は が き 通 信 | Number.54---P2 |
POST CARD CORRESPONDENCE | 1998.11.25 |
前ページへもどる 約1ヶ月間、首を動かさずに寝ていました。足は動いていました。しかし固定した首のものを取れと大騒ぎの毎日でした。本人はあまり覚えてないらしいです。 平成10年5月10日ごろ 造影剤を入れて撮影したものを見て、頸随の損傷がはっきりと解りました。同時に髄幹の狭窄があったので、広くするための手術をおこないました。手術後少し手が上がるようになり、足が活発に動くようになりました。数日後には歩けました。手は肩のところまで上がりました。先生方は手も足も使えないと言っていたので、びっくり! 頭のほうの記憶もドンドン取り戻しました。リハビリすればもっと使えるようになると、期待していましたが……。しかし、しびれ、痛みは増大してきました。ドンドン痛くなるため、本人は退院はまだまだダメだと思っていましたが、平成10年6月中頃退院となりました。 リハビリすればするほど痛くなるので、はじめはリハビリの反動と思っていました。どうも違うようなので、調べると、筋肉の硬直がすごい。筋肉がパンパンになり、動かすと骨が折れてしまうと言うくらいです。いくら病院に訴えても「頸椎を損傷しているから痛いのだ」「ドンドン動かしなさい」の一点張り。そして緊張緩和剤、下剤、痛み止め(飲み薬、座薬)をドンドン飲みなさいと……。 しかし、今ではまったく動かなくなりました。今、痛くてほとんど寝たきりで、動かさなくなってきました。本人は痛みで気が狂いそうだと言っています。 そんな状態で、今、苦しい最中です。なんとか痛みを改善したいと、神奈川リハビリ病院に相談しようとしてますが、痛みについてはどうでしょうか? 痛みについての情報を探しているところです。よろしくお願いします。
神奈川県 : YW
いつも2、3部送っていただいているので、私が1部とり、あとは近くの頸損の方にあげ(この方も1人で暮らしていらっしゃいます。1日に1度ヘルパーさんに来ていただいて、夜はヘルパー人材センターから来ていただいてらっしゃいます。もう10年近くなるらしく、最近やっと笑って話せるようになったと言っていました)、残りは訪問看護婦さんやヘルパーさんに見ていただいています。
山口県 HNの母M
スピーキングバルブを使って3時間あまり話ができました。途中、疲れないかと聞いても大丈夫と、長時間、じっくりお話を伺ってきました。人工呼吸器を使っている人とこんなに長く、自由に話せたのは、久しぶりでした。
Kさんが使っているのは、アイリーンさんが最初に贈ってくれたPMスピーキングバルブでした。同じものを使ってもなかなか上手に話せず、そのうち話せなくてもいいと諦めてしまう人が少なくないので、Kさんにぜひ「通信」に書いてくださいとお願いしました。
(編集委員 松井和子)
1998年10月7日
高知県 KK
体が不自由になったことで、人が本気で私に気持を注いでくれているのか、嘘事できれいごとで言っているのか、何となしに私には分かります。人というのは、私が思いをもって接すれば伝わるんだということをこのヒューマンを通じても実感しています。人間というのは本当に「あったかいな」という思いをさせてもらいました。 私はどの宗教も信仰していませんですが、私自身が信じる神様があります。私は、その神様の手の平に乗っけられて、私ならこの障害を乗り越えられると神様に選ばれたと思っています。だから私自身に負けるわけにはいかないのです。私は、こんな自分自身が好きです。 私の対人援助職(ソーシャルワーカー)にしても、やはり自分自身が感性をみがきながら、バランスがよく保たれていないと人の話を聞けないと思います。こんな私を分かってほしいという気持があるのなら、いろんな人を受け入れなければなりません。 なんでもないそこら辺にころがっている石を、「これが私の宝物よ」という人がいたら、「なんでそんなものを」と思うのではなく、「あっそれがあなたの宝なの」と思い、それにはどんな思いがこめられているのかを理解し、それがその人の本当の宝物だということを共感できる大人でありたいと思います。私自身、いろんな人とお話しして、人と話すことによって、自分自身が一番みえてきます。知らなかった自分も発見します。 相手のことが許せないと思うこともあるんですが、実は、許せないのは私自身の心の中にあるなと、そんなふうに思います。自分の心の中に壁を作れば、相手にも壁を作られてしまいます。せめて壁は薄く、低く、いつでも崩せるような壁であってほしい、作ってしまったとしても、その壁を乗り越えていける私でありたいと思っています。
