は が き 通 信 | Number.37---P1 |
POST CARD CORRESPONDENCE | 1996.1.25 |
初夢か!高位頚髄損傷者の研究会を浜松市で開く計画があります(時期は未定)。はがき通信の会員が中心です。発表できる人はスライドやビデオなど着々と準備をお願いします。ふだん見捨てられがちな呼吸器も含めて高位頚損の生活問題など、盛り上がりを期待しています。
向坊弘道 1996年1月25日
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はがき通信の皆様 こんにちは。ごぶさた致しております。この間ずっと体調がおもわしくなく、苦しんでいました。 最近やっと少し落ち着いてきました。8月のお盆過ぎが最悪の状態でした。夏期休暇中だったので有給休暇をとらなくてすみ、助かりました。その後入院して全身の精密検査をしてもらったのですが、どこも異常はありませんでした。体がだるくて手足を切り落としてしまいたいはどでした。今は、それが少なくなりました。それと同時に私が発作と呼んでいる呼吸困難が起こります。これはとても苦しくて呼吸ができない、空気が入ってこない感じなのです。震災の後、連日この発作が起きました。今は少し落ちついてきてはいるのですが、時々起きます。苦しくてその時は叫びまわります。精神科の先生にみていただいております。どうも心困性のものの可能性が大きいからでせ。頚損の方でそういう方はありませんか?あったら教えて下さい。暗い話になりました。 ところで、今度本を出します。作っていた短歌が千首になったのを記念しての出版です。短歌は素人です。短歌だけではとても売れる本にはならないだろうということで、受傷してから復職するまでの文章を書きました。その中に短歌を入れてあります。ロで打つワープロのスピードは遅く、A4紙80枚ぐらい打ちました。自分でも本当によくやったと思っています。樹心社からでます。早ければ12月中頃、遅ければ来年の1月になるそうです。本の題は「かペちゃん先生の自立宣言」です。よかったら又読んでみて下さい。(1月20日発売予定だそうです)
1995/11/20
今年も残すところあとわずかになりました。町中はクリスマスの寡囲気でいっぱいですが、毎年この時期の浮かれ気分が嫌いな人もいるでしょう。私は根が幼稚でミーハーなせいか、けっこう色とりどりに飾られたクリスマスツリーが好きです。さすがに自分の部屋には飾らなくなりましたが、(ホントは飾りたい)町中に溢れるクリスマスグッズがついほしくなります。木々がかわいそうと思うイルミネーションも、単純に“きれい!”と思ってしまいます。私はきっと暗闇に輝く、光や明かりが好きなんですね。(仕事をしていた頃は、夜な夜なネオンの明かりに引かれっぱなしでしたが)冬は星空もきれいです。 今年は、皆さんにとって良い一年でしたか?今年一年が自分にとって良い年であったのか…。車いすになってから悩むことです。今の自分にとって良い年とはどういうことなのか、その基準をどこに置けばよいのか迷います。まずは身体的トラブルがないことが一番ですが、ただ何事もなく、平穏無事に毎日が過ぎることが果たして良い年と言えるのか…?こんなことを書いていても、心がぎわざわとざわめくのです。毎日が平和=精神の平穏では決してないようです。家にいることが多くたって、それがつまらないと感じるのは自分の心。いかにストレスを溜めずに、つまらないと感じる日常からおさらばするか・・・。自分自身の楽しませ方上手になるには?それは、やっぱり他人から与えられることじゃない。自分で見つけていく努力をしなくちゃ…!この年の瀬にきて一年を多少なりとも振り返り、せめて正常(?)に動く脳みそを働かせなければとグシヤグシヤ、ブツブツ考える今日この頃です。要するに精神的充実の問題なんですね。 ところでお話は変わり、過日、古都鎌倉の新名所『鎌倉シネマワールド』と、新横浜にできた『ラーメン博物館』に行ってきました。新しくできた娯楽施設や公共の建物は、今は皆そうなってきていると思いますが、どちらの施設も車椅子でも対応できる(従業員の対応も含めて)造りになっていました、私は何かの施設を利用する時、必ず車いすだということを入口で言います。そうすると、駐車場を配慮してくれたりする所が多くあります。今回も事前に余り調べずに行ったのですが、どちらも駐車料金が無料のうえ、シネマワールドは私と介助者一入が半額で、ラーメン博物館の方は私と介助者一人が無料でした。