はがき通信ホームページへもどる No.75 2002.5.25.
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総合学習感想文に感激

頸損歴13年、C3〜5不全、電動式・自走式車イス、62歳

 投稿締め切り1日前、メール作成中に掛かってきた突然の電話に慌てて痙性が・・・・。突っ張った腕がキーボードを叩きまくってPCが操作不能になり、やむなく強制切断・・・・と責任を痙性にかぶせて、迷惑を顧みず再度挑戦。「夏休みの友」や「冬休みの友」を始業式の日に間に合わず、何かと言い訳をしていた幼い頃を思い出します。
 そんな幼い小学4年生を対象にした総合学習の依頼を受け、今回(昨年12月)も懲りずに引き受けてしまった。今回のテーマは「心のバリアフリー」。物理的身体的バリアであれば話に事欠かないが、「心の・・・・」となれば自分自身はっきり認識したことが少なく、安易に引き受けたことを反省しながら、百十数名の児童を前に「障害者という言葉から何をイメージするか」という問いかけでスタート。電動車イスに乗っているものの、外見は健常者と何ら変わらない者の講話など退屈極まりないのではないかと思いつつ、体験談を話しながらとにかく時間の経過に救われた。
 後日、感謝の言葉を添えた全員の感想文が届けられた。要約すると「障害者のことを『かわいそう』とか『たいへんだなー』と思っていました。話を聞いてからは『周りの助けがあれば何でもできるし、不自由な人のほうが、勇気やがんばるという強さを持っている』と感じました。頑張ってください」というものであった。その文章の一節に「・・・・西さんは外に出たいと思いますか? 野原で寝っ転がりたいですか? 西さんが車イスに乗れても乗れなくても元気にしていてください」と書かれているのがあった。そういえば、受傷以来「野原で寝っ転がる」ということをすっかり忘れていた、そういう気持ちさえ・・・・。今でも、数人の人に抱えられて寝っ転がれたとしても、痙性で冷凍マグロが転がったようでとうていその言葉のような思いを味わうことはできないだろうと思う。それだけにこの一節が僕の胸を打ち目を濡らしたのである。タドタドしい文字で書かれた文章ではあるが、僕の心を揺さぶるものばかりで、逆に元気をもらったような気がして、稚拙な講話であるが今後も要請があれば喜んで飛び込んでいきたいと思っている。  


 立った!そして、今ついに歩いた(その2) 


