は が き 通 信 Number.44
POST CARD CORRESPONDENCE 1997.3.25

《ごあいさつ》

ある労災の友人が24時間介護から自宅療養、日中介護だけと生活パターンを変えてきました。苦しいときもあるだろうに、少しずつ向上して行ってるんですね。その努力に頭が下がります。皆さんはいかがですか?

1997年3月25日 向坊


皆さんの情報お待ちしてます


自己紹介でごめんなさい。
はがき通信の皆様今日は初めてお便りいたします。東京のFさんにお聞きして、去年から仲間に入れていただきました。私は川崎市に住む六一才の女性です。昭和六一年十一月一日にバイクに乗って通行中、自分のより大きいバイクと衝突して、自分では分からなかったが高く飛ばされて頭から落ちたらしくヘルメットに穴が空いていました。

病院では頸髄損傷の不全と言われました。最初は自分の手足がついている事すらわからず、しびれがひどく痛くて、生きる望みも失っていました。三ヶ月位たつ頃から車椅子に乗せてもらえるようになり、少し手足が動くようになりました。夢中でリハビリに励みました。

その後三年半の入院生活を経て自宅に戻りました。今ではベットの手すりにしがみつきどうにか起き上がり一日の大半は車椅子に座っています。テレビを見たり本を見たり昼間は何とか気をまぎらわせています。

夜ベットに寝てからが大変です。ちょっと眠ると体が硬直してしまって動けなくなります。時間をかけてほぐしていきますが、手足が自分の意志では止められずあっち、こっちにつっぱってしまいます。一晩に五、六回目が覚める度にその繰り返しです。その内どっちに向いても痛くて寝れなくなりと車椅子に移って朝になる迄じっと待つこともあります。 

でも一つだけ良い事もあります毎晩のように夢を見ます。夢の中ではお掃除したり買い物に行ったりいろいろな事が出来るのが嬉しくて、いつも良い夢とは限りませんが|、、、目が覚めるとがっかりです。

まだ体の事でいろいろ書きたいことはたくさんありますが、みんな自分の愚痴になってしまうのでやめておきます。私よりも、もっと大変な方がたくさん居られると思います。でも中には私と似たような症状の方もいらっしゃるのではないかと思いお手紙出しました。もし居られましたらお互い励まし合いこれからも頑張っていきたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。

神奈川県 MS

重度四肢麻痺者メーリング・リスト開設


昨年来よりの懸案でした重度四肢麻痺者の情報交換を目的としたメーリング・リストがやっと正式開設の運びとなりました。

名称は「squadsml@butaman.or.jp」です。SevereQuadriplegics Mailing Listを略しました。下記の使い方を読まれて各々で参加登録をしてください。

管理者はsakaue@butaman.or.jpかです。利用方法についての質問等はこちらへメールください。(^_^)

Oうめ吉@プロップ・ステーション

O (b dTS_ E-mail:saka-ue@prop.or.jp)

O 'Umekichi' FC-Link :T Saka-ue,PropO

O NIFTY:CXG00552

O PropStation-Non-profit Organization for Physically Challenged

O phone/fax: (情報交換誌「はがき通信」に記載)

O PRP002:PropNet(81-6-355-2870)utilizing Computer Technology

うめ吉

何事にも挑戦を!


皆さん、お元気ですか。ご無沙汰しております。先日、息子さんが交通事故でC3になれれたお母さんから連絡がありました。国際福祉機器展でお会いしました。
私の電動車椅子を見ながら、突然、真剣に話しかけてこられて驚きました。怪我をした本人がいちばん苦しい思いですが、それ以上に家族の苦しみも深いことを知りました。

10月に浜松での「はがき通信」懇親会に出席できず、とても残念に思っています。講演の日と重なりました。大浜さんからとても楽しかったと聞きました。清家さんにも皆に会えて楽しかったとFAXを頂きました。来年はぜひ参加したいと思っています。
 
そのほか、施設入浴サービスで知り合った職員の方々と、遊びに行って食事を楽しんだり、美術館めぐりや旅行にと、色々な所に積極的に出かけるようになりました。先月も、伊豆高原に旅行に行ってきました。電動車椅子生活を大いに楽しんでいます。

また、自宅の近くに訪問看護ステーションができ、昨年の6月から週3回、利用しています。排便(2回)と身体を動かしてもらっています。家族の負担が少し楽になり、たいへん助かっています。料金は、交通費だけ1回400円です。訪問に来ていただいている看護婦さんは、私が七沢リハ入院中によく喧嘩をした方でした。お互いに驚きました。これも縁なんでしょうね。

今は、たいへんお世話になり、感謝しています。 妻が夏休みになると10日間位、近くの身体障害者療護施設に一時入所します。入所している間に、いつも世話になっている家族に、旅行などして骨休みしてもらっています。年に1〜2度の事ですが、家族が喜んでくれる事が、在宅で生活していく生き方だと思っています。 

絵の制作も頑張っています。私が、こんなにも頑張れるようになったのは、ハワイ旅行へ行った自信やはがき通信で皆さんに出会えたお陰だと思っています。皆さんの刺激を受けて、これからも、何事にも挑戦する気持ちで励みたいと思っています。

