は が き 通 信 | Number.44 |
POST CARD CORRESPONDENCE | 1997.3.25 |
ある労災の友人が24時間介護から自宅療養、日中介護だけと生活パターンを変えてきました。苦しいときもあるだろうに、少しずつ向上して行ってるんですね。その努力に頭が下がります。皆さんはいかがですか?
1997年3月25日 向坊
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病院では頸髄損傷の不全と言われました。最初は自分の手足がついている事すらわからず、しびれがひどく痛くて、生きる望みも失っていました。三ヶ月位たつ頃から車椅子に乗せてもらえるようになり、少し手足が動くようになりました。夢中でリハビリに励みました。 その後三年半の入院生活を経て自宅に戻りました。今ではベットの手すりにしがみつきどうにか起き上がり一日の大半は車椅子に座っています。テレビを見たり本を見たり昼間は何とか気をまぎらわせています。 夜ベットに寝てからが大変です。ちょっと眠ると体が硬直してしまって動けなくなります。時間をかけてほぐしていきますが、手足が自分の意志では止められずあっち、こっちにつっぱってしまいます。一晩に五、六回目が覚める度にその繰り返しです。その内どっちに向いても痛くて寝れなくなりと車椅子に移って朝になる迄じっと待つこともあります。 でも一つだけ良い事もあります毎晩のように夢を見ます。夢の中ではお掃除したり買い物に行ったりいろいろな事が出来るのが嬉しくて、いつも良い夢とは限りませんが|、、、目が覚めるとがっかりです。 まだ体の事でいろいろ書きたいことはたくさんありますが、みんな自分の愚痴になってしまうのでやめておきます。私よりも、もっと大変な方がたくさん居られると思います。でも中には私と似たような症状の方もいらっしゃるのではないかと思いお手紙出しました。もし居られましたらお互い励まし合いこれからも頑張っていきたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。
神奈川県 MS
名称は「squadsml@butaman.or.jp」です。SevereQuadriplegics Mailing Listを略しました。下記の使い方を読まれて各々で参加登録をしてください。 管理者はsakaue@butaman.or.jpかです。利用方法についての質問等はこちらへメールください。(^_^) Oうめ吉@プロップ・ステーション O (b dTS_ E-mail:saka-ue@prop.or.jp) O 'Umekichi' FC-Link :T Saka-ue,PropO O NIFTY:CXG00552 O PropStation-Non-profit Organization for Physically Challenged O phone/fax: (情報交換誌「はがき通信」に記載) O PRP002:PropNet(81-6-355-2870)utilizing Computer Technology
うめ吉
10月に浜松での「はがき通信」懇親会に出席できず、とても残念に思っています。講演の日と重なりました。大浜さんからとても楽しかったと聞きました。清家さんにも皆に会えて楽しかったとFAXを頂きました。来年はぜひ参加したいと思っています。 また、自宅の近くに訪問看護ステーションができ、昨年の6月から週3回、利用しています。排便(2回)と身体を動かしてもらっています。家族の負担が少し楽になり、たいへん助かっています。料金は、交通費だけ1回400円です。訪問に来ていただいている看護婦さんは、私が七沢リハ入院中によく喧嘩をした方でした。お互いに驚きました。これも縁なんでしょうね。 今は、たいへんお世話になり、感謝しています。 妻が夏休みになると10日間位、近くの身体障害者療護施設に一時入所します。入所している間に、いつも世話になっている家族に、旅行などして骨休みしてもらっています。年に1〜2度の事ですが、家族が喜んでくれる事が、在宅で生活していく生き方だと思っています。 絵の制作も頑張っています。私が、こんなにも頑張れるようになったのは、ハワイ旅行へ行った自信やはがき通信で皆さんに出会えたお陰だと思っています。皆さんの刺激を受けて、これからも、何事にも挑戦する気持ちで励みたいと思っています。