高知市 MU
70歳、男性、四街道市在住、妻と2人暮らし(妻63歳)、長女42歳、12人子供あり。 平成9年9月24日、自宅庭先の植木いじり中に誤って転落し受傷する。救急車にて近くの救急病院に搬送後、千葉県救急医療センター搬送となる。救急隊到着時より頸部痛、四肢麻痺あり、意識清明、呼吸は腹式であるが安定していた。 X-P.HRIにて(5/6脱臼骨折の診断、C7以下の完全麻痺 9月29日〜11月25日)ハローベスト装着。 10月20日、急性期は過ぎたとのことで、初め搬送された病院に転院となる(家族はリハビリセンターへの転院を希望していたが、高齢者ということで断わられる)。転院後約2ヶ月間入院、入院中に仙骨部褥瘡形成。家族、本人の強い希望で12月13日退院、以後在宅にて経過。 12月22日より訪問看護開始2〜3回/週、Dr往診1回/週、ヘルパー1回/週。 バルーンカテーテル挿入中、3月下旬尿路感染にて発熱あり。褥瘡、縮小傾向にあるが完治せず。在宅にて起立性低血圧のため1度意識不明・消失したことあり。 在宅に移行後は近隣に住む長女が妻と2人で介護をしている。家族はリハビリのできる病院、または施設などに入院させ、可能性を試してみたいと思っているが、本人がいまいちその気にならず……。外にもまったく出たがらず、家族介護疲れあり、ショートステイをすすめるも、本人それもいやとのこと。体交、プッシュアップ不能。
千葉県 T(医療法人社団ゲットウェル会 四街道 大日老人訪問看護ステーション)
カンファレンス前日の19日に、新横浜駅から新幹線に乗りました。新幹線の中では、車いす用の個室に席を取ったので、母と2人だけでゆったりとできました。ですから、ゆっくりお弁当を食べて、友達に手紙でも書こうと思っていたのですが、岐阜に着くのは、あっと言う間で、お弁当を食べるだけでも大変でした。 岐阜羽島の駅に着くと、ボーイスカウトの男の子たちやボランティアの人たちが待っていてくださって、リフトバスの場所まで案内してくれました。私の他にも、もう1人脳性マヒの車いすの方がいらしたので、一緒にリフトバスに乗り、ホテルに向かいました。 途中、長良川などが見えました。ホテルに着くと、スロープになっているところから中に入 れました。ホテルの隣の部屋は麩沢さんでした。次の日、リハ工カンファレンスが始まりました。今までは、参加するだけで発表はしたことがなかったので、今回は本当に他の人の発表を真剣に聞きました。OHPやスライドの使い方や時間の配分など、皆さんとても上手です。会場では、上村さんご夫妻がとても忙しそうにしていらっしゃいました。そしていよいよ私の発表の日が来ました。朝からとても緊張していて、まともに顔が笑えませんでした。本当は原稿をほとんど見ずに、発表しようと思ったのですが、緊張していてかなり下を向いてしまいました。 初めての発表の目標は、時間内に発表を終わらせることだったので、自分としては一応目標は達成できました。 そして、この日にはもう1つ大きなイベントがありました。それは「ノーマライゼーション・ファッションショー」でした。発表が終わるとすぐ、ファッションショーのリハーサルがあり、こちらの会場にはたくさんの高校生のボランティアやモデルの男の子や女の子がいて、すごく活気のある感じでした。 リハーサルでは、順番を決めたり舞台上での動きを決めたりして、楽しいけれど覚えるのが大変でした。リハーサルの後、お昼を食べて、いよいよ本番のための準備です。はじめにメイクです。資生堂の方たちが本格的にしてくれました。モデルの人やメイクの人などと楽しくお喋りしながらお友達になっている間に、どんどん仕上がります。メイクの次は髪の毛です。付け毛をしたりアップにしたり、巻いたりします。あとは衣装をつけるばかりです。私は黄緑色の振袖です。着付けの方の腕の見せ所です。普通とは違う着付け方です。まず車いすに着物をひいて置いて、3、4人の方で着付けます。感覚のないところに結び目や留め金がこないように気を付けながら、手際よくとめます。普通は、帯が上のほうに来てしまいがちですが、工夫してあるので綺麗にできました。