横浜市 MI

Tちゃんがんばって


2月14日「はがき通信 NO43号」を受け取りました。早々目を通していましたところ、ふと目に止まったのは、「3才の子供が頸損に」という見出しでした。思わず一瞬息の詰まる思いがしました。なんとまだ可愛い盛りのTちゃんです。

私は驚き夢中で読みました。交通事故により第2頸髄を損傷し、頭 骨線状骨折、不全四肢マヒ等、大変な重傷を追い1ヶ月ICUでの治療が行われ、後に一般病棟へ移り24時間体制の付添をされているご様子にびっくりいたしました。私はふと息子Kのスポーツ事故(昭和62年10月17日スポーツクラブにて鉄棒トカチェフの練習中に頭から落下)により頸椎C3、4を脱臼骨折し、昭和医大藤ヶ丘病院救命救急センターへ運ばれました。生死をさまよったあの恐ろしい事故のことが脳裏をかすめ、ただただKの命の助かる事を祈った長くつらい時間を過ごした日の事が思い出されました。

息子Kの場合はICUに1ヶ月半ほど入りその後は、小児病棟観察室に移りました。そこでは看護婦さんによる24時間体制の看護でした。受傷後半年は、ストレス潰瘍により胃の開腹手術をしたり、食べ物を飲み込むことが出来なかったりと、口から食べることが出来ませんでした。本当に毎日が地獄のような日々でした。

私は毎日埼玉県より横浜緑区の昭和医大病院まで2時間かけて通いました。病院ではなかなか出来ない心のケアーをしました。(心のふれあい)それはそれは大変な事でした。その頃は「はがき通信」も知りません。まったく頸損に関する情報もなく、参考となる本もなく、ただ毎日が不安な気持ちの連続でした。

2年2ヶ月の入院生活の後、Kの状態も落ち着き、自宅療養の運びとなりました。病院では呼吸の訓練もされず呼吸器を付けての退院となりました。“Tちゃん”は受傷後4ヶ月経過で自発呼吸によるウイーニングが10分もでき、両足左手がある程度動かせるようになったと有りましたが、素晴らしい快復力に驚きました。まだ3才という年齢、未成熟期にあった事が良かったようですね。どうか呼吸の訓練を一生懸命頑張って下さい。危険な呼吸器が取れますように、それから手足のリハビリも頑張ってたくさん動けるように、排泄も触るようになりますように、これからどんどん良くなって色々なことが出来るようにがんばってください。遠方ながら応援しています。

お父様、お母様、これからも大変なことと思いますが可愛いお子様Tちゃんの為にご両親の大きな愛を持って接してあげてくださいますように、愛と努力はきっとTちゃんに通じます。どうぞ、まだまだ寒さの厳しい季節です。お体に気を付けお過ごしくださいますようお祈りいたします

埼玉県 HS

ご協力お願いします


今年は次の2つに重点を置いています。皆さんの中で協力していただける方是非参加して下さい。

1.重度障害者(主に頸損を中心とした)の全国的ネットワークづくり。

現在Sさんが先行して発信してくれてますが、出来れば各地に発信基地があり、INET上のホームページが各地に出来ることが理想かと思っていますが、協力してくれるマンパワーが不足しています。

「はがき通信」の仲間がそのリード役になると信じています。

協力お願いします。

2.「日本脊髄基金(仮称)」準備会について

準備会既に5回の打ち合わせ終わりました。
近い内に本格的に立ち上がる予定です。
21世紀に向けて、脊損の仲間がより活動できるように、社会に復帰できるように、自己実現できるように、より人間らしい生活が出来るよう。
そんな思い、こんな思い、たくさんの願いを込めて基金設立の運動を全国的に広げていきたいと思います。
今この運動の「キャッチコピー」をない知恵絞ってみんなで考えています。何でもいいです、何か「キャッチコピー」考えて下さい。そして向坊宛にEMAILもらえれば感激です。よろしく。

編集部

所感


一つの団体があるといつの間にかその団体のバリアーが出来ていること、よくあります。

そんな私自身「脊損連合会」の頸損部長をしていますどうすれば、脊損仲間幅広く結集できるのだろうか。どうすれば、仲間が必要なとき必要な情報を手にすることが出来るのか。

どうすれば、Mさんの定さんの「悲劇」が再現しないシステムが出来るのか、U君が安心して暮らせるような社会が早く出来ないとおかしい。恐らく頸損部長として、これらのことをほんの少しでも解決できればと、そんな思いです。

21世紀には、現在の「脊損連合会」、「頸損連絡会」共に陳腐化していますので、よほどの内部での入れ替え、活性化がないかぎり消滅する可能性があります。脊損連合会頸損部では各支部(約40支部)の重度頸損者中心のネットワーク化を考えてます。(連合会の組織を生かしネットワーク化がと)脊損、頸損の差別のない、脊損と頸損間でバリアーを作らない。こんな事、考えてます。

東京都 MO: m96@mxd.meshnet.or.jp

8年間を振り返ることが出来ました


酒田市にある県立病院に20才ぐらいの人工呼吸器使用の女性が入院しているという話がきこえてきました。交通事故だそうです。ハガキ通信にも人工呼吸器使用の家族の片の通信がふえてきたように思います。8年前の私たち家族を思い出します。

