私はちょうど4年前の8月1日、自分の40歳の誕生日の翌日に高速道で、居眠り運転でC4b6の粉砕骨折で頸椎損傷となり、四肢麻痺となりました。事故後、佐賀医大に運ばれましたが、固定だけしてもらい、意識のないまま飯塚市のせきそんセンターへ運ばれ、頸椎固定の手術をしてもらいました。その時に、人工呼吸器をつけるために気接部に穴をあけていたのですが、自発呼吸は何とかできたので、2ヶ月後には閉じてもらうことができました。しかし、3ヶ月めに入り、1病棟に降りたその日に痰が喉につまり、つまっている原因が肉芽によるもので、ケロイド体質といって、怪我の跡などが異常に盛り上がる体質だったことによる、ということでした。 ファイバースコープで覗いてもらったところ、米粒くらいしか気道がないことがわかり、翌日にさっそく手術をして気道を確保することになりました。術後、短管カニューレという、カフのついていないカニューレを2週間ごとにサイズを大きくしていって、テイ・チューブを入れようということでした。そのテイ・チューブを入れるまでの3ヶ月、声も出せない状態で、リハビリもベッドサイドで体をさする程度しかなく、とてもつらい日々を過ごしました。とにかく、カニューレをテイ・チューブに入れ替えてもらい、声の出たときのうれしさは言葉にならないほどでした。 一緒の時期に入院されていたSさんやHさんは、同じような症状があってテイ・チューブを入れられていたのですが、その後抜けて、今では痰の量もだいぶん減ったと言われています。私は、一昨年の12月に交換に行ったときに主治医が「一度抜いて様子をみてみよう」と申しましたので抜いてもらったのですが、4日めにあえなくギブ・アップしてしまい、ファイバースコープで覗いてもらったところ、やはり肉芽ができていました。テイ・チューブを入れかかったところ、狭窄を起こし、死にかかったことがありました。それ以来、主治医も怖気づいたのか、「入れ替えるだけにしとこうね」と言うばかりになりました。 そういうわけで年に2回、飯塚市のせきそんセンターに10日間くらい入院するのですが、今回は主治医の手回しが良く、5日間で退院という『超・短期入院』でした。今回も、人工呼吸器をつけていても必死で車イスをこいでいるY・O君や、ラグビーの高校代表の練習中に怪我をしたY・A君らを見ていると、まだまだ頑張らねば! と思いました。 皆さんも、定期的な検査や入院をされると思います。自分のことは、自分が一番わかる自分でありたいですね。それでは皆さん、まだまだ暑い日が続くと思いますが、お身体ご自愛下さい。
前号に、わが家のメダカたちを紹介させていただきありがとうございます。その後も採卵〜ふ化は、続いていましたが、大雨に赤ちゃんメダカを流されて、がっかりです。 ところで皆さんの近辺でメダカの呼び名(方言)は、ありませんか? わが家の付近(鳥取の中部)では、「ねぇぶんちゃ」と、お年寄りが珍しい呼び名を教えてくれました。また西部(米子付近)からお嫁に来たヘルパーさんは「めんぱちご」と呼んでいたと教えてくれました。メダカの絶滅危惧種指定と同時に昔からの愛称(方言)も消えて行くことでしょう。 私は、散歩がてら花屋さんに立ち寄り、花落ちした(売れ残った)鉢物が置いてある場所に行き、そして500円以下の蘭類を探し、買い求めては、自分流に仕立て直すことを趣味にしています。気に入った鉢を見つけた時は、宝物を見つけた気分です。そわそわしながら、ビニール袋に入れてもらい、電動車イスのバックミラーにひっかけて、そろりそろりと帰って来ます。まず作業用のお膳(電動車イスで使いやすいように作ってもらった。食事や、新聞も読む。パソコンのマウスもこの上で使用)を乗せ、袋を持ち上げて、下に々々とビニールを広げ、鉢の種類(素焼きか、塗り鉢か、ポットの中に植え込みそのまま鉢に入れてある場合もある)を視る。急いで植え替えをする必要がある物以外は袋からは出しません。出してしまえば、鉢を持つこともできず(握力がない)移動に困るからです。良好な苗は、そのまま同種の蘭(カトレア類、デンドロ類)(東洋蘭、風蘭、セッコク類)と並べて置きます。1〜2年も植え替えの必要のない物は、儲けたような気分になれます。ほとんどの洋蘭は水苔で植え込んであるからです。水苔は使用前に水に浸し、堅く絞り、蘭の根を広げ中心に適当な大きさの水苔を、またがらせ、根の外も水苔で巻き、小さめの素焼き鉢に押し込んで出来上がりなのですが、私にはそのような作業ができません。