 昨年1月「はがき通信」No.67で紹介された森さん(以下敬称略)の凄まじいリハビリ記録は大きな衝撃を全国に与え、この4月までにメールだけで650通以上、その他電話・手紙・FAXなどを含めると一体どのくらいの数になるのか唖然とします。その方たちの中から50〜100の設問回答をもらい「これは訓練次第では動きを取り戻すだろう」と思った5人の最重度頸損のリハが始まりました。いずれも座位は保てず、それこそ「完全四肢麻痺」と宣告された方々ばかりでしたが条件が悪過ぎました。受傷は短い方で3年、長くて7年だったからです。国リハ、県リハを退院「させられ」行く処がなく失意の内にベッドか、良くてベルト固定車イス生活でした。当然在宅では関節の屈伸・屈曲のみで訓練にはほど遠いものでした。それでも私から見て、森より「軽度」でした。私の100の設問項目の最初は「診断結果と転院先のリハ病院ではなんと言われましたか?」です。その回答は「可能性は限りなくゼロ」「完全四肢麻痺」「現状を早く受け入れ」「残存機能活用」と見事に同じです。同じ設問項目の最後は「本人と家族の中に諦めは?」その回答です。「今に動くと信じていた」「諦めなど全くありません」「本人が諦めていないのにどうして私たちが」「諦めたら最後と思っていた」これまた全く同じです。専門医の絶望宣告にも彼等は絶対諦めず撥ね退けるその強靭な精神力に私は感動したのです。さっそく訓練ビデオを作製し、厳密なリハスケを組み、在宅で、あるいは来樽での集中トレの結果、半年後の彼等はどう変わったか。
 全員ベッドから抜け出し、さらに車イス離脱をなしとげ、椅子で腹筋を使った前屈と後屈訓練。さらには重脊損にとっては最も難しい上肢回転を難なくこなし、しかもほんのわずかな支えで見事な立位までした青年も現われました。
 こうして最初の5人が今では(4月)38人にもなり、これからも増え続けるのは確実です。何故私は森のリハを投げうってまでこうするようになったのか。
 それは簡単です。1つは森も含めて立ち、歩いた方がまず言われる「あれはたまたま受傷程度が軽かっただけ」もう1つは私に対してさんざん言われた「結局は宗教かお金が目的だろう」この2つを根底から覆してみせるとの激しい執念からです。
 特に昨年の暮れにはわずか10日ほどしか休めず、年が明けてすぐ厳寒の中、がっちりベルト固定のまま来樽してくるのです。
 もし「はがき通信」での投稿枚数に制限がないなら、これら38人全員の著しい機能回復をぜひ知っていただきたいと思っているのです。その中でもごくほんの一部の方々の衝撃的な事実をありのままお伝えします。
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[大阪48歳男性]C5〜6、受傷3年。原因(長野で雪道滑落)平成13/11。平成14/3再来樽。
 この方の来樽は強引でした。こちらのスケジュールを無視して「これからすぐ行く」からです。昨年の11月末であり、宣告はお決まりの「動くことはありません」です。在宅3年間、わが身に降りかかった不運をただひたすら恨み続ける毎日でした。しかしこの方は非常に激しい誇りを持っていたのです。それは「こんな姿、人に見せてたまるか! 俺は必ず復活してみせる」でした。そのくせ一切リハなしという奇妙なアンバランス感覚の持ち主でもあります。ところが全てに反応があったのです。そこで再度の来樽に備え、30項目のリハスケを組んだのです。
 それを奥さんと2人で1日8時間、完璧にこなして今年の3月に来ました。10日間の集中トレの3日目、ついに松葉で最初の1歩が出て、帰る間際、渾身の気迫で「復活だ! 復活だ!」と叫び、よろめきながら森のリハルームを1周しました。現在この方は歩行補助具で毎日200m歩いています。この7月に3度目の来樽ですが間違いなくペンションオーナーとして「復活」します。
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[東京22歳男性]C4〜6、受傷8ヶ月。原因(大学柔道対抗試合)平成14/2来樽。
 日本では良くて一生チンコントロールと言われ、西村さんの紹介で約40日後に渡米。何よりすごいことは膀胱ロウを免れたことであり、ここが人間の尊厳に対するわが国とのじつに大きな差を感じます。両腕は肩まで上がりましたが実用的ではなく、ここでも下肢全廃との宣告です。2ヶ月後に帰国し、今年の2月小樽に来ましたが、8日間の滞在後帰る間際、ベッドを背にしてついに見事な立位をしました。「徹!」と叫んだお母さんの息を殺した絶叫が耳から離れません。肩に取りすがりいつまでも泣いていました。顔から血の気が引く私のハードトレを、すさまじい迫力でこなすのです。感動したのは全力を振り絞った後、籐椅子で寝るその姿です。そこにはじつに穏やかな22歳の青春がありました。青年は過去を振り返らず、愚痴も弱音も一切吐きません。それがリハに挑む時、柔道部主将として格闘技に立ち向かう、母親が言う「一変したわが子の恐ろしさ」が出ます。私は「この青年は今に必ず立ち、歩く」と確信していたのです。実際その通りになりました。この6月に再度の来樽です。
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[千葉26歳男性]C4、受傷9ヶ月。原因(交通事故)平成14/4月来樽。
