、高速道通行止めとなり、不安なひとときを迎えることとなりました。停電なので、今時の電話は音信不通、夫は職場から帰って来られないかも……。ロウソクを立てて、夫の帰りを待ちました。近所のかたがヘルパーさんを呼びに行ってくださったので、巡回式で訪問。いくらか心の支えになりました。何もかも電気でまかなえている生活の身は、電気のありがたみをあらためて痛感させられました。エアコン、テレビ等の電化製品、ベッド、エアーマット、給湯……。 ヘルパーさんの移動手段リフターは充電式のため、使うことができました。エアーマットの空気が少なくなっていたのと、巡回型ヘルパー訪問につき、長時間ベッドへ横になることはできませんでしたが、緊急時のこのとき、贅沢なんて言ってはいられません。本当にありがたく思いました。 幸いにも停電になったとき、車椅子にいたので、電動ベッドはフラット状。これがもし、ベッド上で起こしている状態のとき停電になっていたら……と想像したとき、緊急時にはベッドの機能に、手動対応も必要だな、と思いました。夫も心配だったようで、地元のかたに教えていただいて、離合できないような真っ暗な山道を、手探り状態で帰ってきてくれました。「ただいま」と夫の声がしたとき、ほんとうに嬉しく思いました。 余談ですけど、先日夫の出勤5分後、突然、家全体のブレーカーが落ち停電。ベッドを倒して横になろう、と思ったときのことでした。訪問看護が来るまでの2時間、暖房は切れ、ベッドは起きたままと最悪でした。それから、朝、電気を使い始め、10分ぐらいするとブレーカーが落ちる。調べた結果、エアコンの室外機が原因だったようです。皆さんも停電にならないよう、電化製品のチェックされてみてはどうでしょうか? 広島県:ハローマリ E-mail: hello-mari@enjoy.ne.jp
新潟県中越地震
私は、今回の地震のニュースでよく出てきた十日町とは峠ひとつ隔てた所にある療護施設で生活しています。10月23日17時56分に第1震。この日は珍しく痰の切れが悪く、居室でネブライザー(吸入)をしてもらい、ついでに居室摂食させてもらおうとしていた時でした。グラグラ、ミシミシと来てからしばらく揺れて、これが長い。むしろだんだん強くなるような感じ。私は、かたわらの2脚テーブルの上に安定悪く置いてあるパソコンが落ちないように念じながら、その揺れを観察していました。落ちるものもなく、これなら大丈夫とようやく一安心した時、食事介助の介護員さんは他の居室を見回りに行きます。しかし、別の介護員さんが「大丈夫?」と言って見に来てくれます。 そうこうしているうちに第2震、こちらのほうがもっと大きかった。テレビの上に置いてあった時計が落ちました。またも2、3人の介護員さんが見に来てくれます(施設は本当に手厚く? 心配してくれます)。時計をより安定していると思われるテレビの前に置き直してもらい、そんな時に停電です。非常灯が点灯します。私の呼吸器は充電分で30分間使えるので、そのうち電気も回復するだろうとそのまま使い続けました。しかし、なかなか回復しません。20分経過して、10分間は残して呼吸器を離脱することにしました。そしてまたも余震。施設は停電で(ナース)コールも効かないということで、広い共用部屋に皆を集めることを決断しました。暖房も止まってしまったので、フリースに膝掛けその上にタオルケットと毛布という重装備で居室を出ました。皆で集まってラジオを聴きながら落ちつくのを待ちます。私は、食いそびれた夕食をお茶漬けにしてかきこみます。しかたないのですが、これが冷たい。いよいよ冷え込んできます。 非常灯も暗くなってきて、皆心細くもなってくる中、20時頃近所の工務店の人が自家発電機を持って来てくれました。その電灯の明るさで気持ちも明るくなり、私もそのおかげで22時から人工呼吸器を使わせてもらい、2時間ぐらいは眠ることもできました。私は自発呼吸があるのですが、人工呼吸器がないと眠ることができないということで呼吸器を使っています。発電機が来るまでは、1晩ぐらいの徹夜は大丈夫、停電が2晩めになったら病院にでも行って寝かせてもらおう程度に考えていました。 電気は結局、朝の4時半に回復し、臨時避難所と化していた共用部屋からようやく撤収することができた次第です。この間、非番の職員さんも駆けつけて施設に泊まって私たちのケアにあたってくれました。地域の人で手伝いを申し出てくれた人もあったそうです。以後は、お蔭様で施設の生活は平常と変わりがありません。しかし、施設利用者には家族が被災し避難中の人もいるようで心配が続いています。 当施設が大丈夫だったから言えることですが、こんな時、在宅障害者はかえって大変なことだろうと思います。避難が必要になった時、どこへ行けばいいのか? 健常者以上に設備的な問題があります。療護施設のような施設こそがむしろ積極的に地域の中で、臨時避難所になってくれればいいのにと思いました。健常者における臨時避難所としての学校=人的を含めた援助を施設に集結するイメージです。実際、新潟県のホームページに利用可能施設と人数がリストアップされました。当施設の数字で見ると、ショートステイの空室枠のようです。非常時はそれ以上の対応を期待できないか? 当施設においては、面会室のような共用部屋も開放されました。 このような緊急対策も大切ですが、むしろ前提として、普段から施設を利用していることが必要のようです。施設には介護のプロがいるとしても、お互いを知っているということは重要です。今回、当施設のショートステイを初めて利用した人も、以前からデイサービスを利用していた人に限られていました。まったく初めての人の利用打診があったのですが、施設・本人双方が不安を持ち、最終的にはその人自身が断ったということも聞きました。まだ他の避難策があったのだろうと推定されますが、こんな災害の時のことを考えて、普段から施設とつながりを持っておくことが自衛策のひとつになるのではないでしょうか? 施設にとっては地域とのつながり、地域の障害者にとっては施設とのつながり、「普段からのつながり」がキーワードのように思いました。 追悼 ワンさん(C2、ベンチレータ24時間依存から完全離脱した)を偲んで