絶望のふちよりささやかな希望にすがって現在に至り、振り返れば多くの人々のやさしさに支えられ、事故当時の事を思えば、あれよりはひどくはならないだろうと自分で自分をはげまし生きてきたような気がします。涙は一生の間に流す分を全部流しました。

昨年、私の叔母が53才で急逝しました。主人がけがをした時、泣きじゃくる私の肩をしっかりと支えてくれた人です。私達夫婦をさりげなくいつもはげましてくれました。「生きる」という事と、「人の運命」とはわからないものだとつくづく思いました。御家族の皆様、神様によって生かされた命を静かに見守って下さい。

昨日より今日、今日より明日と何かが少しだけ良い方向に向けばそれで充分かと思います。体の傷は時がたてば治りますが、心に受けた悲しみの傷は年月がたたなければ消えません。8ねんたった今、ようやく8年間の出来事を静かにふり返る事が出来るようになりました。

山形県 SM 妻M

トドのオッサン近況話題やで〜っ!!


葉書通信諸兄姉「ニューイヤーハッピー」毛利元就の里から去勢トドの御挨拶ですよっ。今年も元気に「巨人の星」を口ずさみながら巨星を目指して虚勢の心だ!。まずは近況報告とし今年も宜敷く応援乞う。

横須賀のHさん「愛〜」読本御送付有り難う。お互い大いに発情じゃなかった発奮しましょうねっ。福山のセイウチどん励ましの便り嬉しく読みました。
妻が同じ頚損者でもセイウチどんは立派な逸物をお持ちなのに我が亭主はまったく締まりの無いとぼけ面に無芸大食しかないんだから.....とか。 

昨秋10月は身障スポーツの「おりづる国体」に行ったら葉書通信のM嬢と偶然に再会した。隣り合わせに並び、一方の側にも妙齢の頚損女性と両手に花、華、ハナ、と鼻下長〜くした一時。当日は殊の外寒く膝掛け毛布が配布されM嬢と一枚を共有した。トドのオッサンは何だか変な気を起こして毛布の下でモゾモゾと手を動かしM嬢の手をギュッと??してしまった。M嬢の反応は〜さすが大人だねっ顔色一つ変えず....。手の甲に痛みが走ったのは当然といえば当然のナリユキざん

した〜(一部はトドの脳内の出来事)〜。帰る早々に妻が嫌味タラタラで好色トドは為す術も無し。妻は脇で私の様子をしっかり伺っておったらしい。嫌味の後に付け加えて「しかし、お父さんは両手に花が絵にならん人じゃね〜」そして「もし糖尿でも感染させたら生涯怨まれるからねッ!」と。 施設ネットワークから施設の改善についての投稿依頼があり、ついつい肩に力の入る原稿になってしまった。支持率「0」の私案ではあるが施設のリーダーたる人にのみは理解して欲しいと願う一文のつもり。

依頼主はこちらも無い原稿に戸惑い苦笑いかもと思いつつ。 トドのオッサンついに電気鍋を買ったのだ!。ジュンテンドーで3980円、煮る、焼く、蒸すの三拍子そろったスグレ物なのだゾッ。年末年始は街の安ホテルに4,5泊滞在するのが結婚前後から恒例としている。しがない年金暮らしに全日空やプリンスホテルは手も足も....。

ボランティアの人を掻き集め(時節柄来てもらうのに一苦労しつつ)ホテルの密室でドンチャカ宴をやることにしている。ホットプレート、電気ポット、電気クーラーBOX、食器入れにまな板や包丁....。新たに電気鍋でシャブシャブや牡蠣の土手鍋〜等々。焼肉はイケマセンネェーっ臭いが三日間も漂って掃除のオバサン苦笑いしながら黙認してくれたけど....。ホテルの支配人さんゴメンネッと心で詫びて....。楽しいナッ、楽しいナッ、トドのオッサン飲み過ぎて糖尿音頭で♪エッサッサー! そんなこんなの近況で、今年も意気盛んに♪「巨人の星」的心ダーッ。葉書通信の皆様も大いに健闘、発奮して下さいネッ。

追伸
広島のガンバルマン、Kさん今年は会えるかなっ?セイウチどん声援タノムデヨ〜ッ 最後に、この五月に広島市の平和大通りで開催のフラワーフェスティバル(F、F)に頚損グループで参画せんかいのう。広島近郊の頚損者で意のある奴は連絡チョウダイネッ。M嬢も賛同の一人なのだっ。M嬢をF,Fの看板娘にして華やかな参画にと純真なトドのオッサンの真面目な呼びかけだヨ〜ン!。画策の目論見がどうなるやら無責任トドのオッサンからの提案。

広島県 YS

お約束の自己紹介


「はがき通信」の存在を知ってわずか2週間の新参者です。と言うことでお約束の自己紹介を少し・・・・・・・・。

AT 33歳 主婦。

12年前、通勤途中の事故でC5.6の脱臼骨折。1年9ヶ月の入院を経て現在に至る。

2月11日が事故記念日でした。泣いたり笑ったりしながらもう12年です。当時、生後7ヶ月だった長男も春から中学になり事故後、意地と根性で産んだ長女も4月には6歳になります。

身の回りを何時も世話をしてくれる母や主人には心から感謝です。そんな私が何に目覚めたか「情報の交換と流通を!」などと思いついたのは、はがき通信を知る少し前でした。地方と言うこともあるのでしょうが、情報の不足を痛感させられる今日この頃です。

「これだけ世の中の通信は発達してるのに私達の情報源がもっと確保されていてもいいじゃないっ!」これって少し僻みでしょうか?でも実際そう思う人達を私は知ってますから、ここぞとばかりに声を大にして言いました。みなさん、聞こえました? 
聞こえてたら反応してくれますか?どうぞ宜しくお願いしまーす!!