ちょっぴりラッキー!と思ってしまいます。地元の利用する映画館は、車いすだと1800円のところが1000円です。窓口で手帳の提示を求められたりしますので、皆さん外出の際は手帳を持参された方がいいですよ。 それでは皆さん風都など引かず、良い年の瀬とお正月を迎えられますようにお祈り申し上げます。 来年もどうぞ宜しくお願いします。1995/12/8 ようやくパソコンがあやつれるようになりましたので、フロッピーで投稿します。 §1949年生まれ。♂。1987年、転落で頚髄損傷、C5。 §「はがき通信」寄付か会費か→ 会費がいい。寄付だと、いくら出せばよいか、迷っておちつかない。会費を出す余裕のない人は、現在のメンバーに限り、「まあ、いいですよ」ということにしたら? §向坊さんへ 「車イス雑記帳(2)」に、アルミタラの壁画やマハーバーラタが障害者の仕事と書いておられましたね。初耳でした。もっと詳しく知りたいと思います。『群書類従』の塙保己一や『雨月物語』の上田秋成も障害者だったそうですね。どうかひとつ古今東西の障嘗者の業績を『障嘗者列伝』といったようなタイトルで書いてもらえませんか。 ところで向防さんの電動車椅子の膝の上に乗っている物は何ですか? §みなさんにお願い 電動車椅子を買い替えようと思っています。いま使っているやつはいかにも不格好です。鉄パイプがむきだしでさ。デザイナーが参加してないことは、一目瞭然。町中に出たとき、「ワー、かっこいい!」と人が寄ってくるような物でなくてはならない。動けばいいという考え方から、もう一歩前に進みたいと思います。 条件は、
その他、アームレストがパカッとひらくと、携帯電話が入っていて、そいつは手をたたけば数字がピッピッピとオートスキャンするスピーカフォンなのね。ヘッドレストにはカーステレオが内臓されてるんだ。 こういう車椅子を作ってくれる業者を教えてください。
1995/12/8
お変わりありませんか。今、フィリピンでは島根県のFさんと東京のTさんと私が暖かい冬を満喫しています。 しかし、実を言うと異常気象によって、寒い毎日です。11月の台風では、私たちの家は胸まで水に浸かったようで、ベッドも生乾きでした。 毎年ヘルパー募集の件で苦労しますが、今年は幸い4人の仕事熱心なヘルパーが来てくれて、たいへん助かっています。去年の二人とは違います。Fさんはいつ来ても対応できますので、心配要りません。問題は、体力、気力が長期旅行に耐えられるかでしょう。
1995/12/14
12月のある日曜日の午後いつもの3人がきました。それもいつものようになんの連絡もなしに突然やってきました。 彼らは高校の時のクラブの仲間で今年の春から大学(僕の通っていた高枚は大学がついていて外部から受験する人には申し訳ないはど簡単な試験で入学できる)へ通っています。学部はバラバラでお互いに会う機会は少ないそうですが、電話で連絡を取りあって結構、一緒に行動しているようです。試験も終わり冬休みになったので見舞いがてらに遊びにきてくれました。 今の学生生活をえんえんと5時間も聞かせてくれました。なかでも一番話題になったのはJ君がワンルームを借りて一人暮らしを始めたということでした。うらやましいかぎりですが、食費が足りなくなったり友達が勝手に布団を持ち込んで寝どこにされたりとその苦労話を実体験にもとづき生々しく語ってくれました。他の連中は何をしているのかと聞くとバイトやサークルや連絡がとれないやつ、大学にこないやつ、いろいろいるけどみんな結構いそがしそう。 暇なのは俺たちだけ。彼らが帰った後は静かなもんでした。たまにでもきてくれるととてもうれしい。彼らにはとても感謝しています。今年もなんだかんだありました。来年こそはなんとか呼吸器を外して二分もつようにしたいと思っています。来年は良い年でありますように・‥。1995/12/18 通信35号で、電動車椅子のバッテリーリチャージについて書きました。バッテリーにメモリーがあるので、フルになるまでリチャージしないといけないと。 先日、電動車椅子のセールスマンに尋ねますと、HTさんがおっしゃるように(36号)、最近は改良され、メモリーがないので、少時間リチヤージしても良くなったそうです。でもバッテリーはできれば、いつもフルにチヤージしておいた方が良いということです。1995/12/26 追伸:クリスマスはサリー(車で30分)の弟の家で過ごしました。