は が き 通 信 Number.36
POST CARD CORRESPONDENCE 1995.11.25

《ごあいさつ》

11月1日の最高気温は、福岡が15℃、沖縄が23℃です。両地に8度の温度差は平常のことです。ところが、東京がなんと沖縄と同じ23℃だったんです。地球環境がどうかなりつある…という危機感を体調に敏感な私たちが真っ先に感じて社会に警笛を鳴らさねば、、、と思います。

1995年11月25日 向坊弘道


私の生きざま(2)

東京都 MO

私の家族と目黒区について少し話そう。
生まれは山口県だが、はとんど目黒の現在地、八雲で暮らす。目の前が桜並木の散歩道。駒沢オリンピック公館まで続いている。気候の良い頃、子供たちと犬を連れて散歩する。このビーグル犬、今、私の横でいびきをかいて寝ている。小犬の時からいびきをかく犬だった。もう家に来て10年近くになる。高齢だ。今年から冬場は家に入れている。中2の末っ子(女)から可哀想だから家に入れろとせがまれて負けてしまった。そのくせ言われるまで散歩もしない。真ん中に高一の姉がいる。本当は美術コースだが柔道をしに高校に行っている。家に帰ると鏡の前でカ瘤を作り筋肉が付いたからと見ろと言う。その上に、19歳の長男がいる。高校を中退した。このまま高校生活を続けていると殺されると言って泣いた。全寮制の学枚だった。母親が同情して辞めさせてくれと言い出す。手職をつけるため寿司屋に見習いで入る。辛抱できずに何度も逃げ出す。今では親戚で大工見習いをしている。手取り20万すべて車につぎ込んでいる。女の子には持てるらしい。これがわが家だ。

家の前が桜並木の遊歩道。駒沢公園まで続いている。したがって桜が満開の頃ともなると家の周りが忙しくなる。平日の夜は酔っぱらいの合唱から叫び声。静かだなと思えばアベックが肩を寄せあっている。週末ともなると、親子連れが自宅の庭であるかのように敷物を敷き、終日、子供の歓声が聞こえる。兎小屋での日本人、冬眠から解放されて浮かれるのもしかたない。後かたづけは、朝早くから目黒区の高齢者清掃団。恥ずかしい。

この季節、私もよく駒沢公園に行く。散歩道の中、電動では狭い。脇の一般道を行く。駒沢公園はかなり広く、チンコンで一周するのはちょっとしんどい。そのほか近所では世田谷の砧緑地公園(美術館、食堂もあり大規模)。品川区民公園内の水族館(手帳で半額)、「いるかショウ」もあり、公園内のレストランも良い雰囲気。碑文谷ダイエー。目黒からおけ村(屋台村もある)。いずれも、ハイエース、ハイルーフクラスでも駐車可。都内の車イスで気楽に利用できるところたくさんあると思う。食事の美味しい所などぜひ知りたい。交通の便、車使用の可否も併せて。
1995/9/5




日常生活

宮城県 HF

もっと早くにご挨拶すべきでしたがついつい日が経ってしまいます。今日こそは「用事はコレダケ」と決めてペンを執っています。
49年会社事故で頚椎56損傷、電動車椅子常時利用、54歳のデプ爺、宮崎県在住。よろしくお願い致します。皆さんの書かれる事で、「日常生活や旅行時の便利法や失敗解決法」や「自立されている方の介護はどうしてるか」等は大いに関心ある記事です。例えば尿、便の日常処理や出先で失敗した場合の処置法とか、車椅子からベッド移動など詳しく紹介され、違った方法を知る事は大いに参考になります。人生観や考え方についての本は多く紹介されそれなりに得るのもありますが、一番身近な日常生活の具体例が少ないように思いますので、GさんやIさん、Fさんの記事は興味深ったです。そこで私は単なる日常生活状況を記しておきますが、参考になれば幸いです

私の日常生活

洗面など:
起床時間と共にシビン取り替え、体位交換、寝たまま歯磨き、蒸しタオルで顔ふき。
食事:
朝食はベッド上で寝たまま野菜ジュ←ス、ゆで卵等軽く済ませる。車椅子に座る昼と夜は装具を付けて自分で食事出来、偶には晩酌もやります。
清拭:
朝食後、車椅子移乗前に陰部だけは毎日蒸しタオルできれいにしておく事でタダレ等の皮膚病予防。肌着や下着換えもこの時行う(風呂又は清拭は1週間に1度程度)
車椅子移乗(1日に2度):
電動車椅子とベッド間の乗降は電動ホイスト利用(土木用電動ホイストと鋼材利用で20万円くらいの安上がりだが音はうるさい)
導尿:
車椅子移動の前と、夕方ベッドへ降りた時、夜11時の就寝前の1日3回導尿。
風呂:
天井にはやはり電動ホイストを設置して、肘掛けのない風呂用手押し車椅子を用意。寝室の隣りが風呂場なので恵まれているのに、どうも面倒1週間に1度くらい利用。
排便:
3日に1回、ベッドに横になりグリセリン浣腸液120ccだけで排便。浣腸後最初は出るに任せるが途中からはゴム手或いはビニール袋越しの指で摘便。この時浣腸液が残らない様に注意しないと数時間後に失禁する(特に夏場はクーラで腹部を冷やさないよう注意)
その他:
尿窓と同時に放尿してしまう時と気付かぬ中に出ている場合があるので、車椅子上ではユリドーム(サックの先にホースの付いた市販品)利用しています。ペニスへの縛り具合でユリドームが抜けて、クッションを濡らす事もあるので、クッション上には紙オムツを敷くと良い。排便後で便も心配な場合は紙オムツは背もたれの方まで延長すると少しでも後処理がし易いようである。
パソコン:
「在宅で出来る仕事」を頭の隅におきながら始めたパソコンであるが、思っていたより石頭である事に気づき、今では趣味でパソコン通信用。お陰で当初23時間しか持たなかった座位時間がだんだん長くなり体力も増加した。
介謙状況:
手首プラプラ、指は全く動かない状態ですが、電動車椅子に座ればパソコンや食事、買い物くらいは自分で自由にできます。ただ物が掴めないために、それ以外は全て介助が必要で、その中でも排便と導尿は身内でも家内以外誰も出来ません。出来ないというより食事や服の着せ替えなどはヘルパーさんや身近な友人でも代理可能ですが、汚なく臭い便取りは頼めないし、導尿は皆さん恐がってやってくれません。「一度膀胱をおかしくしてから導尿を欠かすとすぐ濁りますので導尿は欠かせず、家内が病気で倒れないかいつもビクビク過ごしていると言っても過言ではありません。
そんな対策として「ショートステイ」という制度を知り今春体験してみましたが、6入部屋だったため頚椎の私には暑くてフーフー言いながらも勝手は言えずこ苦しい3日だった(クーラーは一時だけ)。看護婦さんが居たので、排便、導尿は安心だったが爽やかな筈の5月であれだから真夏には頭をおかしくし、真冬には風邪を拗らせる連想してしまう弱虫です。
悩み事:
という事で、介護者の事が最大の悩み事です。何方か「お願いしたい時だけ数日間面倒みて頂ける方とか施設」があればどんな事でも教えて下さい。