そこで自分流にバーク(木の皮や、チップ等の混合植え込み材)を、洋蘭の培養土として、使用しています。最近は洋蘭展などに行くと10〜15リットル単位で良質なバークを入手できるようになりました。鉢は軽いプラスチックで、移動に便利なように洗濯ばさみを鉢のすみに付けておきます。大きめの鉢にはビニールひもで、提げやすいように細工をします。 しかし洋蘭シンビジュウム(東洋蘭・駿河蘭、玉花蘭等の恵蘭類はシンビジュウムの仲間)や大型のオンシジュウム等は大き過ぎて、移動どころか植え替えも、株分けもできません。デンファレ、胡蝶蘭、バンダは加温温室がなく、冬越しができません。最初から諦めております。 しかしミニカトレア等、小型で四季に関係なく条件さえ整えば、真夏でも花を付けますし、また真冬でも同じです。美しい花物は、花落ち(売れ残り)を探しても入手が困難な品種は、多くあります。デンドロビュウムも、(和名、セッコクの仲間)ですから冬場にも強く霜が降りる寸前に玄関に入れるだけで、春〜初夏に、それは見事な花が咲いてくれます。 ただし冬期は心を鬼にして水は与えません。蘭類の冬期は休眠中です、水を与えるのは、むりやりに「おねしょさせて」風邪を引かせるようなものです。そのかわり夏期は乾いたら、たっぷりと水やり、1週間に1度は水のかわりに水溶液肥料1000〜 2000倍を9月頃まで与えます。夏の暑さは蘭も苦手なようです。明るい日陰で風通しの良い所が大好きです。人によく似ています(私など寒いの嫌い、暑いのも嫌い、痛いの大嫌いですから)。最近は、東洋蘭、風蘭に、惹かれます。 年を重ねた証でしょうか、東洋蘭(中国、朝鮮半島、日本、台湾原産のシンビジュウム)の開花時の芳香は、素晴らしく、欄間(採光、換気、天井とかもいの間の空間)は昔の人たちが、わざわざ彫り物を施し空間を作り、この蘭の香りを楽しんで、欄間と名付けたと思えるくらいです。和風には風蘭(富貴蘭)があります。基本的には、白花らしいのですが、私は花を見ずに買います。花を咲かせてピンク(交配種)の花が咲いて、喜んでいます。当地の山で採取された物も、いただいて栽培しております。 しかし私のようにバークで栽培するのは邪道らしく、高価な水苔を山のように盛り上げその上に植え付けるのが富貴蘭(風蘭)の栽培らしく、富貴蘭には、横綱〜小結などランク付けされて、何十万円〜千円前後で取引されているようです。 いかにすれば、手が不自由でも枯らすことなく、綺麗な花が咲かせられるかそんなことを考え、実行し夢が叶えられれば何ものにも代え難い喜びです。しかし1日に1鉢植え替えができれば上出来なのです。道具も普通の物は使えません。スーパー等で買った飲料水の容器(ペットボトルではない)を、握力はなくても手に持って用土をすくい植え込む道具にしたり、鉢を上げ下げするのに、S字に曲げた針金を買い、自分に使いやすいように曲げて使用します。これは、紙パックの容器を、冷蔵庫に出し入れする時や、買い物をするのに便利です。 さすがにこの夏は猛暑、私も辛いです。5時過ぎには、首から肩、腕に水を掛けて扇風機の前に行き体温を下げて、鉢たちにも水をやろうと外に出ます。 鳥取県:HY hy0025@ncn-k.net
今年の5月31日、兄(26歳)がバイク事故により脊椎を損傷(T5、6)しました。病院に駆けつけた私たち家族に医師はご多分にもれず「下肢はもう動くことはありません」と言いました。 もちろん、あきらめられるわけがなくその日から私はインターネットで情報を探すことにしたのです。100%駄目だなんて絶対ありえないと思ったからです。脊椎損傷から回復した例がないかと、必死の思いで、毎日パソコンに向かいました。 そして、「はがき通信」で右近さんと森さんのことを知りました。300ページにもわたる記録をすぐに送っていただき、その日のうちに全てプリントアウトして読みました。 すごく希望が湧きました。兄はきっとまた歩けるようになると思い、右近さんにすぐメールしたのです(6月10日のことです)。在宅リハの意志を固め8月17日から、1週間小樽に行くことになりました。 右近さんは、到着したその日からすぐリハビリ指導してくださいました。信じられないことに、リハビリ開始して数時間で兄の足が動いたのです。「もう動くことはありません」と宣告された足が、です。そして、ベッドを背にして立つこともできたのです。 