島根県 AT: akemi-t@miracle-wave.or.jp

17才の私にアドバイスを!


私は17歳の女の子で、名前はRWです。病院に長くずっと居て、何もなかなか一人では出来なかったけど、ワープロがきて、口で打てるようになり、会えない人とも会話が出来て、少しずつ変わって来ました。
あと、新しい自分の車椅子が来てから、体がずれ落ちて来なくなり、狭い家の中にも、少しなんとか入れられ、ほかの部屋にも移動して、テーブルでみんなといっしょに食事ができるようになりました。
今では、ボランティアの集まりに出て、友達を作れるようになりたいです。
でも、今の私では、息をすることのほうが心配で、遠くに行けません。そして、普段病院にいるときは、つまらなくて寂しいです。どうしたらいいですか?どなたかアドバイスして下さい。お手紙待ってます。

埼玉県立小児医療センター RW

ゴーストペインについて


巷では、インフルエンザが流行っていますが、皆様はお元気でしょうか。今回、脊損による痛み、本来の痛みではなく、痛いと感じるゴーストペインについて書きます。脊髄を損傷した場合、痛みが出る人もあれば、痛みが出ない人もいます。痛みが出る人の中でも、我慢できるぐらいの痛みの人もいれば、そうではない人もいて、そうではない人で軽い人は、お酒を飲んで、その痛みを紛らわせているか、ただ我慢しておられると聞いております。強い痛みの人は下記の方法で治療を行っているようです。

  • 神経科の薬、うつ病にも使用されている薬を飲む
  • 神経ブロックの注射を患部付近に打つ
  • 脊髄付近に電気を流し、末梢神経に刺激を与える

3については、脊損連合会のパンフ4ページにもちょっとだけ記載されていますように、外からだけの刺激と中への刺激があり、中への刺激についてのことが健康誌「安心」の平成8年5月号に掲載されていましたので、ご紹介します。

まず、脊髄のすぐ外側の硬膜外腔スペースに電極を入れ、機器を使って、日に何度かそこへテスト刺激し、痛みが緩和出来たと感じられた場合、本格的なオペを行います。背骨の硬膜外腔のスペースへ電極の芯を埋め込み、そこから皮下を通して、腹部の全面へ銅先が付いた電極のプレートを持って来、それは縫合を伴った全身麻酔の本格的なオペとなります。オペが終わり、前面であります腹部のプレートの上へリング形のアンテナを乗せ、石鹸の箱ぐらいの大きさの送信器のスイッチで電流を流し、痛みの方向を変えると云ったものですが、誰にでも効果があるものではなく、そのことを見極めるには、本格的なオペを行う以前のテストでそのことを見極めます。
現在では、電極も数種類売られていまして、それは全てアメリカ製です。

送信器だけでも30万円以上はしますし、電極も1本数万円と高価で、日本ではまだ保険が利きませんが、オペの費用についてはここ数年の間に利くようになりました。

私が聞いたところでは、3人に1人は効果があると云うことです。費用、介護、アフターケアの面で、必ずしも勧められるものではありませんが、どうしてもと云われる人の場合、まずはテスト刺激されることを望みます。

リスクとして、体内で銅線が切れた場合どうするかや異物を埋め込みますので。体内で化膿した場合、また、取り扱っている会社のトラブルが挙げられ、先の二つについては、取り出すしかないと思います。

そんなこんなで、本来の痛みではない痛み、ゴーストペインの治療法はあるものの、ひと月以上入院の必要があり、そう簡単にはいかないと云うことです。

C6ぐらいまでなら、何とか手で送信器を扱えますが、それよりレベルが上の人の場合、自分では送信器を扱えませんので、勧められません。まだまだ寒いですから、はがき通信の皆様お風邪など引かれないよう気をつけてお過ごし下さい。お元気で、さようなら。

1997/1/29  夢運び人

フィリピン日本人障害者の家滞在49日間(前編)


96年12月15日、私にとって今までやってきた事の集大成でもある「一人でフィリピンに行く」という大変な日がやってきました。今まで東京・横浜・大阪・北九州と1人で出かけてきました。しかし、今回は違います。体力・精神力・知識そして言葉なと問題はたくさんあります。もし「機内でおしっこが出なくなったら」「起立性低血圧が起きたら」そして何より「私を単独で飛行機に乗せるか?」心配でした。約3週間前に万全を整える意味で、以前2度ほど利用しているノースウエスト航空に直接電話し、私の障害の事、電動車イスの事を説明し、チケットの予約をしました。

