は が き 通 信 | Number.48 |
POST CARD CORRESPONDENCE | 1997.11.25 |
向坊 |
会計に残高を確認しています。わかり次第連絡します。以下の文章は「日本せきずい基金」のパンフ決定版です。はがき通信に掲載していただければ幸いです。
「日本せきずい基金」(設立準備会) Japan Spinal Cord Foundation (Provisional)
現在、日本国内には約10万人に及ぶ「せきずい損傷者」がおり、そして毎年約5千人の受傷者が新たに生じています。残念ながら、現代の医学では「せきずい損傷」を治癒させることは出来ません。
世界中にはたくさんの「せきずい損傷者」がいます。わが国にはすでに10万人、そして毎年5,000人ずつ増えています。 原因の多くは外傷によるものです。脊柱に強力な外圧が加わり、「せきずい」が傷つくことから発生します。最も多いのが交通事故。スポーツ事故や勤務中の事故も少なくありません。さらに階段からの転落など家庭内でも発生しています。 外傷以外に、せきずい腫傷、椎間板ヘルニアなど内因性の「せきずい傷害」でも「せきずい損傷」と類似の身体障害が出てきます。 「せきずい」が損傷すると、手足が動かなくなり、感覚もなくなります。けがの部位が高いほど、麻痺の範囲は大きく、障害が重度になります。胸腰部の損傷であれば下半身麻痺、頸部の損傷であれば四肢麻痺となります。 損傷された「せきずい」が回復し体が元どおりになれば問題はありませんが、現在の医学はそこまで進んでいません。
治癒への道が開ける間、「せきずい損傷者」は早急に障害を受容して、誇りと責任ある人として生きてゆきたいと願っています。しかしながら、わが国の現状はどうでしょうか。大半の「せきずい損傷者」は、つぎのような生き方をしています。
要約して言えば、『日本せきずい基金』は以下の事柄を根本理念とします。
私たちの願いを実現するために、「日本せきずい基金」は次のような事業を行います。
① 損傷された「せきずい」の再生研究に対する資金援助。 2:「総合せきずい情報センター」を設立し、運営する。
①デ−タベ−スの作成、提供。医療機関情普@ 医療・医学情報など 3:国際組織との情報交換と交流を図る。
『日本せきずい基金』設立準備会発足!あなたの力を貸して下さい!
●明日はわが身 私たちはつぎのような理由で「日本せきずい基金」設立のための準備会を発足させました。 わが国で毎年発生する「せきずい損傷者」は約5,000人です。その半数近くは交通事故。20歳と59歳にピークがあります。 ”打ち所が悪かった”ただそれだけであなたも明日、「せきずい損傷者」に、車いす生活者になるかもしれません。障害が重度であればあるほど家族への依存が高まり、家庭が崩壊せざるを得ないような現状・・・・・・・・。 残念ながら、この怖さはまだ社会的に認識されていません。一般の人々が知らないだけでなく、病院や官庁の関係者の知識も、実に微々たるものです。 だれに相談してよいか分からないのが実状です。情報センターの設立が急がれます。 ●あなたの力を貸してください! 私たちはなんとか21世紀までに『日本せきずい基金』をスタートさせたいと願っています。 しかし、計画は遠大であり、そのうえ中心メンバーは重度の身体障害者です。とても資金とマ ンパワーが足りません。 そこであなたの力を貸してほしいのです。体力・知力・経済力、いずれかの一部を提供して下さい。 ●活動はもう始まっています! 私たちは情報提供から第一歩を踏み出しました。家族がせきずい損傷で入院したが、病院から は”リハビリは無駄””ジョクソウ(床ずれ)も一生なおらない””早く出ていってほしい”と言われ、困っている。-----そんな方の相談にのります。 大混乱の中にひとすじの希望の光を提供できたらと願っています。
「日本せきずい基金設立準備会」事務局のホームページ
助席同乗中に衝突事故となり第五頸椎脱臼骨折となり頸損になりました。2年8ヶ月入院生活をしていまして現在は在宅で生活しています。退院して間もなく肺炎になり再入院しました。2ヶ月入院生活をして退院しました。 肺炎で予想もしていないことでびっくりしました。呼吸器系統の弱い私達頸損にとっては肺炎はとても恐ろしい病気だと痛感しました。肺炎の間、寝たきりということで床ずれができてしまい2回目の床ずれで治るまでに一苦労でした。
「はがき通信」は多くの頸損者との交流ができるのですばらしいと思いました。また、知らなかったことがいろいろ発見できていいと思います。世間に少ない頸損同士が意見の交流ができるというところは素晴しい。
自己紹介といっても何を書いていいのやら迷いますね(笑)。というこで、これから宜しくお願いいたします。 ※この文章は「はがき通信」の投稿とは違いただの自己紹介ですから....