クリストファー・リーブが亡くなった前日(10月8日)、バンクーバのワンさんが急逝していたと上村さんのメールで知りました。39歳、若すぎる訃報でした。ワンさん、Darryl Dennis さんに最初にお会いしたのは、バンクーバを初めて訪問した時、ですから、もう10数年前になります。上野久仁子さんの案内で世界初というベンチレータ使用者専用のグループホーム、クリークビューを訪問した時でした。 当時、ワンさんは日中電動車椅子でニューモベルトを使用し、ベッド上で気管切開によるベンチレータを使用されていました。私はニューモベルト使用の高位頸損者にお会いしたのも初めてでした。ワンさんは気さくに胸に巻いたニューモベルトを見せ、写真も撮らせてくれました。ワンさんはC2損傷で、気管切開していました。交通事故で脊髄損傷となり、急性期の治療をバンクーバで受け、リハビリテーションは米国で受け、帰国後、ベンチレータ使用者専用の療護施設であるピアソンセンターを経て、クリークビューで社会生活を開始したとの説明でした。気管切開しているワンさん自身の音声による説明に驚嘆し、さらに受傷から社会生活の開始まで2年という短期に再度驚愕(きょうがく)しました。 当時、日本ではベンチレータ長期使用の頸髄損傷者が在宅へ移行し始め、在宅でベンチレータの管理、呼吸ケアを担当する医療機関を見つけることが非常に困難な時期でした。気管切開していれば、話せなくて当然、自宅に戻っても寝たきり生活の状態でした。ベンチレータを車イスに携帯して自由に移動することなど、まだ実現していない時期でした。 他方、バンクーバのワンさんはジーンズに縞模様のシャツとおしゃれな装いで若いのに立派な口ひげまでつけていました。朝起きたら電動車椅子に移動し、一人で自由に外出まですると聞いて、別世界の人を見ているような気持ちでした。車椅子で30分、ベッド上では約2時間自力呼吸で過ごせるとのこと、その訓練方法や音声入力パソコン使用法を説明され、将来料理の本を書いてみたいと話されていました。ワンさんは受傷前、著名なレストランのコックさんでした。 その後、バンクーバ訪問のつどワンさんに会いに行きました。ワンさんは日本のベンチレータ使用頸損者に少しでも役立てたいと、いつでも気持ちよく対応し、情報を提供してくれました。故上田さんのお母さんや主治医と一緒にワンさんを訪問したこともありました。その際、ドクターはワンさんの服薬状況について知りたがりました。ワンさんは地域で生活するようになったら患者ではない、だから薬や医療は不要だ、ドクターがなぜそんな質問をするのかと理解しがたいという態度でした。ベンチレータ依存者といえども自己健康管理ができずに地域で生活できないはずとドクターに抗議されているようで、今でもそのことをありありと思い出します。 ワンさんからいただくクリスマスカードは電子メールでした。とても凝った動画のクリスマスカードでした。私が浜松医大にいたとき、ワンさんからメールが送信されてきました。「理由はよくわからないけど、ベンチレータを完全に外せるようになった。完全に自力呼吸で過ごせるようになって10日間くらいになる。」と吃驚(びっくり)するような内容でした。「どうして外せたの?」としつこい私の質問に、「いつものようにショッピングモールを散歩していたら、中国人の医師が話しかけてきた。その医師の薦めで気功や催眠療法のような東洋医学の治療を数週間受けていた。いつの間にか自力で呼吸できるようになった」とのことでした。 ワンさんが肺炎で亡くなったと聞いたとき、まず考えたのはベンチレータを離脱したことの影響かなということでした。その後、上村さんや上野さんの連絡によると、「ワンさんは病院でベンチレータ使用を薦められたけど、もう二度とベンチレータは付けたくないと本人の強い意志だった」そうです。ベンチレータを使用していた当時、ワンさんに何度聞いてもベンチレータ使用の不安はまったくないと、言い切っていましたが、ベンチレータを完全離脱できたことはワンさんにとってやはり器械呼吸の拘束から解放されたことだったのだと痛感すると同時に、安堵しました。ワンさん、長い間いろいろとお世話になりました。どうぞ安らかにお眠り下さい。 もうひとつ悲しい訃報が上村さんから届きました。九州のかたがたは覚えていますか。UBC(ブリティッシュ・コロンビア大学)法学部教授サルツバーグ先生が癌で亡くなったそうです。福岡の食事会では中島虎彦さんの短歌や俳句にたいへん関心を示していましたね。中島さん、向坊さん覚えていますか。何年前になるでしょうか。博多でサルツバーグ先生を囲んで昼食会をしましたね。サルツバーグ先生の温かいお人柄が偲(しの)ばれます。合掌 編集顧問:松井 和子
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