出番の前にみんなで写真を撮ったり、お互いに褒めあったりして、楽しく待ちました。リハーサルどおりに、順番に舞台に出て、いよいよ私の出番になりました。 音楽とともに電動車いすを動かして、舞台に出ました。スポットライトがまぶしいくらいに自分を照らして、お客さんはあまり見えず、気持ちよかったです。いつもは舞台を観に行っているばかりですが、自分自身が観られる側に立つのは本当に素敵な経験でした。その後ナイトセッションで、自分の発表や他の人の発表についての意見を聞いて、その日は終わりました。 今回のリハ工学カンファレンスは、自分も発表者の一人になれたので、本当に勉強になり、そして思い出深いカンファレンスになりました。岐阜県の高校生やボーイスカウト等のボランティアの方たちにも、とても親切にしていただいて岐阜県でのカンファレンスは忘れられない記念になりました。(以前メールを下さった方々、ありがとうございました!!) 10月も後半になりやっとお天気も安定し秋風を感じられるようになりました。お陰様で私も元気で味覚の秋、菊薫る秋を楽しんで居ります。 平成10年8月15日、「はがき通信」の購読者ではありませんが、山口県にお住まいのMH様から1通のお手紙を頂き、「あの子の笑顔は永遠に」の本をお送り致しました。H様は、お知り合いの方から「はがき通信」を見せていただいたそうです。 私は健二の鉄棒事故のことがふと思い出されました。あの事故の日より10年の月日が流れましたが、私は片時も忘れることは出来ません。 Hさんの意識はすぐにもどりましたが、全身マヒになり、呼吸器は生涯に渡り取れないだろうと先生から云われました。それから1週間ほどして呼吸器を付けて一般病棟に移りました。どうしても呼吸器を取りたいと、アンビュウーを押したり、胸を押したりしました。ピーピーと鳴る呼吸器がこわかったけれど、とにかく先生も、看護婦さんも、お母様も必死で頑張りました。呼吸器を取り,自宅に戻りたいの一念でした。時には泊まり込んで24時間の介護をされました。私も無我夢中で昭和医大に通った日々がついこの間の出来事のように思い出されます。皆、我が子の為に不眠の介護をしています。同じ経験をした人でなければ分からないこの気持ちを分かり合う事が出来ました。 息子さんの入院中に病院に立ち寄られたHさんのご主人が急に激しい頭痛に襲われて意識不明となり、診察の結果、くも膜下出血と診断され、脳外科に運ばれましたが亡くなられました。Hさんは、呼吸器の付いた苦しい中で、「ぼくがお父さんをこんなにしてしまった」と泣き続けていたそうです。きっと息子さんの事故の重大さによるショックと心労のためだと思います。奥さんは何が何だか分からない内にご主人を亡くし、想像もつかない程の二重の悲しみを一度に体験されてしまいました。 私は涙ながらにお手紙を読み、私以上に大変な思いをされながら頑張っていらっしゃる方もいる事に深く心をうたれました。その後、Hさんは呼吸の訓練で頑張りました。お母様の必死の努力もあり、呼吸器が取れて自力呼吸が出来るようになりました。何と素晴らしい事でしょう。思わず笑えむ私でした。 平成7年11月、Hさんは徳山中央病院からリハビリの為、小野田労災病院へと転院されました。平成8年5月小野田労災病院から、家の改築の為、徳山中央病院へ入院。 平成9年、いよいよ徳山中央病院より退院する事が出来ました。4年間の入院生活から晴れて自宅での生活となりました。その日から2年、Hさんは21才になりました。排尿(管は入っていない)、排便も分かるようになりました。お腹をマッサージしてしばらくすると排便します。ここまでよく快復出来た裏には、お母様の深い愛と看護があったからではないでしょうか。 Hさんは、最近自宅の生活で少しストレスを感じているのでしょう。ワープロ・ファミコンもあきた、人にも会いたくない、と云い、お母様を困らせているそうです。外へも出たくないようです。毎朝配られる新聞には目を通しています。単純になりがちな自宅での生活にあきてきたのかも知れません。今はテレビでプロ野球を見たり、ビデオを見たりして楽しんでいます。好きなスポーツを応援したりする事も楽しいようで、遠方より応援しています。 H様より2通目のお手紙を頂きました。「あの子の笑顔は永遠に」を読み、毎日健二君とお話をしています。私も笑顔で健二君とお話しできるようになれたら、と思っています。それから訪問看護の看護婦さん・ヘルパーさんにも健二君は笑顔で語り続けています、と書かれていました。又、今一番嬉しい事は、こうして同じ体験をし、同じ思いの方にお手紙を書けることになった事です、との嬉しいお便りでした。この1冊の本が少しでもH様のお役に立つことが出来て、嬉しい気持ちで一杯です。 これから寒さに向かう季節になります。お母様、Hさん、ご家族の皆様、お身体に気を付け頑張って下さいますようお祈り致します。