さて、早いもので、こちらにきて五ヶ月がたとうとしています。日本を発つ前、アメリカでの生活はきっと自分をたくましくさせるだろうと思っていましたが、実際そうさせる多くのことが次から次へと起こってきました。この五ヶ月間は私にとって、肉体的に、また精神的にとても苦しい期間でした。今ようやく生活が安定してきて、これまでのことを振り返る余裕も出てきました。ずいぶんと遅くなってしまいましたが、こちらでの生活のことを少し書きたいと思います。
スーパーバイザーのコリーン・スタークロッフの家から、パラクォード(研修先)のスタッフ、スチュワート・フォークのアパートメントに移ったのは四月一日で、介助者としてついてきた兄がセントルイスを発つほんの二日前でした。電動ベッド、机、椅子、その他、洗剤やビニール袋など、最低限の必需品はとりあえずそろえたものの、まだまだ足りないものばかりという状況でした。 そんな中でまず起こってきたのは、びてい骨のすぐ隣にできた1センチ半ほどのひっかき傷でした。介助者のジェームスが、便器かシャワーチェアーに私を移動させるときに、どこかにぶつけたらしく(私は鎖骨から下の感覚がありません)、次の日病院に行きました。実のところ、この傷のせいで研修は大幅に遅れることになりました。 ジェームスの介助というのには他にも不満な点が多くありました。私は四月の半ば、最初の給料日に彼を解雇したのですが、それを決断した最大の理由は、彼が私の財布からお金を抜き取っているということでした。見たわけではなく、物理的状況や彼の態度からそう判断したのですが、おそらく間違いはないと思います。 排尿の不調による不快感、時間どおりにできない排便、ストレスの多いジェームスの介助、長時間座っていたための傷の悪化・・・その他にも一時間以上もかかる電車とバスでの通勤やエアコンの影響による睡眠不足などがあり、私の最初のアメリカ生活はとてもしんどいものとなりました。 ジェームスを解雇した後、彼の介助の穴はミルトンがカバーしてくれました。ミルトンは親切で、よく気のつくとてもよい介助者で、排便が予定よりも早くなってしまったときなども、君は友達だからといって嫌な顔一つせず処理してくれました。また、彼は朝鮮戦争の頃、日本に十ヶ月ほどいたとかで、「ダイジョーブ」だとか、「イチバン」だとか、よく片言の日本語を喋ります。彼がいたからこそ、なんとかここまでやってこれたといえます。 お尻の傷のため、午後からベッドで過ごすことになり、新たに昼間一時間だけの介助者を探すことになりました。ビルの入り口に介助者募集のビラを貼ったところ、運よくキャンディスという二十二才の中国系アメリカ人を介助者に雇うことができました。毎日三時くらいまで車椅子で過ごし、その後はベッドで横になるという日がしばらく続きました。その頃、午前中はパラクォードではなく、英語学校に通っていました。スーパーバイザーのコリーンが、まずは他のスタッフと十分にコミュニケーションがとれることが重要だと考えたためでした。 「早くパラクォードでの研修を始めたい」研修費用を出資してくれている愛の輪運動基金には、日常生活記録というのを送ることになっているのですが、英語学校や体のことなどしか報告できない自分がなさけなく、ベッドで横になりながら研修再開のことばかりを考えていました。そして三週間ほどたった頃、傷の具合はかなりよくなってきているように思えました。そこで月水金だけ一日車椅子に座ることに決め、それらの曜日の午後はパラクォードに行くようにしました。しかし、それは傷を悪化させ、結果的にパラクォードへの完全復帰をさらに遅らせることになりました。 ルームメイトのスチュワートの具合がおかしくなったのは、パラクォードに復帰することを決めた五月半ば頃でした。彼は四月の下旬にパラクォードをやめており、それ以来、昼夜を問わずよく出かけていました。 その日英語学校から私が帰ったとき、彼はめずらしくまだベッドの上で、熱っぽく体調が悪いといい、その日は一日ベッドに横になっていました。