 この青年は建築関係に従事しており、足場の上を30Kg以上の建材を何の苦もなく運んでいた毎日です。そのおかげでじつにがっしりとした筋肉が上肢に巻き付いていました。しかし全身麻痺との宣告どおり、当然全てに反応がありません。何よりもその性格は短気で喧嘩早く、しかしじつに愛すべき青年でした。私が課す激しい特訓を小気味いいほど次々とねじ伏せ絶対音を上げないのです。起立性低血圧を完全に克服できず、それでも前屈・後屈・捻り・回転・床運動に挑戦し続けます。1週間の集中トレの最後、人差し指と親指で丸を作れるまでとなり、ついに冷蔵庫を背にして見事な立位をしたのです。この青年に私は「このつぎ小樽に来る時は1人で。両親が付き添ってくるなら絶対受けない」というとてつもない宿題を与えました。「必ず1人で来ます!」と即座に断言したのです。自走車イスで来ることだけは間違いありません。
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[町田市28歳男性]C2〜4、受傷2年。原因(交通事故)平成14/4来樽(現在もリハ中)。
 その回答を読み、あまりの凄まじさに絶句しました。ガードレールに跳ね飛ばされ電柱をへし折り、路肩に転落して後部窓から放り出されたのです。2〜4頸椎骨折・外傷性クモ膜下、頭蓋骨骨折、脳挫傷、右目は視力を失い、身体は捩れ、生きているほうが不思議です。搬送では「死んでいた」と言います。何故助かったのか。それは日大に搬送され、世界に誇る脳低温療法のおかげです。これは脳が頭蓋から飛び出た人でも歩き出している、という劇的な療法であり、柳田邦男著の『脳治療革命の朝』に実例の数々が詳しく紹介されています。2週間目にポッカリ目を開け、意識が目覚めました。しかし今でも前後3ヶ月ずつの記憶は全くありません。頸髄の治療どころか、全力を挙げ、この低体温療法で脳圧の上昇を下げたのです。当然気切でしたが、それを閉じての来樽です。
 覚悟はしていたとはいえ青年の身体を見た時、息を呑みました。右肩が大きく上がり、しかもその身体は「く」の字に曲がっていました。当然上肢には筋肉が一切ありません。ところが入院期間中左手と左足が微かに動き、それを見て医師は「不思議だ。考えられない」と連発していたそうです。何故ならフィルムにはお母さんでさえ頸髄にスパッと横断され灰白質化した傷を確認しているからです。ところが動きました。動いたどころか歩行器で森のリハルームを1周したのです。その姿をお母さんは「信じられない、信じられない」と震えながらビデオに収めていました。そして身体の歪みも治ったのです。この青年もまた確実に立ち、歩きます。
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 今まで紹介した例はあくまでも特殊と思うでしょう。それでは38人全員の例を示したらそれでも特殊と思うでしょうか。1年もせずに立ち、歩いた方が3人。立った方が7人。立ちに挑戦している方は全員。ベッド生活は1人もいません。私は何よりも立ちに全力を挙げます。それは人間はそもそも立つために創られているからであり、血圧はもちろん、内臓機能までもです。そのためには徹底した厳しい下肢訓練をこれらの方に課します。
 それが腹式呼吸により身体の中に崩れ落ちない1本の芯を打ち込む横隔筋、腹筋強化と床運動による腰筋訓練なのです。
 物をつかみ、食事することよりも人間の尊厳を取り戻すというこのただ一点に私は全力を注ぎます。この尊厳とは「排泄」に尽きると私は確信するからです。ベッドでの摘便排泄がいかに人間の尊厳を傷つけるか。そしていかに人間の生理機能を無視した無理な姿勢での排泄であるか。重力を利用した腹筋による「力む」機能が目覚めてこそ括約筋への刺激になります。椅子トイレ、あるいは便器に縛りつけて、どんなことをしてでも、私は便座排便をやらせますし、これを克服しなければ訓練項目は決して渡しません。
 今まで数年間もベッド排便が当たり前と思っていた方々がこれを成し遂げた時、感動のあまり親子で、夫婦でトイレで泣いた、という報告が数多くくるのです。早い方で1週間。遅くても20日間で便座排便に漕ぎ着け、しかも大幅な便通改善と便意を感じています。
 ところが私の所に来た方々は今まで1人も排泄訓練はおろか、徹底した下肢訓練を受けたことがないという事実に愕然とします。「完全」「絶対」と宣告された人たちがこうして次々と動きを取り戻しています。受傷直後、訓練を始める前の段階でのこれらの宣告がいかに間違っているか。いかにその方の人生を大きく狂わせる残酷な言葉であるか。専門医が「貴方は歩けるかも知れない」と言ったら、本人と家族は歩ける、と保証されたと確信するでしょう。それ故に安易な言葉は言えない職業上の怖さは分かります。だが逆に「歩くことはない」との宣告は、立ち、歩くことはない、と「保証」することでもあります。38人全員がこれを保証されましたが動き、立ち、歩きました。私が動かしたのでなく、それだけの機能が残されていただけであり、私はそこへ刺激という強いボタンを押したに過ぎません。彼等は1人の例外もなく希望を失わず決して諦めてはいませんでした。ですから動きました。
 これからも次々と現われ、そしてそのつど報告します。
右近 清 Ukon@aioros.ocn.ne.jpメール
 