横浜市 MI
私は驚き夢中で読みました。交通事故により第2頸髄を損傷し、頭 骨線状骨折、不全四肢マヒ等、大変な重傷を追い1ヶ月ICUでの治療が行われ、後に一般病棟へ移り24時間体制の付添をされているご様子にびっくりいたしました。私はふと息子Kのスポーツ事故(昭和62年10月17日スポーツクラブにて鉄棒トカチェフの練習中に頭から落下)により頸椎C3、4を脱臼骨折し、昭和医大藤ヶ丘病院救命救急センターへ運ばれました。生死をさまよったあの恐ろしい事故のことが脳裏をかすめ、ただただKの命の助かる事を祈った長くつらい時間を過ごした日の事が思い出されました。 息子Kの場合はICUに1ヶ月半ほど入りその後は、小児病棟観察室に移りました。そこでは看護婦さんによる24時間体制の看護でした。受傷後半年は、ストレス潰瘍により胃の開腹手術をしたり、食べ物を飲み込むことが出来なかったりと、口から食べることが出来ませんでした。本当に毎日が地獄のような日々でした。 私は毎日埼玉県より横浜緑区の昭和医大病院まで2時間かけて通いました。病院ではなかなか出来ない心のケアーをしました。(心のふれあい)それはそれは大変な事でした。その頃は「はがき通信」も知りません。まったく頸損に関する情報もなく、参考となる本もなく、ただ毎日が不安な気持ちの連続でした。 2年2ヶ月の入院生活の後、Kの状態も落ち着き、自宅療養の運びとなりました。病院では呼吸の訓練もされず呼吸器を付けての退院となりました。“Tちゃん”は受傷後4ヶ月経過で自発呼吸によるウイーニングが10分もでき、両足左手がある程度動かせるようになったと有りましたが、素晴らしい快復力に驚きました。まだ3才という年齢、未成熟期にあった事が良かったようですね。どうか呼吸の訓練を一生懸命頑張って下さい。危険な呼吸器が取れますように、それから手足のリハビリも頑張ってたくさん動けるように、排泄も触るようになりますように、これからどんどん良くなって色々なことが出来るようにがんばってください。遠方ながら応援しています。 お父様、お母様、これからも大変なことと思いますが可愛いお子様Tちゃんの為にご両親の大きな愛を持って接してあげてくださいますように、愛と努力はきっとTちゃんに通じます。どうぞ、まだまだ寒さの厳しい季節です。お体に気を付けお過ごしくださいますようお祈りいたします
埼玉県 HS
1.重度障害者(主に頸損を中心とした)の全国的ネットワークづくり。 現在Sさんが先行して発信してくれてますが、出来れば各地に発信基地があり、INET上のホームページが各地に出来ることが理想かと思っていますが、協力してくれるマンパワーが不足しています。 「はがき通信」の仲間がそのリード役になると信じています。 協力お願いします。 2.「日本脊髄基金(仮称)」準備会について
準備会既に5回の打ち合わせ終わりました。
編集部
そんな私自身「脊損連合会」の頸損部長をしていますどうすれば、脊損仲間幅広く結集できるのだろうか。どうすれば、仲間が必要なとき必要な情報を手にすることが出来るのか。 どうすれば、Mさんの定さんの「悲劇」が再現しないシステムが出来るのか、U君が安心して暮らせるような社会が早く出来ないとおかしい。恐らく頸損部長として、これらのことをほんの少しでも解決できればと、そんな思いです。 21世紀には、現在の「脊損連合会」、「頸損連絡会」共に陳腐化していますので、よほどの内部での入れ替え、活性化がないかぎり消滅する可能性があります。脊損連合会頸損部では各支部(約40支部)の重度頸損者中心のネットワーク化を考えてます。(連合会の組織を生かしネットワーク化がと)脊損、頸損の差別のない、脊損と頸損間でバリアーを作らない。こんな事、考えてます。
東京都 MO: m96@mxd.meshnet.or.jp