森さんのこと、その他に右近さんにリハ指導を受けた方たちのことは「はがき通信」を通して情報を得ていましたが、こんなに早く効果が出るとは思っていませんでした。リハビリ病院には行かず、すぐ小樽に行ったこと、受傷してからほぼ毎日欠かさず足を揉み解したり、さすったり、叩いたりして刺激をあたえていたこと、なにより、受傷してから、3ヶ月に満たないうちに右近さんにリハ指導を受けたことが良かったのだと思います。1週間のリハを受けて帰ってきた兄は、目の輝きが違いました。確かに、自分の足が自分の意思によって動くのですから。 脊椎損傷になる人は年間5000人以上と言われていますね。こうしている間も、どこかの誰かが「もう動くことはありません」と間違った宣告をされているのかと思うと、どうしようもなく憤りを感じます。兄の病院の医師にも小樽に行くことを話した時、「お金を搾り取られに行くようなものですよ」と、言われました。 兄は感覚はまだ戻りませんが、毎日、在宅リハを続けております。「誕生日(10月)までには立たせて見せる」と主にリハビリを手伝っている上の兄も、鼻息を荒くしてがんばっています。受傷1年経つ頃には松葉杖で歩行が可能になるだろうと、右近さんもおっしゃってくださいましたので、家族で、兄のリハビリを最大限サポートして行こうと思っております。 最後になりましたが、この「はがき通信」に出会ってよかったです。あきらめなくて、本当によかったです。 右近さん、森さん、そして「はがき通信」に、本当にありがとうございました。 YA 暑中お見舞い申し上げます。酷暑の毎日、お変わりなくお過ごしでしょうか?(この投稿が皆様のお手元に届くころは暑さも峠を越えてるころですね) 久しぶりに投稿させていただきますI(K県・C4)の妻です。今回新聞で、「リフターのついた宿が山鹿にある」という情報を得まして「とにかく、行ってみなきゃ!!」と思い、7/23〜7/24熊本市内より車で約1時間灯篭祭りで有名な山鹿市のかんぽの宿に行ってきました。 予約しましたバリアフリールームは、ゆったりした部屋でギャッチベッドが2つと天井走行リフターが設置してありました。今回入浴はしませんでしたが、リフターを使って入浴も可能ですし、トイレにいくこともできます。また、ベッドがギャッチアップできますので着替えも簡単にでき、あまり不便を感じることなく泊まることができました。 (天井走行式リフターとギャッジベッド) 旅をする重度障害者とその介助者にとって、ホテルでの車イスからベッドへの移動など、トランスファは悩みの種です。ビジネスホテル等は、介助の手伝いはまずしてくれませんし、バリアフリールームのあるホテルでも、手伝ってくれるところは少ないのが現状です。大きなシティホテルは手伝ってはくれますが、それでもけっこう気兼ねするもので、リフターの設置は予想以上に気持ちを楽にすることができました。 話を聞きますと、かんぽの宿はバリアフリーを推進し、徐々にリフターのついた部屋が増えているそうです。今のところ九州内のかんぽの宿では、武雄(佐賀)・阿蘇(熊本)・山鹿(熊本)・日南(宮崎)の4ヶ所は設置されているようです。皆さんのお住まいの地域でお気づきの宿がございましたらぜひ教えてください。少しでも皆さんの旅ライフの参考になればと思いペンをとりました。 なお、山鹿のかんぽの宿には7/20オープンの家族湯があり、そこにもリフターが設置されていて90分1000円(要予約)でゆっくり温泉に入ることができます。詳しい写真等は、「石川家のホームページ」より「かんぽの宿」に数枚掲載していますのでご覧下さい。
4.口座とカードを得るまで 文書では以上をまとめた上で、口座とカードの申込について指導員に「黙認」をお願いしました。事改めて「許可願」を行なえば、相手方(施設の理事会?行政?)も身構えて、「余分なこと」「前例のないこと」は敬遠したがるのではないかと思ったからです。一方「黙認」を了解いただかないと、姉の協力も得られないと予想、また最後の手段として施設に管理いただいている口座の銀行に系列カードをお願いする場合、施設内に理解者がいなければ取引銀行との仲介すら望むべくもありません。また「借用なし」に加えて「常に1回払い」をカード使用の条件としました。 しかし、残念ながら「黙認」はなかなか得られません。指導員によれば行政(おそらく県庁福祉部)に電話で打診したところ、お金の管理については現場施設側で判断してかまわないとの返答を得たそうです。しかし、なかなか「踏ん切り」が付かないようです。 