12/15 13:00 JR熊谷駅で家族と別れ、高崎線・山手線・総武線と乗り継ぎ、成田空港に16:30 到着。
だいぶ早く着いたのでチェックインの前に5階の展望ロビーでコーヒーを飲みながら休憩。さっきコーヒーを買ったコーヒースタンドのおばちゃんが、外人さんと英語で会話しているのには驚いた。

17:30
あらかじめ宅配便にて送っておいた荷物を受け取りチェクイン。いつもの通り皆さん待っている中、横から優先的に出国手続きとボディーチェック。途中でポーターが「機内のトイレは狭いですよ。」と、身障トイレを案内してくれ集尿袋のおしっこを捨てもらう。

ゲートまで自分の電動車イスで行き、いよいよ搭乗の時、航空会社の車椅子に乗り換えるのかと思ったら電動車イスのまま機内へ、それも前のドアから「あれ?」聞いてみると今日は空席があるので「ビジネスクラスへどうぞ!」超ラッキー。それもドアに一番近い席で、3mくらいを抱えてもらい直接ビジネスシートに。離陸前もジュースとおしぼりのサービスがあり、顔と手袋を外して手まで拭いてくれた。(遠慮したのに・・・)
 
19:10
定刻に離陸。スチュワーデスが通路を通る度、代わる代わる声を掛けてくれ、たぶん障害を持った私がこの席に座っている事はすべてに連絡が行っているらしい。水平飛行に移ると機内食が配られ、アメリカ人のスチュワーデスに食事介助をしてもらう。ちなみにビジネスの機内食は、寿司とステーキでデザートはアイスクリームと果物。リクライニングは約45度、足は伸ばせるし、おしっこの流れは良い。これならマニラとは言わず、ニューヨークまで行っても大丈夫。

スチュワーデスに「私のような障害者が1人で利用するときはありますか?」と聞くと「日本人は少ないけどアメリカ発着の便は多い。特に盲導犬を連れた視力障害者が多い」と言っていた。約4時間でマニラ空港着。マニラでも連絡通りゲートで電動車イスを受け取り、ポーターと入国手続きを終え荷物を受け取る。ポーターが「あなたの様なたくさんの障害をもった人が1人で来るのは初めてだ。」「泊まるところはあるのか?」と聞かれ「友人が迎えに来る」と言うと「危ないから」と待ち合わせ場所で迎えが来るまで待っていてくれた。

無事にルセナからの出迎えの方と会い、マニラからの3時間も以前とは違い、日本製のワゴン車で振動も少なく快適だった。途中、ココナッツミルクの加工工場の近くを通る度、あの独特の臭いが漂うと「フィリピンに来たんだなぁ」なんて改めて感じる。見覚えのある国道を走り、深夜のルセナ市内を通り抜け、GLIPに朝4時に到着。部屋に入り向坊さんの顔を見た時は正直言ってほっとした。
 
施設での生活から急にフィリピンの生活のリズムに対応できるか心配でしたが、季候が良いためかベッドにいるのがもったいないくらいだった。毎日、朝7時に起き、朝食、清式、着替え、マッサージを終え、毎日9時には電動車イスに乗り午前中2時間の散歩。

3度目になると周辺の道も覚え、近所に顔見知りも出来、1人で散歩しているとみんな声を掛けてくれる。そして、車好きの私にとってハイウエーは絶好の散歩コース。20数年前の日本車が現役で走っているかと思えばベンツやBMWも走っている。屋根にまで人を乗せたバスやフィリピン独特の派手なジプニー(ジープを改造した乗合バス)など、何時間見ていても飽きない。午後にはGLIP所有の農園で、一緒に滞在している頚損の皆さんと雑談をしたり仏教の勉強もした。仏教は難しくて良く分からなかったが、時々話が脱線し皆さんの若いときの話や受傷当時の話を聞けてとても楽しかった。

今回は長期滞在という事で「どのように体調を維持するか?」もフィリピン滞在の大きな目標でもあったが、出来るだけ電動車イスで動き回わり、お腹を減らしてたくさん食べ、くたくたになるまで1日を過ごし、夜は朝までぐっすり寝る。でも夜9時には眠れなかったが1日があっと言う間に過ぎて、体調の維持に心がけた。

クリスマスに近ずくと近所の子供達が歌を唄いながら近所の家々を回り小遣いをもらう。私たちは現地でお世話になっている皆さんにパーティに呼ばれたり、24日の夜にはGLIPでもパーティをやり、部屋に入りきれない人達で盛り上がった。やはり、クリスマスの考え方が日本とは違う。31日には近所にある高松さん宅に皆さん集まり「大晦日パーティ?」食事も終わった頃、なぜか停電。フィリピンでは停電は珍しくないが、街灯や家の明かりが消えあたりが真っ暗になると星がとてもきれいに見え、リクライニングを倒して空を見上げると天然のプラネタリューム。これは言葉や文章で言い表せない。秩父も星がきれいで有名だが、こんな素晴らしい星空は生まれて初めて見た。

GLIPに帰り、0時に近づくと近所で花火が鳴りはじめ、以前より花火の凄さは聞いていたが、花火と言うより爆弾。破裂する度に顔に風圧を感じ首が疲れるほどで朝方まで鳴りやまず、この花火がフィリピンの新年の習慣だそうだ。寒くないクリスマスと新年を迎え何だか不思議な気分。私の以前からの夢だった、フィリピンでクリスマスと新年を皆さんと迎えることが出来た。