絶望のふちよりささやかな希望にすがって現在に至り、振り返れば多くの人々のやさしさに支えられ、事故当時の事を思えば、あれよりはひどくはならないだろうと自分で自分をはげまし生きてきたような気がします。涙は一生の間に流す分を全部流しました。 昨年、私の叔母が53才で急逝しました。主人がけがをした時、泣きじゃくる私の肩をしっかりと支えてくれた人です。私達夫婦をさりげなくいつもはげましてくれました。「生きる」という事と、「人の運命」とはわからないものだとつくづく思いました。御家族の皆様、神様によって生かされた命を静かに見守って下さい。 昨日より今日、今日より明日と何かが少しだけ良い方向に向けばそれで充分かと思います。体の傷は時がたてば治りますが、心に受けた悲しみの傷は年月がたたなければ消えません。8ねんたった今、ようやく8年間の出来事を静かにふり返る事が出来るようになりました。
山形県 SM 妻M
横須賀のHさん「愛〜」読本御送付有り難う。お互い大いに発情じゃなかった発奮しましょうねっ。福山のセイウチどん励ましの便り嬉しく読みました。 昨秋10月は身障スポーツの「おりづる国体」に行ったら葉書通信のM嬢と偶然に再会した。隣り合わせに並び、一方の側にも妙齢の頚損女性と両手に花、華、ハナ、と鼻下長〜くした一時。当日は殊の外寒く膝掛け毛布が配布されM嬢と一枚を共有した。トドのオッサンは何だか変な気を起こして毛布の下でモゾモゾと手を動かしM嬢の手をギュッと??してしまった。M嬢の反応は〜さすが大人だねっ顔色一つ変えず....。手の甲に痛みが走ったのは当然といえば当然のナリユキざん した〜(一部はトドの脳内の出来事)〜。帰る早々に妻が嫌味タラタラで好色トドは為す術も無し。妻は脇で私の様子をしっかり伺っておったらしい。嫌味の後に付け加えて「しかし、お父さんは両手に花が絵にならん人じゃね〜」そして「もし糖尿でも感染させたら生涯怨まれるからねッ!」と。 施設ネットワークから施設の改善についての投稿依頼があり、ついつい肩に力の入る原稿になってしまった。支持率「0」の私案ではあるが施設のリーダーたる人にのみは理解して欲しいと願う一文のつもり。 依頼主はこちらも無い原稿に戸惑い苦笑いかもと思いつつ。 トドのオッサンついに電気鍋を買ったのだ!。ジュンテンドーで3980円、煮る、焼く、蒸すの三拍子そろったスグレ物なのだゾッ。年末年始は街の安ホテルに4,5泊滞在するのが結婚前後から恒例としている。しがない年金暮らしに全日空やプリンスホテルは手も足も....。 ボランティアの人を掻き集め(時節柄来てもらうのに一苦労しつつ)ホテルの密室でドンチャカ宴をやることにしている。ホットプレート、電気ポット、電気クーラーBOX、食器入れにまな板や包丁....。新たに電気鍋でシャブシャブや牡蠣の土手鍋〜等々。焼肉はイケマセンネェーっ臭いが三日間も漂って掃除のオバサン苦笑いしながら黙認してくれたけど....。ホテルの支配人さんゴメンネッと心で詫びて....。楽しいナッ、楽しいナッ、トドのオッサン飲み過ぎて糖尿音頭で♪エッサッサー! そんなこんなの近況で、今年も意気盛んに♪「巨人の星」的心ダーッ。葉書通信の皆様も大いに健闘、発奮して下さいネッ。
追伸
広島県 YS
AT 33歳 主婦。 12年前、通勤途中の事故でC5.6の脱臼骨折。1年9ヶ月の入院を経て現在に至る。 2月11日が事故記念日でした。泣いたり笑ったりしながらもう12年です。当時、生後7ヶ月だった長男も春から中学になり事故後、意地と根性で産んだ長女も4月には6歳になります。 身の回りを何時も世話をしてくれる母や主人には心から感謝です。そんな私が何に目覚めたか「情報の交換と流通を!」などと思いついたのは、はがき通信を知る少し前でした。地方と言うこともあるのでしょうが、情報の不足を痛感させられる今日この頃です。
「これだけ世の中の通信は発達してるのに私達の情報源がもっと確保されていてもいいじゃないっ!」これって少し僻みでしょうか?でも実際そう思う人達を私は知ってますから、ここぞとばかりに声を大にして言いました。みなさん、聞こえました?