弟の家族4人、弟の友人家族4人と母と私の10人で過ごしました。行きはバス、帰りはバスが満席、弟の車で帰ってきました。 1995年はもうすぐ暮れようとしています。 今年は本当にあっという間に過ぎていきました。振り返る余裕がなかったはどです。障害者を中心とするイベントや活動、スポーツ大会への参加、週1度の英会話教室、大学での講演、旅行、経理の仕事を覚えたことなど・‥とても充実していました。 私が病院から自宅退院して約5年です。部屋でベッドに寝たきりの状態から、毎年、年の始めに自分に言い聞かせるように目標を立て、それなりにやってきました。今まで自分に対する自信と若さを前面に押し出して走ってきました。怖いものなどありませんでした。その意味で、今年は一つの節目を迎えたような気がしています。仕事を覚え、地域社会での活動を通し、自分を確立する道ができたからです。 今、振り返ると、行事が重なり、体力の弱さに随分はがゆい思いもしました。また地域との関係がより密接になればなるはど社会的プレッシヤーを感じますし、自分と他人を比較したりして精神的に落ち込んだこともありました。とくに自分で情けないと感じたのは、必要以上に周囲の動向が気になったことです。 しかしそのようなとき、私はいつも自分を見失わないよう、広々とした外空間を眺めて自身を落ちつかせました。また、学生ボランティアの存在も大きなものでした。一緒にいると楽しいからです。とくに辛いときは、澄みきった青空を眺めると気持ちが「フツ‥・」と落ちつきました。「俺は俺。自分を信じていればいい‥・」と。しかし今私は、様々な経験を通してとても大きく成長したと実感しています。 95年も終わり、また新しい年が始まります。これからも着実に自分の世界を広げていき、可能性を信じて歩き続けたいと思います。
1995/12/30
皆さん、こんにちわ!。Fです。 95年・世間は何かと重苦しく暗い年でしたが、僕自身にとってはとても得難い経験が重なり、充実した意味深い一年でした(世間の皆さんゴメンナサイ!)。 外へ向けて出かけて行く機会が増すごとに、魅力的で素晴らしい人との出会いに恵まれました。そうして人と接していく中で、また次への新しい人へとつながって行ったようにも感じています。 それらの人と同じ時を共有できた喜びから、僕にとってそれぞれに大きな励みを与えて頂いたように思っています。 さほど変化もない時の繰り返しが続く日常の暮らしに、薄れかけていた満たされる心の充足を感じています。 こうした感動の思いを、生きる栄養にして豊かに作品へ自己表現し、また日常の生活面への活力にしたいと思います。 96年も、それ以上に欲張りに多くの素晴らしい人との出会いと語り合える喜びを求めて、調子に乗ってつまずくのを覚悟しながら、積極的に行動したいと考えています。 皆さんも、それぞれに場所は異なっても、共に充実した時を過ごせるよう願っています。今年もよろしくお願いします。
1996/1/5
5月には、博多のグリーンホテルに思いがけずカナダのサルツバーグ先生(ブリティッシュコロンビア大学)と松井先生が見えると向坊さんから教えられ、喜び勇んで博多の街に行きました。 お二方の暖かさと優しさに図々しく甘えさせてもらい、感謝の気持ちでいっぱいでした。その日は向坊、S、Y、G、R、M(母)さんたち多数集まりました。皆さんと駅構内の和風レストランで夕食を共にした思い出は小生終生忘れ得ないと思います。博多までJRで一入で行けたことと皆さんに会えた喜びで一日中ルンルン気分でした。 小生の長い電動ストレッチヤーでさえもその気になれば写真屋もー人旅も可能だと実証できたことを嬉しく思っています。 今年も夏は酷暑となりました。母の病気に障ると極力冷房は控え、暑さをさけて小生は朝より弁当と水筒持参で図書館に日参することにしました。夜は夕食を取ると、海岸に出向き涼をとり、時に野宿さえしました。野宿と云っても都会の夜はちょっとしたスリルなところがあります(すごく恐い体験でしたよ)。ストレッチヤーカーならではの冒険ですね。 8月には思いもかけずFさんのご来訪があり、氏の強い信念には心をゆすぶられました。お会いできたのが夢のようです。新幹線のエレベータに消えるFさんの後ろ姿が懐かしく思い出されます。また8月は松井先生と再会する機会にも恵まれました。お話する時間が本当に少ししかとれず、口惜しい思いをしましたが、先生の暖かいお気持ちに接して、母も小生以上に励まされ、慰められたことを報告します。