埼玉県 TF

ひとつの夢の実現


平成9年2月8日に、ひとつの夢がついに実現しました。山のクラブのメンバー総勢22名で、蔵王へ車いすになってから初めてスキーに行って来ました。

題して『HSを樹氷の中に担ぎ出す会・蔵王連峰坊平スキー場から刈田岳1758mをめざす!』—そうただのスキーではないのです。冬山へのスキー登山なのです。

無事帰って来ました。ケガをする前からスキーはやっていたのですが蔵王へは一度も行ったことがなく、青空の下の見事な樹氷群の写真を見て是非一度この目で見てみたい!と思っていました。私の「蔵王に樹氷を見に行きたい」の言葉を実現させた、代表を始めクラブの仲間達もすごいモンです。心から感謝しています。
でも、皆私のためにやっているのではありません。自分達が楽しいからなのです。だからうちのクラブでやっている、身体障害者登山も車いすハイキングもずっとずっと続いているのだと思います。誰かのためにやっていたら長続きはしません。

実は今回はお天気が悪かったせいもあり、山へは行かれませんでした。今の時期にしては雪もとても少なかったです。きっとモンスターのような樹氷も見られなかったでしょう。
神奈リハのリハ工からバイスキーをお借りしたのですが、とにかく何もかもが初めての試みで私は言うなればほとんど実験台。バイスキー自体は補助板が付いていたので安定感があり、ぶっつけ本番にしては思ったより意外と簡単に滑れました。(サポート付きですが)スキーをしていた頃の感覚がよみがえり、気分爽快!とても楽しかったです。かなりの急斜面も直滑降してしまいました。もっとスピードを…!(緊張感も怖さも感じないこの性格がオソロシイ…)やはり一番心配していたのは寒さです。
頭の奥がキーンと痛くなって、意識がボーッ…。凍死するってこんなカナ〜の“さわり”の状態を体験してしまいました。濃霧で先が見えず、風もありました。気温はいったい何度だったのか…?良い天気で陽が射し、頸損でもしっかり防寒さえしていればゲレンデなら十分に耐えられます。

ただ、日中の3〜4時間の勝負ですね。その時点で断念(1300m付近)して引き返したのですが、防寒に問題を残しました。サポートはスキーは履かず、ザイルとさらしのひもで引っ張る方法を取りました。(だから私とは反対にみんなは汗をかくほど)

という訳で次回は是非刈田岳まで行き、モンスターのような樹氷に会って来たいナーと思っています。どうも私の中には、「もうコリゴリ」という言葉は存在しないようです。ハハ…。まったく車いすになってもコリないヤツです。

今回も頸損の身でちょっと冒険すぎるカナとも思ったのですが、行ってみたい!やってみたい!というワクワクドキドキの気持ちの方が、強く私の心を揺り動かしました。私も山をやっていた人間なので自然は大好きです。その時は辛かったり大変だったりするのですが、帰って来るとケロリとしてそれもまたかけがえのない楽しい思い出に変わり、またそぞろ行きたくなります。

それが山や自然の、人を引き付けて止まない魅力なのでしょうか…?車いすになってもこの感覚は何なのでしょう?本来なら山になど歩けないのに行けるはずはないのに、私の趣味は今でも登山。自分自身でもよくわかりません。ただ、成し遂げられた時は、日常生活を送る上でも大きな大きな自信につながります。
たとえ失敗しても、チャレンジできた清々しさは残ります。今回のチャレンジで、またひとつ新しい世界が開けたような気がするのは確かです。

追伸:夢運び人さん、わざわざお便りをありがとうございました。

2月16日 神奈川県 HS

はがき通信の原稿です:RG


GED03005 97/03/04 19:09 松井先生ご無沙汰しております。このところとても忙しく、浜松の懇親会へ参加できずに申し訳ありませんでした。「はがき通信」も久しぶりに投稿します。

「愛と友情のボストン(山崎泰広)」を贈って下さり有難うございました。また「夢運び人」さん
「C1-2頚損クリストファーリーブ」ビデオを贈って下さり、あなたの心遣いにとても感謝しています。

「愛と友情のボストン」は、山崎さんの前向きで積極的な生き方に、手放しで共感しました。アメリカへ7年間留学した経験から日米の考え方の違いを車いすの目から比較しており興味深かったです。地域で与えられているものが全てだと思わないで現状は変えることができるのだということを過去の経験から広い視野で述べていました。

日米の病院でリハビリを受けた経験から、日本は何事も「否定」することから教えアメリカは「Yes, I can]何とかできるという、挑戦することを教えられると述べていました。また本のほぼ全般にわたって書かれている幅広い交友関係や人脈など、私自身が普段心がけていることが実践、実現されているようで、とてもうらやましく感じました。
 