島根県 AT: akemi-t@miracle-wave.or.jp
埼玉県立小児医療センター RW
3については、脊損連合会のパンフ4ページにもちょっとだけ記載されていますように、外からだけの刺激と中への刺激があり、中への刺激についてのことが健康誌「安心」の平成8年5月号に掲載されていましたので、ご紹介します。
まず、脊髄のすぐ外側の硬膜外腔スペースに電極を入れ、機器を使って、日に何度かそこへテスト刺激し、痛みが緩和出来たと感じられた場合、本格的なオペを行います。背骨の硬膜外腔のスペースへ電極の芯を埋め込み、そこから皮下を通して、腹部の全面へ銅先が付いた電極のプレートを持って来、それは縫合を伴った全身麻酔の本格的なオペとなります。オペが終わり、前面であります腹部のプレートの上へリング形のアンテナを乗せ、石鹸の箱ぐらいの大きさの送信器のスイッチで電流を流し、痛みの方向を変えると云ったものですが、誰にでも効果があるものではなく、そのことを見極めるには、本格的なオペを行う以前のテストでそのことを見極めます。 送信器だけでも30万円以上はしますし、電極も1本数万円と高価で、日本ではまだ保険が利きませんが、オペの費用についてはここ数年の間に利くようになりました。 私が聞いたところでは、3人に1人は効果があると云うことです。費用、介護、アフターケアの面で、必ずしも勧められるものではありませんが、どうしてもと云われる人の場合、まずはテスト刺激されることを望みます。 リスクとして、体内で銅線が切れた場合どうするかや異物を埋め込みますので。体内で化膿した場合、また、取り扱っている会社のトラブルが挙げられ、先の二つについては、取り出すしかないと思います。 そんなこんなで、本来の痛みではない痛み、ゴーストペインの治療法はあるものの、ひと月以上入院の必要があり、そう簡単にはいかないと云うことです。 C6ぐらいまでなら、何とか手で送信器を扱えますが、それよりレベルが上の人の場合、自分では送信器を扱えませんので、勧められません。まだまだ寒いですから、はがき通信の皆様お風邪など引かれないよう気をつけてお過ごし下さい。お元気で、さようなら。
1997/1/29 夢運び人
12/15 13:00 JR熊谷駅で家族と別れ、高崎線・山手線・総武線と乗り継ぎ、成田空港に16:30
到着。
17:30
ゲートまで自分の電動車イスで行き、いよいよ搭乗の時、航空会社の車椅子に乗り換えるのかと思ったら電動車イスのまま機内へ、それも前のドアから「あれ?」聞いてみると今日は空席があるので「ビジネスクラスへどうぞ!」超ラッキー。それもドアに一番近い席で、3mくらいを抱えてもらい直接ビジネスシートに。離陸前もジュースとおしぼりのサービスがあり、顔と手袋を外して手まで拭いてくれた。(遠慮したのに・・・) スチュワーデスに「私のような障害者が1人で利用するときはありますか?」と聞くと「日本人は少ないけどアメリカ発着の便は多い。特に盲導犬を連れた視力障害者が多い」と言っていた。約4時間でマニラ空港着。マニラでも連絡通りゲートで電動車イスを受け取り、ポーターと入国手続きを終え荷物を受け取る。ポーターが「あなたの様なたくさんの障害をもった人が1人で来るのは初めてだ。」「泊まるところはあるのか?」と聞かれ「友人が迎えに来る」と言うと「危ないから」と待ち合わせ場所で迎えが来るまで待っていてくれた。
無事にルセナからの出迎えの方と会い、マニラからの3時間も以前とは違い、日本製のワゴン車で振動も少なく快適だった。途中、ココナッツミルクの加工工場の近くを通る度、あの独特の臭いが漂うと「フィリピンに来たんだなぁ」なんて改めて感じる。見覚えのある国道を走り、深夜のルセナ市内を通り抜け、GLIPに朝4時に到着。部屋に入り向坊さんの顔を見た時は正直言ってほっとした。 3度目になると周辺の道も覚え、近所に顔見知りも出来、1人で散歩しているとみんな声を掛けてくれる。そして、車好きの私にとってハイウエーは絶好の散歩コース。20数年前の日本車が現役で走っているかと思えばベンツやBMWも走っている。