次の日の昼英語学校から帰ったとき、彼は眠っており、起こしては悪いと思い、そのままそっとしておきました。 しかし、夜私の介助者がアパートを去った後、私は嫌な予感がしだし、同じビルの昼間の介助者、キャンディスに電話をしました。彼女が管理事務所に電話をかけ、人を呼んで私のアパートのドアを開け、スチュワートの容体を見たとき、彼はひどく荒い呼吸で意識がありませんでした。すぐに救急車を呼び、彼は病院に運ばれましたが、昏睡状態でとても危険な状態にありました。尿路感染が原因ということでした。しかしその後は回復に向かい、一ヶ月半ほど後に病院も退院し、今では元気に暮らしています。 最初の二週間ほどは、私はほとんど毎日彼のもとに見舞に行っていました。私のお尻の傷の悪化は、そういったことも原因の一つだったかもしれません。 傷の悪化のため、六月の半ば頃から七月の初め頃まで、私は毎日一日中ベッドで過ごしました。自分の体をコントロールすることには、それなりの自信はあったのですが、わずかずつしか良くなっていかない傷には、ほとほと手を焼きました。しかし、実のところ自分を苦しめていた最大のものは、傷そのものではなかったように思えます。私は仮にも他の障害者をサポートする側の人間として、アメリカにきました。しかし、実際のここでの自分はというと、自分の体をコントロールできず、回りに心配や迷惑をかける人間になっていました。 コリーンや愛の輪運動基金に、自分が無能であるなどと思われることを、極度に恐れていました。回りの評価にとらわれ、自分のほんとうになすべきことを見失っていたように思います。
思えば私は周囲の人達に、「ほめられること」「よく思われること」ばかりに気をとらわれ過ぎていたように思えます。そしてそれはしばしば誤った判断を招いてきた。傷の回復が長引いてしまったのは、そのせいだと思います。
パラクォードへは、傷の調子を見て、七月の初め頃から少しずつ通うようになりました。英語学校は授業が文法中心で、会話のスキルを必要としている私には向かないように思え、コリーンには無理をいってやめました。英語は研修を受ける中で少しずつ上達していくでしょうし、自分なりに楽しんで勉強をしたほうが身につくように思います。
最後になりましたが、お元気でいることを願っています。またお便りしたいと思います。 敬具
八月十七日 RK
遅れましたが、私の名はEUといい、30才頚損6〜7です。現在は、妻の会社員をしています。 最近の悩みというと、妻の痛みです。同じ頚損6〜7で、歩けるものの、胸椎1〜6に、水腫ができており、それが、日々生活の中で、彼女を苦しめています。鎮痛剤(セデス・・・ボルタレン)などにも限界があり、ペンタジン注射の期間も狭まり、今回縁あって、硬膜がいブロックに至りました。およそ4時間ほど無痛の状態になり、痛みがないとは、こんな幸せなものかと感動してました。 しかしそれも束の間、どっと痛みのぶり返しで、悲痛に変わりました。今度は、これに水腫を小さくさせるためのステロイド剤を注入してゆく方針です。山あり谷ありですが、くさらず、良い方向だけを考えてゆこうと思います。 話は変わり、趣味については何だろう?今はやっぱり家庭教師です。只今、高3生の子と差し向かってますが、時期が時期ですから、揺れ動く子供の心にどう立ち向かってゆくか?又どう力をつけさせるかを考えると楽しいです。 いずれ、自分も又大学には行きたいと思いますが、今は学力不足です。 みなさんの頑張りばかりがいつも目立ちますが、もうちょっと失敗談も載せて頂けたら、私も自信もってかけます。じゃ私の失敗談ですが、先日同僚と飲み会をしている最中に、パンパンにふくれたおしっこ袋のじゃぐちを開けて大洪水になりました。後日、申し訳なさと恥ずかしさで一杯。
さぁー頚損の季節です。眠っている人達(私も含めて)目覚めましょう。
長崎県 EU
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