「夢運び人」さんから頂いた「95,CNNラリーキングライブ」ビデオですが、前からクリストファーリーブは私と同じ「C1-2歯状突起骨折」ということでとても興味がありました。
ラリーキングと話している彼は、電動車いすの後ろに人工呼吸機を付けていましたが、一見、気管切開をしてるどころか全身マヒには見えないほど健康的でした。時折ユーモアを交えとても前向きで今あるのは家族のお陰だと言っていました。
彼は呼吸機を外すのが目標の一つで、いずれは外せると信じているようでした。一日三回訓練しており訓練は「重いリュックを背負いエベレストへ登るより辛い」と例え、どれくらい訓練すればよいのか先が見えないとも言っていました。
しかし今では90分間外せるようになり医者がとても驚いていると言っていました。呼吸機の話題でラリーキングが「呼吸機が異常をきたせば三分で死んでしまうというのは恐ろしい事ですね」と話していました。また彼は、毎日がチャレンジの連続だが、頑張れば報われると信じていると言っていました。

私は呼吸機を三年間付けていましたが、外してからすでに六年が経っています。この原稿を書きながら呼吸機につながれていた当時を少し思い出しました。

私のレベル(C1-2)で呼吸機を外せたことは本当に幸運で、これは大変な事実だとあらためて感じました。また最近よく体験談を人前で話す機会があり、クリストファーリーブの話しぶりはとても参考になりました。ビデオを送って下さった夢運び人さんありがとうございました。

97/2/27 RG

がべちゃんの自分史(最終回)


頸髄損傷というのが正式な名前である。私の障害の現状は次のようなものである。まず首から下はどこも動かせないし、痛みや冷たさ、暖かさなどの感覚が全くない。腸に障害がある。便意はないので、うんちは手で出してもらう。尿は膀胱に管をいれ、溜まった尿が流れだし袋に溜まるようになっている。また、くしゃみや咳ができなく、タンを自分で出せない。腹部を押してもらってやっとタンが出る。空腹感や満腹感がない。汗をかくことができない。体温調節ができない。だから、外気温の影響をもろに受け、気温が下がると体温が下がり、気温が上がると体温が上がる。

こういう体になってしまったのを知ったとき、私の障害の現実を正確に認識したとき、私には泣くことしかできなかった。この体で、これからの生涯を生きていかなければならないのだ。「何をして生きていけばよいのか」「これから私はどうなるのか」それを考えると不安で眠れず、涙が流れるばかりだった。

泣き暮らしているうちに、今まで「私の命」を見守り、励ましてくれた人々のことが浮かんできた。友人や卒業生、卒業生の保護者、兄弟、そしてアフリカに始まる、看護婦さんやお医者さんだった。それらの人々のことを考えると、こんな体になったからといって、これから先の人生を投げ出せなかった。いや、投げ出したくなかった。こういう風に考えられるようになったのは、事故から1年半ほど経っていた。

このころは生涯はずせないかもしれないといわれていた人工呼吸器もはずれ、自力で呼吸をしていた。そして、事故にあった当初からの希望「復職したい」という思いがだんだん強くなっていた。そのためには、施設や病院を転々とはできなかった。主治医や婦長さんは、私のような重度の障害者は、療護施設が適当と考えていたようだった。
しかし私の希望を受け止め、その実現に協力を惜しまなかった。結局3年入院し、私の希望通り地域のマンションに退院でき、しかも、復職さえ認められた。ここまで山有り、谷有りの日々だった。たくさんの人々の祈りと支援があった。

関心のある方は、本を読んでください。事故から復職するまでの回復の経過、不安や苦悩、希望や喜びを書いてあります。本の題名は「がべちゃん先生の自立宣言」出版社は樹心社で1800円です。

退院してからの私は、家族がいませんから、同居者2人と仕事できてくれている付き添いさんの4人で住んでいます。私はこの人達を家族だと思っています。付き添いさんはAM7時からPM7時まで私に関する一切の介護と、炊事、洗濯、掃除などをしてくれます。私が仕事の日は(1週間に4日)仕事場にまで付き添ってくれ、仕事(パソコン、読書、実験、コピ−、印刷等)の準備や私のできない仕事をやってくれます。

私の仕事場は、教師の研修センタ−と学校です。学校では時々ですが授業をします。PM7時からは同居人が介護をしてくれます。検温や健康ノ−トへの記入、家計簿つけなどと、パソコンなどです。熱のあるときは氷枕を用意してくれたり、就寝前に薬を飲ませてくれます。

同居人は2人いるので一日交代で、私が眠る(PM9:30頃)までがその日の当番の人の役目になります。要するにPM7時には帰ってきて、自分の食事の支度などしながら、私の用事もするわけです。こう書くとたいへんなように思えますが、2人とも、たいしたことはないといっています。今は大学生の方と教員を目指している社会人の2人です。2人には、それぞれ独立した部屋に住んでもらっていますが、部屋代は無料です。
「ギブ・アンド・テイク」のようなものですが、今までの人達は、そのように割り切った人はいませんでした。冷蔵庫やレンジやテレビや洗濯機も使ってもらっています。3年いてくれた同居人さんが結婚することになり、来年の同居人さんを捜さなければなりません。これが苦労です。明るく、やさしかった人なので喜びと寂しさとで複雑な心境です。

日曜日の日中は、同居人さんも付き添いさんも休みなので、ボランティアさんに来てもらっています。日曜を三つの時間帯にわけ、3人の人がリレ−方式でAM8時からPM7時まで身辺介護をしてくれます。ボランティアさんを捜すのもたいへんです。今は学生さんと社会人の方とが来てくれています。少し学生さんが多いくらいです。