痙縮をともなう重度痙性麻痺でお悩みの方へ


 このたび、山口労災病院にて重度痙性麻痺に対する治療法の臨床試験を実施することになりました。脊髄損傷や脳性麻痺などの患者さんを対象に、バクロフェンというお薬(抗痙縮剤)を長期間、ゆっくりと適量を入れつづけ、強い痙縮をおさえる新しい治療法です。この治療法は、バクロフェン髄腔内持続投与療法(ITB)と呼ばれています。
 このまったく新しい治療法の特徴は、お薬を持続的に注入するために、下腹部の皮下にポンプを植め込むことです。錠剤などを服用する場合と比べ、直接脊髄内にお薬を注入するため、ごく少量の注入で効果を得ることが期待できます。また、お薬の副作用を最小限に抑える可能性もあります。この治療法は現在世界19ヶ国で承認、発売されており、年間5000人近くの使用実績があります。欧米で行われた臨床試験では、約97%の患者さんに改善が見られています。
 この治療法が日本で使われるようになるためには、日本国内での臨床試験が必要となります。臨床試験の成績は、厚生労働省に提出して許可を求める必要があるため、試験参加のために以下に示すいくつかの基準が設けられています。
・重度の痙縮を有している方
・痙縮発症後6ヶ月以上経過している方
・17歳以上65歳未満の方
・過去6ヶ月以内に他の臨床試験に参加していない方
・ペースメーカーなどプログラム方式の医療器具を植め込んでいない方
 上記の基準も含めて、診察にて参加可能かどうか確認しなければいけませんので、このITB治療に興味をお持ちの方は、一度病院にいらしてください。
 この治療法についての詳しい説明は月曜日午前のリハ科外来、または月曜日午後、火曜日午前中の整形外科外来で行います。
 なお、このITB治療の治験申し込みは平成14年6月で終了します。
 電話での説明はしていませんが、問い合わせは可能です。
 TEL:0836-83-2881 山口労災病院 山口労災病院整形外科 富永・國司(敬称略)
 

(情報提供:夢運び人さん)

 

プログラム通信講座の紹介

C4

 皆さんこんにちは。この「通信」が届く頃には、きっと、暑い、暑いと唸っているような気がします。
 さて、私の所属しているグループでは、障害者のためのプログラム通信講座にボランティアとして参加しております。
 この講座にて、第9期受講生の募集を開始いたしましたのでご紹介いたします。どんな障害があっても、働きたい、仕事をしたいという気持ちは、健常者と何ら変わることはありません。
 今日のパソコンのめざましい普及は、そのような障害者にとりまして大いに役立つものとなりました。
 しかし、多くの障害者が勉強をしたくて既存のパソコン教室に通いたくても、バリアーや金銭の問題にて通えない現実があります。勉強をして、新たな道を探したいという障害者にとって、少しでも手助けになればという趣旨で開設されたプログラム通信講座です。
 今までは、約8ヶ月の講座期間を全て無料にて実施してまいりましたが、受講生の環境の大きな変化に対応するために、一部有料化を取り入れました。詳しくは、下記ホームページのプロジェクト・Access講座をご覧ください。
 「Access講座OBの会」 