埼玉県 HS
大学病院外来に運ばれ、「超音波検査」「採血」「レントゲン撮影」と検査が続き、担当医からは予想していたとおり「このまま入院してください」とあっさり言われ、泌尿器科・皮膚科混合病棟に緊急入院しました。検査結果を携えて担当医が直径1cmものチューブを鼻から胃に入れました。以前にも経験があるとはいえ、45cmも飲み込むのは苦しいことでした。胃に溜まった物やガス、胃液を抜くための処置です。その時から点滴による栄養補給、絶食絶飲生活が始まりました。チューブが入っているため喉が痛み、唾を飲み込むのも一苦労でチューブが抜けるまでは半分死んでいました。 今回内科系病棟に入院し、担当医や看護婦さんにたいへんお世話になりました。親切に面倒をみてくださいました。感謝!感謝!です。 が、一つ解ったことがありました。小さい子供からお年寄りまで幅広い年齢層のいろいろな病状の患者さんが入院されているので(比較的お年寄りが多く、痴呆症の方も何人かおられる)、私のような重度身体障害者の入院はごくめずらしいようです。だから、寝ながらのうがい、膝を曲げての体位交換・着替え、立て膝によるお尻の床ずれ防止、簡易リフターによる車椅子への移動、などの介助方法を知らない人がほとんどでした。 日勤・準夜・深夜の3交代制だと3度3度担当になった看護婦にそのつど私の場合の介護方法を説明しなくてはならず、いささか疲れました。しかし、1、2年めの看護婦さんは「またひとつ勉強になりました」と言ってくれて、重度身体障害者への看護方法を覚えてくれた看護婦さんの言葉は嬉しい限りでした。 「アッ! 電気が……」 あわてて駅員さんが、ドアを開けようとしたが、無情にもエレベーターのドアが閉まった。その瞬間、暗闇の世界。真っ暗で、時間が経ってもまったく何も見えない。2階に着くまでの我慢だと思っていたが、エレベーターも動かない。駅員さんが何度もボタン類を手探りで押すがドアも開かない。エレベーター内は、私の大きな電動車イスと友人の女性、駅員さんの3人が乗り込むと身動きできない。 狭い中に、私たちは閉じ込められたのである。最初は、すぐにドアが開くと思い、楽観していたが時間が経つにつれ、だんだんと不安が襲ってくる。真っ暗の中で、いろいろなことが頭をよぎる。以前、車イスの方が1日中エレベーター内に閉じ込められたことなど……。私の気持ちには余裕はなかった。 そのとき「トントン」とドアをノックする音が聞こえた。駅員さんが「誰かいますか?」「あけてください!」と呼びかけながらドアをノックすると「トントン」と返事が返ってきた。「これでやっと助かった!」と思ったら、なんと友人の女性と駅員さんがお互いにドアを左右からノックしていたのであった。あまりのおかしさに皆で大爆笑!緊迫ムードは和らいだ。 だが、エレベーター内は、だんだん暑くなるし、呼吸も息苦しく感じ、あいかわらず暗闇と闘っていた。ほんのりと照らしている電動車イスの電源だけが、心を少し落ち着かせてくれた。なんとかして連絡を取らなければと考えていたら、携帯電話を持っていることに気がついた。携帯電話を持つようになったのは、横浜西口で1人でいるときに、突然、電動車イスが故障して、動かなくなったことがきっかけだった。1人で出かける時には、とても心強い友となる。さっそく携帯電話を取り出してもらおうとしたとき、突然エレベーターのドアが開いた。ドアが開く隙間から、まぶしい日差しがこぼれてきた。まるで天国の扉が開くように神々しい。ドアが開いた瞬間、私はすぐに飛び出した。どうしてドアが開いたかは解らないが、エレベーターの故障ではなく、駅員さんの操作ミスだったようである。これも貴重な経験となった。 自宅に帰り、妻にエレベーター内に閉じ込められた話しをすると、さっそく涙を流しながらの大笑い。 「ギャハハハ……」とまらない。どうも人の不幸が楽しいらしい。困ったもんだ。 (~o~)
横浜市 MI
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