ボランティアさんにしてもらうことは、洗面、食事介助(作ってある)、郵便物の整理、代筆、パソコン、プリント作り等で、そのときによるものもあります。でも難しいものではありません。私の今の生活は、今まで書いてきたように、多くの人に力を貸してもらって成り立っています。本当にありがたいことです。辛かった日々「だれか私の魂をすくってほしい」と思ったこともありました。でも私は、それを宗教に求めようという気にはなれませんでした。しかし、危篤の状態を何度も乗り越え、今日まで生きて来て「私は生かされている」と強く感じています。そして人は「どんなに絶望的な状況におかれても希望を捨ててはいけない」と思っています。

これからも私は、多くの人によって支えられ、大きな力によって生かされることでしょう。私は私に与えられた仕事を力一杯やって行きたいと思っています。長い自分史になりました。ありがとうございます。(おわり)

兵庫県 KS


ひとくちインフォメーション

第24回全国頚随損傷者連絡

ことしの全国総会は5月31日から6月1日の2日間、大阪で開催します。それまでずっと東京でやっていたのを、地方の方の利便性を考えて、90年大阪、91年神奈川、92年京都、94年栃木、96年神奈川と持ち回りでやってきました。大阪で開催する以上、中国四国・九州地方の方がたくさん参加して下さることを期待しています。詳細が決まりましたら、お知らせします。

O^_^D うめ吉

BOOK
◆ 本の紹介

「五秒間ほどの青空−介護する側される側」
藤川景著
\1442 (三五館) 1997年2月7日初版発行

三五館 : 東京都新宿区四谷2-10
TEL : 03-3226-0035 FAX : 03-3226-0170

「上の空」に続く藤川さんの2作目「五秒ほどの青空」が出版されました。以前、お宅を訪問したとき、こんどは「道具」について書くと伺い、道具って何だろうと思っていましたら、自助具や福祉機器のことでした。

全身麻痺となった人が他者の手を煩わさす気兼ねを最小限に何かをしようとすれば、「道具」の工夫は必須だからと藤川さんはまえがきで述べています。 

でもこの本は「道具」が主題ではなく、四肢麻痺で介護される立場から介護する人、とくに家族、なかでも配偶者との関係が主のように私は感じました。

「上の空」では頸髄損傷とは当事者にとってどのような障害か、貴重な情報をたくさん提供してくれました。2作目「五秒ほどの青空」は、頸髄損傷が家族の生活にどんな影響を及ぼすのか、家族と協調しながら在宅で生活するにはどのような工夫が必要なのかなど学ばせてくれます。 

藤川さんには「はがき通信」の編集顧問をお願いし、今も継続していただいていますが、それが再入院の一因にも
なってしまったこと、本書を読んで知りました。この場を借りてお詫びするとともに、頸損のたいへんさはやはり一緒に生活してみないと体得できないと痛感しました。皆さん、「五秒ほどの青空」をぜひお読み下さい。そしてできるだけ多くの方に紹介して下さい。

松井


本の紹介
山崎泰広著「愛と友情のボストン そして、その後の十年・・・。」文京書房(千円)

大浜さんや高橋さんの呼びかけで参加した「日本脊髄基金設立準備会」で著者・山崎泰広さんにお会いした。初対面で三種類の名刺を頂いた。アクティブ・ジャパンという障害者スポーツ雑誌の編集長であり、アクセス インターナショナルの代表取締役社長という肩書きでした。
彼の会社では輸入車椅子も扱い、今人気のクイッキー以外にクリストファー・リーブが使用中のベンチレータ用電動車椅子もあるとのことでした。彼の会社にはショールームもあるとのこと、ぜひ行ってみたいと思っていました。 12月中旬、突然1冊の本が贈られてきました。ちょうど東京へ帰る日でした。
新幹線の中で半分読み、翌日午前中、仕事をさぼって一気に読んでしまいました。早速、出版社に電話して10冊注文しました。
彼は胸髄損傷、両手は使えるけど、受傷後の体験を綴ったこの本は、はがき通信のメンバー、とくに若い方々にはたいへん参考になるだろうし、ぜひ参考にして欲しいと思いました。 

1979年4月、高校留学中の転落事故で脊損、ボストン大学脊損リハビリテーションセンターを経て僅か2ヶ月半でボストンで単身生活を開始、車椅子で通学可能な高校へ転学、ボストン・カレッジで経営学を専攻、卒業後帰国、民間企業を経て独立した過程が綴られています。
山崎さんは17歳から25歳まで過ごしたアメリカで「Yes, I can ! なんとかできるさ」と挑戦することを学び、実践してきたとあとがきで述べています。

彼の本を読んでいると、下半身麻痺、車椅子生活という重さが全く感じられません。残された機能を最大限活用しながら良く学び、良く遊びつつ可能性に挑戦する彼の生き方は、彼より遥か年長の私にも学ぶべき点が無数にありました。 

なお、この本は300頁 写真50数枚にしては定価千円という安さです。文京書房の高澤氏によれば、若い人たちにぜひ読んでほしい本なので定価を最大限低く抑えたそうです(松井)。

全国書店で購入できますが、出版社に直接申し込むこともできます。 

文京書房:〒151 渋谷区幡ヶ谷1−1−5

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