文書提出から5ヶ月経過しようとする2001年12月、2回めの文書を提出しました。その文書では12月のISの2例についてコストと納期を比較し、「(例1)口座を持っていれば315円安、カードを持っていれば420円安。どちらでも入手予想は2日短。(例2)口座を持っていれば210円安、カードを持っていれば420円安。どちらでも入手予想は10日短。以上からコスト、納期、また手間の点でも口座とカードが極めて有効という結論」を記し、さらに「問題がないことを確認する試行期間を半年設ける」との条件も加えました。これによってついに指導員の「黙認」、のみならず施設の「承認」までが得られたのでした。 2002年1月、ある銀行のIBに姉に署名してもらって申し込み、問題なく通帳を入手し、月末にはパソコン上で銀行振込によるISができるようになりました。2002年2月、その銀行系列のカード会社に、やはり姉に署名してもらってクレジットカードの申込書を送りました。3週間後、NG通知を受けました。ある程度予想していたことであり、それから半月後「再検討依頼書」をカード会社に送りました。主旨は「カードはISで使いたい」「姉を保証人に立てる」「年金入金の通帳コピーを送付する」「それでも駄目ならばその理由を教えて下さい。問題対策後再度申し込みたい」というものです。 1週間後に連絡がありました。結局「クレジットカ−ドそのものとしては自らサインが出来ない状態で発行することは難しい」「但し、インタ−ネットのみの利用ならネット専用カ−ドというのがあり、発行できる可能性がある」「現状、保証人というかたちをとって通常契約していない。あくまで本人の定収入の安定性等を検討して審査をしている。」「(1)年収の証明になる書類の写し(2)緊急時の連絡先として姉の住所とTEL、の2つのそろった時点で再度発行を検討」してくれるということでした。 あらためてネット専用カードの申込書を送ってもらい、必要書類を添付送付して、その半月後の4月下旬ついにカードを入手しました。思い立った時からちょうど2年経過していました。なお「ネット専用カード」は一般の商店では使えません。また利用限度額も10万円です。しかし、年会費が一般より割安(私が対象としたものの比較で315円対1312円:ともに初年度は無料)で、外出がまだ不自由でIS専門の私にとっては現状必要十分と言えるものです。 5.まとめ 身障を持つが故に、「新しい技術と新しい社会のしくみ」をうまく利用させてもらってハンデをカバーしたいものです。今回は、「インターネットバンキング」と「ネット専用カード」が口座とカード入手のための新しいツールでした。もうひとつ入手の過程で感じたのは、「バリアフリー」「施設における自立」「自己管理」等の世の中の風でした。「役に立つはず」だけで強行突破をはかったら、挫折をくりかえしていたかもしれません。風が吹くまで時を待つことも必要に思われます。 6.追記 この4月から口でペンをくわえてのサインの練習を開始しました。もちろん将来外出できる時を想定して、一般の商店で使える一般的なカードを得るためです。しかし、小さい枠内にカーボンコピーの重書きが想定されるカード使用時のサインができるまではなかなか大変そうです。 一方において、技術としくみの進歩によって一般の商店でもサインが不要なカードが普及することが望まれます。実際、現在でも磁気カードにICチップも搭載したカードが存在しているようですが、これに対応する読取機(暗証番号の入力だけでOK)の普及が不十分であり、しかも肝心のネット専用カードには対応しておらず、カードの入会審査で「自らサインできない状態で発行することは難しい」ということになります。身障者への対応も考慮いただき、またそれをカードのセールスポイントにしていただくくらいの発想の転換を図ってもらいたいものです。 最後に私が入手した口座とカードを紹介します。IB=三井住友銀行のOne'sダイレクト、カード=三井住友VISAカードのバーチャルカード。 T.H 新潟県 th36th@hotmail.com 2002年5月29日(水)12時20分の出来事 全日空 伊丹−成田 線 私は29歳。車イスの旅好き会社員です。先日、全日空で車イス単独での搭乗拒否にあいました。そのことを書かせてください。今までもツライことは多くありましたが、今回はとてもショックが大きいです。バリアフリーが日本社会でもようやく進んできたと思っていたのに。