屋根にまで人を乗せたバスやフィリピン独特の派手なジプニー(ジープを改造した乗合バス)など、何時間見ていても飽きない。午後にはGLIP所有の農園で、一緒に滞在している頚損の皆さんと雑談をしたり仏教の勉強もした。仏教は難しくて良く分からなかったが、時々話が脱線し皆さんの若いときの話や受傷当時の話を聞けてとても楽しかった。 今回は長期滞在という事で「どのように体調を維持するか?」もフィリピン滞在の大きな目標でもあったが、出来るだけ電動車イスで動き回わり、お腹を減らしてたくさん食べ、くたくたになるまで1日を過ごし、夜は朝までぐっすり寝る。でも夜9時には眠れなかったが1日があっと言う間に過ぎて、体調の維持に心がけた。 クリスマスに近ずくと近所の子供達が歌を唄いながら近所の家々を回り小遣いをもらう。私たちは現地でお世話になっている皆さんにパーティに呼ばれたり、24日の夜にはGLIPでもパーティをやり、部屋に入りきれない人達で盛り上がった。やはり、クリスマスの考え方が日本とは違う。31日には近所にある高松さん宅に皆さん集まり「大晦日パーティ?」食事も終わった頃、なぜか停電。フィリピンでは停電は珍しくないが、街灯や家の明かりが消えあたりが真っ暗になると星がとてもきれいに見え、リクライニングを倒して空を見上げると天然のプラネタリューム。これは言葉や文章で言い表せない。秩父も星がきれいで有名だが、こんな素晴らしい星空は生まれて初めて見た。 GLIPに帰り、0時に近づくと近所で花火が鳴りはじめ、以前より花火の凄さは聞いていたが、花火と言うより爆弾。破裂する度に顔に風圧を感じ首が疲れるほどで朝方まで鳴りやまず、この花火がフィリピンの新年の習慣だそうだ。寒くないクリスマスと新年を迎え何だか不思議な気分。私の以前からの夢だった、フィリピンでクリスマスと新年を皆さんと迎えることが出来た。
埼玉県 TF
題して『HSを樹氷の中に担ぎ出す会・蔵王連峰坊平スキー場から刈田岳1758mをめざす!』—そうただのスキーではないのです。冬山へのスキー登山なのです。
無事帰って来ました。ケガをする前からスキーはやっていたのですが蔵王へは一度も行ったことがなく、青空の下の見事な樹氷群の写真を見て是非一度この目で見てみたい!と思っていました。私の「蔵王に樹氷を見に行きたい」の言葉を実現させた、代表を始めクラブの仲間達もすごいモンです。心から感謝しています。
実は今回はお天気が悪かったせいもあり、山へは行かれませんでした。今の時期にしては雪もとても少なかったです。きっとモンスターのような樹氷も見られなかったでしょう。 ただ、日中の3〜4時間の勝負ですね。その時点で断念(1300m付近)して引き返したのですが、防寒に問題を残しました。サポートはスキーは履かず、ザイルとさらしのひもで引っ張る方法を取りました。(だから私とは反対にみんなは汗をかくほど) という訳で次回は是非刈田岳まで行き、モンスターのような樹氷に会って来たいナーと思っています。どうも私の中には、「もうコリゴリ」という言葉は存在しないようです。ハハ…。まったく車いすになってもコリないヤツです。 今回も頸損の身でちょっと冒険すぎるカナとも思ったのですが、行ってみたい!やってみたい!というワクワクドキドキの気持ちの方が、強く私の心を揺り動かしました。私も山をやっていた人間なので自然は大好きです。その時は辛かったり大変だったりするのですが、帰って来るとケロリとしてそれもまたかけがえのない楽しい思い出に変わり、またそぞろ行きたくなります。
それが山や自然の、人を引き付けて止まない魅力なのでしょうか…?車いすになってもこの感覚は何なのでしょう?本来なら山になど歩けないのに行けるはずはないのに、私の趣味は今でも登山。自分自身でもよくわかりません。ただ、成し遂げられた時は、日常生活を送る上でも大きな大きな自信につながります。 追伸:夢運び人さん、わざわざお便りをありがとうございました。
2月16日 神奈川県 HS