その日は、Sさん夫妻にもお会いでき、自立生活者の勇気と信念に支えられた生き方に活を入れられた思いでした。障害の如何を問わず仲間の皆さんが真剣に生きていることが共感でき感動しました。 9月に入って、母の病気が日一日と悪化。今度は 漢方薬も効能がなく、唯一救える方法と思われたペースメーカの交換も母の拒絶にあい、途方にくれたこともありました。向坊さんに紹介していただいたお医者に伺うなどして、説得に努めた末にどうにか納得してもらいました。10月に市立病院で交換手術を受けることになりました。多くの方々のお陰で手術も成攻して、11月7日退院できました。 母のいない1ケ月余りホームヘルパーさんたちに支えられての自立生活を体験しました。余るほどの「自由」の中で“自分”というものをじっくり見つめられたと思っています。自立がどんなものかも少しは解ったと思います。母の持病がバッテリー切れで生命が消えるという恐怖からは解放されました。母の退院を機に小生も自己の確立に向けて一層の努力を払うつもりです。 以上、ざっと小生の1年間の出来事など振り返ってみました。苦あれば楽ありと云いますが、苦多くても幸福感ありの1年でした。これも皆さんの励ましのおかげだと深く感謝しています。
1995/11/6
(Kさんのお母さんは、退院1週間後、再び悪化、再入院されました。パニック状態だった危機を克服できたのは、北九州市のヘルパーさんたちのお陰だそうです。次号でそのヘルパー制度を紹介します) はじめてお便り致します。 「はがき通信」は、私と同じ高位頚髄損傷者の各地での日常生活を伝えてくれるメディアとして、興味深く拝見しています。 私は、約15年前に頚髄5番を完全損傷しました。それ以来、日常生活の全般にわたって介助を受けながら生活しています。普段の移動には電動車いすを使い、あちこちを走り回っております。 さて、少し古い話ですが、私の嬉しかった経験の話をします。 私の仕事は大学での物理の研究で、原子核の理論を専門にしています。年2回は国内のあちこちの大学へ行き、学会溝演をするのも仕事のうちです。その際には、妻が介助者として同行してくれます。また、そういった旅行には、手動車いすを使うことにしています。地方の大学に行くこともしばしばで、車いす用の設備の整ったところも少なくありません。しかし、その位置がわかりにくいことが多く、不便な思いをしてきました。 そこで、設備の表示に関する事態の改善を、日本物理学会に対して直接にお願いすることにしました。毎回の学会では、講演のプログラムが配布されます。そこに一緒に載せてある大学構内の地図に、車いす用設備の位置を表示してくれるように文書でお願いしたのです。それまでに実際にあった問題点と、それに対するこちらの希望する配慮を、できるだけ具体的に書いておきました。 学会の対応は非常に迅速で、すぐに事務局から電話をもらい、私の要望の確認をしてもらうことができました。そして、その次の学会からは、車いす利用者に対する情報がプログラムに観せられることとなりました。どこまで私の希望に応じてもらえるか大きな期待はしていなかったのですが、車いすトイレの位置やスロープの設置場所が想像以上にきちんと記入されていて驚いてしまいました。 さらに驚いたのは、私の行かない物性関係の分科会のプログラムにも、同様の情報が掲載されるようになったことです。学会事務局及び関係者の方々には、心から感謝しています。 この対応が始まってから、すでに数回の学会がありました。地図の作成は開催する大学側で行っているようなので、その学会ごとにできの善し悪しはあります。しかし、学会参加者に車いす利用者がいるということは、必ず認識してもらっているようです。また、その後も対応に問題があったときには、改善の要望を出しています。 ご存じの方も多いとは思いますが、実はこういった表示の不備は、大学に限りません。日本国内では、たとえ公共施設であっても、せっかくの設備をわざわざ隠しているのかと感じることも一度や二度ではないのです。周囲への働きかけは、必ずしもうまくいくとは限りません。でも、不便なことがあったら、とりあえずこちらの要望を伝えてみるというのも必要です。どう対応してよいかわからずに、何もしていないということも多いように思えるからです。今回の件は、言ってみたら意外とうまくいったいい例だと考えています。
1995/12
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