ワールドカップが開かれ、日本全国で国際化が進むだろうと思っているのに。 ●歩けない人は乗せられません! 2002年5月29日(水)4月に就航したばかりの全日空 伊丹→成田 NH3112便で搭乗拒否にあった。歩くことのできない人の単独での搭乗は認められないとの理由だ。車イスになってから今まで全日空もよく利用しているが初めてのことである。係員は、小さい飛行機で設備がないからだと説明をする。そんなこといわれても困る。輸送するのが航空会社ではないのか? 絶望感、失望感、虚脱感、意識を失いそうになった。どうしていつもこうなんだ。なんで普通に行動できないのだ。また頑張らなければならないのか。もうこりごりだ。でも、人生の転機ともいえる留学交渉のための渡米。ようやくとれたアポイント。飛行機に乗らないわけにはいかない。意識を取り戻し、背筋を伸ばして交渉を開始した。私は、設備がないのは別に構わない。何の気にもならない。手助けしたくない人に、無理に手伝ってもらおうとは思わない。そんなときは1人で乗って1人で降りればいいだろう。自分1人で搭乗すればいい。歩けないから搭乗できないというなら、手を使って歩いてはダメなのか? 1人ではって乗ることにして、その旨を係員に伝えた。私は今までに世界43ヶ国を車イスで旅してきた。世界73の飛行場と32の航空会社を利用したが、設備のないところはたくさんあった。それでも、どんな田舎の空港でも、小さな飛行機でも乗れなかったことはない。設備がなくても、いかようにも方法はあるのだ。重要なのは、彼らが乗せる気があるのか、ないのか、ということなのだが。 1人で乗るというと、次に新たな理由を持ち出してきた。「事故があったときに助けられないので、お乗りになることはできません」この理由を聞いたのは何回めだろう。車イスを拒否するときに使われる反論の余地のない常套句である。ホテルの宿泊でも、家を借りるときでも、火事や地震が起き、エレベーターが止まったら助けられないので無理だとか、いかようにも断る理由をつけられる。確かに、搭乗中に介助が必要な人はいるだろう。しかし、それは個々の事情である。障害者を一律に「何もできない人」と決めつけないでほしい。私の場合は、搭乗の際、座席の間が狭くて自分の車イスが通らないので、機内用の小さなスカイチェアと呼ばれる車イスを用意してもらうだけでいい。設備がないというので、飛行機がどんな機種なのか尋ねた。機体から、そのまま階段が出てきて、滑走路から直接、搭乗するとのこと。そのような飛行機には何度も乗ったことがある。 [チュニジア航空]ジェルバ島−チュニス [ルーマニア航空]バイアマーレ−ブダペスト [エアーマンダレー]ヤンゴン−ニャンウー [ウエストインディー]ポートオブスペイン−トバゴ [英国航空]パリ−エジンバラ それぞれに乗せ方があった。しかしただの1度も乗れないことはなかった。この伊丹空港の場合での、最善の方法を職員に提示した。スカイチェアに私が乗り移り、前後でそれを持って、階段を1段ずつ上げていけば良い。その方法を伝えたが反応はなかった。粘って交渉した。30分後。なんとか乗れるようになり、慌てて案内された。 交渉成功のポイントは、仮に搭乗できなくても構わないと覚悟し、その場合は人権問題として裁判も辞さないという毅然とした態度におじけづいたこと。裁判で、どちらに非があるかは、彼らにも明らかなのだから。案内先では「申し訳ございませんでした。ご搭乗できますのでご安心ください」と丁寧な謝罪。そして、他の乗客と一緒にバスに乗って滑走路に移動。伊丹空港で、タラップを使わない搭乗なんて初めてだ。やはり飛行機は、何度も乗ったことのあるタイプだった。係員は助けるという。おそらく、おんぶして担ぐのだろう。だが、おんぶで担ぐことのできる屈強な体には見えなかった。おんぶできるからと言われ、途中で崩れ落ちた経験を何度もした。それに、カウンターで私は1人で乗ると言った。もちろん有言実行する。車イスを階段の横につけた。階段に乗り移り、1段ずつお尻を上げて、足を乗せて、登っていく。登りきったら、床をすりながら座席まで移動。そして床から、座席まで這い上がる。座席は配慮で最前列だった。周りの乗客は、しーんと見ていた。私の座席の隣には、職員が座った。単独での搭乗は認められないので、職員をつけることで乗れるようにしたらしい。 |
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