「愛と友情のボストン(山崎泰広)」を贈って下さり有難うございました。また「夢運び人」さん 「愛と友情のボストン」は、山崎さんの前向きで積極的な生き方に、手放しで共感しました。アメリカへ7年間留学した経験から日米の考え方の違いを車いすの目から比較しており興味深かったです。地域で与えられているものが全てだと思わないで現状は変えることができるのだということを過去の経験から広い視野で述べていました。
日米の病院でリハビリを受けた経験から、日本は何事も「否定」することから教えアメリカは「Yes,
I can]何とかできるという、挑戦することを教えられると述べていました。また本のほぼ全般にわたって書かれている幅広い交友関係や人脈など、私自身が普段心がけていることが実践、実現されているようで、とてもうらやましく感じました。 私は呼吸機を三年間付けていましたが、外してからすでに六年が経っています。この原稿を書きながら呼吸機につながれていた当時を少し思い出しました。 私のレベル(C1-2)で呼吸機を外せたことは本当に幸運で、これは大変な事実だとあらためて感じました。また最近よく体験談を人前で話す機会があり、クリストファーリーブの話しぶりはとても参考になりました。ビデオを送って下さった夢運び人さんありがとうございました。
97/2/27 RG
こういう体になってしまったのを知ったとき、私の障害の現実を正確に認識したとき、私には泣くことしかできなかった。この体で、これからの生涯を生きていかなければならないのだ。「何をして生きていけばよいのか」「これから私はどうなるのか」それを考えると不安で眠れず、涙が流れるばかりだった。 泣き暮らしているうちに、今まで「私の命」を見守り、励ましてくれた人々のことが浮かんできた。友人や卒業生、卒業生の保護者、兄弟、そしてアフリカに始まる、看護婦さんやお医者さんだった。それらの人々のことを考えると、こんな体になったからといって、これから先の人生を投げ出せなかった。いや、投げ出したくなかった。こういう風に考えられるようになったのは、事故から1年半ほど経っていた。
このころは生涯はずせないかもしれないといわれていた人工呼吸器もはずれ、自力で呼吸をしていた。そして、事故にあった当初からの希望「復職したい」という思いがだんだん強くなっていた。そのためには、施設や病院を転々とはできなかった。主治医や婦長さんは、私のような重度の障害者は、療護施設が適当と考えていたようだった。 関心のある方は、本を読んでください。事故から復職するまでの回復の経過、不安や苦悩、希望や喜びを書いてあります。本の題名は「がべちゃん先生の自立宣言」出版社は樹心社で1800円です。 退院してからの私は、家族がいませんから、同居者2人と仕事できてくれている付き添いさんの4人で住んでいます。私はこの人達を家族だと思っています。付き添いさんはAM7時からPM7時まで私に関する一切の介護と、炊事、洗濯、掃除などをしてくれます。私が仕事の日は(1週間に4日)仕事場にまで付き添ってくれ、仕事(パソコン、読書、実験、コピ−、印刷等)の準備や私のできない仕事をやってくれます。 私の仕事場は、教師の研修センタ−と学校です。学校では時々ですが授業をします。PM7時からは同居人が介護をしてくれます。検温や健康ノ−トへの記入、家計簿つけなどと、パソコンなどです。熱のあるときは氷枕を用意してくれたり、就寝前に薬を飲ませてくれます。
同居人は2人いるので一日交代で、私が眠る(PM9:30頃)までがその日の当番の人の役目になります。要するにPM7時には帰ってきて、自分の食事の支度などしながら、私の用事もするわけです。こう書くとたいへんなように思えますが、2人とも、たいしたことはないといっています。今は大学生の方と教員を目指している社会人の2人です。2人には、それぞれ独立した部屋に住んでもらっていますが、部屋代は無料です。 日曜日の日中は、同居人さんも付き添いさんも休みなので、ボランティアさんに来てもらっています。日曜を三つの時間帯にわけ、3人の人がリレ−方式でAM8時からPM7時まで身辺介護をしてくれます。