URL:www.max.hi-ho.ne.jp/access-ob/


 障害者が、パソコンを用いて、より高度な在宅ワークを目指すときの、大きな一歩になると思います。


 何事もうまくない 

頸損C−4.5、受傷歴43年、独居、電動車イス使用、コンドーム式排尿具、私的ヘルパー

 今冬は日本も暖冬でした。このまま地球の温暖化が進めば、暖かい海外で越冬する必要性もなくなるのだろうか、と思いつつ、年中行事のフィリピンでの100日間の長期滞在を終えて帰国しようと準備中のことでした。
 マニラ⇒福岡の便はフィリピン航空が直行便を就航させ、他に中華航空、大韓航空、キャセイパシフィック航空が即日便を持っています。フィリピン航空とキャセイパシフィック航空は数年前から車イスの身障者をアテンダントなしでは乗せてくれないので、前もって中華航空に搭乗予約を入れておきました。ところが、「今年になって規則が変わったので、アテンダントと一緒に予約を申し込むように」という電話がかってきました。いまさらアテンダントを探すのも大変なので、大韓航空に予約を申し込むと、ここも「今年から規則が厳しくなり、マニラの大韓航空クリニックで身体検査をを受け、医者の旅行許可証がとれれば航空券を発行する」というのです。
 福岡空港に帰国する私と胸損のT君はさっそく4時間かけてマニラのクリニックに駆けつけ、許可証をもらって航空券を申し込んだので、これで3日後には帰国だと喜びました。ところが、翌日また航空会社からの電話で、「ルセナ市の地元の医者の許可証も必要だ」と言います。そこで、知り合いの外科医に事情を話して旅行許可書を書いてもらい、これで帰国間違いなし、と安堵しました。ところが、また航空会社から電話で、「本社から許可が下りないのでダメだ」と言うことです。
 これで福岡行きの国際線4便はすべて絶望となりました。「もとゆひのしまらぬ朝は日ひと日 わが髮さへもそむくかと思ふ」(九条武子)
 うまく行かないことはうまく行かない。しかし、何事もなるようにはなる。気を取り直して、旅行会社に頼みこみ、関西空港行きを探すと、タイ航空が飛んでいます。しかも簡単な医師の旅行許可証があれば、車イスの身障者だけでも乗せるというのです。結局、当初から1週間悪戦苦闘の末、3月11日にマニラからタイ航空で関西空港に飛んだのです。ところが、到着したのは夜の9時半です。もう、新幹線は間に合いません。そのまま待合室で8時間仮眠し、翌12日の朝、新大阪に行き、新幹線で北九州市の小倉駅に戻ってきました。リクライニング式とはいえ、電動車イスに乗ったまま一夜を明かすのはさすがに疲れました。
 最近、身障者に対する航空会社の差別は厳しくなる一方です。これは昨年のニューヨークテロとは関係がないと思われます。なぜなら、付添なしの車イスの身障者は乗せないと、今年になって方針転換した航空会社が急に増えているからです。何かの理由を付けて身障者の搭乗を拒否するという最悪の状態になっています。
 これは、高齢化社会を迎えて、私たちみんなが旅行を制限され、自由を奪われる不愉快な社会になりつつある前兆だとも言えそうです。これらの身障者に対する制約が、電車、バス、タクシーなどに適用されだしたら、どうなるのでしょうか。また、そういった弱者いじめの社会的風潮が世界中に蔓延したら、私たちが安心して暮らせる理想社会は遠い彼方へ消えていってしまいます。
 差別が激しくなる一方の現状で、人は優しさを忘れ、思いやりを切り捨てて、自分だけは差別される側には置かれないだろうという淡い希望にすがって生きていっても、果たしてそれが何歳まで続くのでしょうか。
 越冬したフィリピンの「日本人身障者の家」は今年20周年を迎え、皮肉にも、今年2月の滞在者が17名に達する新記録でした。みなさん、10日以上、長い人は1ヶ月以上も長期に滞在しますから、一時は食堂にまでベッドを持ち込むありさまでした。近くに住む日本人やフィリピン人も大変親切です。そうでないと、外国で何ヶ月も重度の身障者が暮らせるものではありません。社会は決して悪い方向には進んでいないんだと確信させるものがあります。
 そうすると、社会の中にいろいろある逆行現象をどうとらえたらいいか、判断に迷ってしまいます。
 願わくば、社会が万人にとって住みやすい場所になってほしい、そのためにはみんなで力を合わせて、できることをやっていかなくちゃあ、と強く思ったことでした。