ボランティアさんを捜すのもたいへんです。今は学生さんと社会人の方とが来てくれています。少し学生さんが多いくらいです。 ボランティアさんにしてもらうことは、洗面、食事介助(作ってある)、郵便物の整理、代筆、パソコン、プリント作り等で、そのときによるものもあります。でも難しいものではありません。私の今の生活は、今まで書いてきたように、多くの人に力を貸してもらって成り立っています。本当にありがたいことです。辛かった日々「だれか私の魂をすくってほしい」と思ったこともありました。でも私は、それを宗教に求めようという気にはなれませんでした。しかし、危篤の状態を何度も乗り越え、今日まで生きて来て「私は生かされている」と強く感じています。そして人は「どんなに絶望的な状況におかれても希望を捨ててはいけない」と思っています。 これからも私は、多くの人によって支えられ、大きな力によって生かされることでしょう。私は私に与えられた仕事を力一杯やって行きたいと思っています。長い自分史になりました。ありがとうございます。(おわり)
兵庫県 KS
ひとくちインフォメーション 第24回全国頚随損傷者連絡 ことしの全国総会は5月31日から6月1日の2日間、大阪で開催します。それまでずっと東京でやっていたのを、地方の方の利便性を考えて、90年大阪、91年神奈川、92年京都、94年栃木、96年神奈川と持ち回りでやってきました。大阪で開催する以上、中国四国・九州地方の方がたくさん参加して下さることを期待しています。詳細が決まりましたら、お知らせします。
O^_^D うめ吉
◆ 本の紹介
「五秒間ほどの青空−介護する側される側」 三五館 : 東京都新宿区四谷2-10
「上の空」に続く藤川さんの2作目「五秒ほどの青空」が出版されました。以前、お宅を訪問したとき、こんどは「道具」について書くと伺い、道具って何だろうと思っていましたら、自助具や福祉機器のことでした。
全身麻痺となった人が他者の手を煩わさす気兼ねを最小限に何かをしようとすれば、「道具」の工夫は必須だからと藤川さんはまえがきで述べています。
でもこの本は「道具」が主題ではなく、四肢麻痺で介護される立場から介護する人、とくに家族、なかでも配偶者との関係が主のように私は感じました。
「上の空」では頸髄損傷とは当事者にとってどのような障害か、貴重な情報をたくさん提供してくれました。2作目「五秒ほどの青空」は、頸髄損傷が家族の生活にどんな影響を及ぼすのか、家族と協調しながら在宅で生活するにはどのような工夫が必要なのかなど学ばせてくれます。
藤川さんには「はがき通信」の編集顧問をお願いし、今も継続していただいていますが、それが再入院の一因にも
松井
本の紹介
大浜さんや高橋さんの呼びかけで参加した「日本脊髄基金設立準備会」で著者・山崎泰広さんにお会いした。初対面で三種類の名刺を頂いた。アクティブ・ジャパンという障害者スポーツ雑誌の編集長であり、アクセス インターナショナルの代表取締役社長という肩書きでした。
1979年4月、高校留学中の転落事故で脊損、ボストン大学脊損リハビリテーションセンターを経て僅か2ヶ月半でボストンで単身生活を開始、車椅子で通学可能な高校へ転学、ボストン・カレッジで経営学を専攻、卒業後帰国、民間企業を経て独立した過程が綴られています。 彼の本を読んでいると、下半身麻痺、車椅子生活という重さが全く感じられません。残された機能を最大限活用しながら良く学び、良く遊びつつ可能性に挑戦する彼の生き方は、彼より遥か年長の私にも学ぶべき点が無数にありました。 なお、この本は300頁 写真50数枚にしては定価千円という安さです。文京書房の高澤氏によれば、若い人たちにぜひ読んでほしい本なので定価を最大限低く抑えたそうです(松井)。 全国書店で購入できますが、出版社に直接申し込むこともできます。 文京書房:〒151 渋谷区幡ヶ谷1−1−5
MI
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