編集顧問:向坊 弘道





 主人と一緒にウイン少年合唱団・コンサートに行く



 「通信」の皆様お元気でお過ごしでしょうか。今年は例年より2週間も早く桜が咲き、あっという間のお花見でした。チューリップも藤の花も本当に短い花の季節でした。今年は3月早々に『わが家の太陽、建ちゃん』の全国出版と、主人の介護とたいへん忙しく過ごしていたことで、季節の移りゆくこともよりいっそう早く感じたのかもしれません。やっと4月も後半となり妙に落ち着いてきたような感じがいたします。「はがき通信」No.74に本のご紹介をしていただきありがとうごさいました。建二は、また新しい気持ちで皆様とお会いできたことを心から喜んでいることと思います。
 4月8日ウイン少年合唱団が来日しました。今年は大宮ソニックシティーホールでの埼玉公演(4月13日)に主人と長男、私と、皆んなでコンサートへ行くことができました。主人は、コンサート日程の1週間前に9度3分の高熱を出し、また肺炎にでもなるのかとたいへん心配しましたが、どうにか普通の風邪のようで熱もすぐ下がり一安心しました。咳やクシャミがいつまでも続き4月13日コンサートの日までにどうしても良くなってほしいと風邪薬を飲み頑張りました。主人はたいへんコンサートを楽しみにしていましたから、4月13日、お天気も良く、たいへん暖かく主人が出かけるのには最高の日和です。上福岡から大宮ソニックシティーホールまで約40分かかりました。コンサート開演はPM6時30分です。ちょうど1時間前に到着しました。広間でお茶を飲んだり、写真を撮ったり楽しい一時でした。いよいよPM6時30分コンサートが始まり、指揮者の先生を囲み白いセーラー服姿の少年たちが舞台に並び大きな拍手に迎えられ、第1部「ミサ曲」から始まり、シューベルトの「アヴェマリア」、ほか私の大好きな曲、「シバの人々は来たる」、「子らよ歌え」などの曲が歌われ、主人も一生懸命聴いていました。第2部、オペレッターです。色とりどりの美しい衣裳を付け、美しい歌声で歌い、ウイン少年合唱団のオペレッターでした。第3部は、ヨハン・シュトラウスの「ポルトガル」や、「美しく青きドナウ」が歌われました。それから日本でも良く歌われ、知られているシューベルトの「野ばら」、シューマン作曲「流浪の民」、日本の歌「浜辺の歌」などなつかしい歌も数々歌われました。またアンコールには、雅子様に赤ちゃん誕生を祝い日本語で「こんにちは赤ちゃん」がすばらしいハーモニーで歌われ心温まる思いでした。
 PM8時30分、コンサートは万雷の拍手とともに無事終了いたしました。主人も何事もなく元気でコンサートを楽しむことができました。帰りには、楽屋から出てホテルへ入る少年たちの写真を撮ったり、楽しく思い出に残るコンサートでした。帰りにはタクシーで上福岡まで30分で無事に帰ることができました。美しいプログラムを、もう一度見ては楽しむ私でした。また2年後も主人ともどもコンサートへ行けることを心から願い楽しみにしています。
 「通信」の皆様、この季節の変わり目です。どうぞくれぐれもお身体を大切にお過ごし下さいますようにお祈り申し上げます。
 
HS
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