二度日の登場

倉敷市 HK


9月下旬、向坊さんを訪問しました。

1日目:9月26日

倉敷(ホームへの階段を駅員5人で、リクライニング式電動車椅子を抱え運ぶ、在来線で15分)から岡山から「のぞみ」で1時間半はどで小倉へ到着(車両の出入口とホームの床面の投差に難儀)。小倉駅のエレベータを降りると、向妨さんのヘルパー0さんが笑顔で出迎えてくれる。少し安心!、T・エースの後部へスロープで乗り込み、さあ向坊宅へ出発。移動中、Oさんから今回の旅の目的についてズバリ見抜かれる!
「自立につながる問題や今後の暮らしのあり様について、すこしずつ模索するようになった気持ちの揺らぎに、何か良きアドバイスに出会えたらと思っていた」と。
20分ほどで、建設中の白亜の豪邸が見えてくる。その出入り口の向かい、市民トイレ横のこじんまりと可愛らしい向坊宅へ無事到着。部屋へ入って、再会の挨拶。
この家で、向坊さんが云う「毎日が、生きるのに必死だ!」、その戦いの拠点地・狭いながらも楽しいわが家かと、じんわりとしみ入るような感動!
その日の午後、向坊さんの案内(電動車椅子2台、母は自転車)で、遠見ケ鼻岬へ出かけました。簡易保養センターでひと休みして岬まで、灯台と玄界灘を背景に記念撮影。天候にも恵まれ目の前に広がる水平線を眺め、こうして今ここにいる自分と母親、そして「よみがえる人生」その人である向坊さんと、この場所で並んでいることの不思議さに、深く感動する思いでした。
夜も食事をしながら、僕の向坊さんに対する様々な好奇心の問いに、色々と話しを聞かせてもらいました。電話による英語の指導にも驚き、パソコンの説明も聞かせてもらいました。
(偶然、東京のTさんとも電話で話しができました。
それが縁でTさんと岡山駅でお会いし、岡山市内で自立生活に奮闘中のHさんとも交流、すべてが不思議なご縁ですね)

2日目:9月27日

午前中、向坊さんが排便日。僕と母は、近くを散歩しながら写真撮影。午後から、自宅裏の車椅子練習場で過ごす。その場所で北九州市の頚損・Tさんの絵画展が催されていたので、作品を観賞しながら過ごしました。
(その後、向坊さんは夕方から9時過ぎまでNHK「あすの福祉」の取材と収録)
遅い夕食をすませ、向坊さんの旅行体験を聞かせてもらいました。明日はもう帰るのかと思うと、時間が惜しくなり、ついつい0時近くまで、傍らに居座って話しをさせていただきました。執こくてスイマセン!

3日目:9月28日

午前中、向坊さんはNHKの取材のため、別行動。僕は、作品展の制作者Tさんと友人のHさんと、和やかに一時を過ごす(お二人とも気さくな方で会話を楽しみ、旅先で出会う人のぬくもりを感じました)。
午後からOさんの運転で向坊さんと一緒に小倉駅に向かう。駅ビルで遅い昼食。何を思ったか、漫画家・梅図かずお展を観覧。
駅で別れ、そごうデパートヘ(日本画家・個展を観賞、絵の迫力、大きさに感嘆)。少し余裕を持ちプラットホームへ、車掌2人でどうにか「のぞみ」に乗り込み岡山へ、在来線で倉敷へ。到着時、駅員1人の迎えで慌てたが、乗客3人の手伝いで降ろしてもらい、ホッと一息「感謝」、兄の迎えで、描きかけの絵が待つ僕の部屋へ無事帰宅。
3日足らずの僅かな時間を、向坊さんと共にできて、現在の自分にとって今後のたいへん重要な意味をもつ時間になったと感じた。自立を達成し、現在もなおその日々の生活としっかり向き合って、より自分らしく快活に懸命に生きている、向坊さんの姿に深い感銘を受ける思いがしました。1995/10/27




病院通いで始まった秋の到来

横須賀市 HS


9月中旬から、なぜか病院通いの日々・‥!前号の通信で健康管理云々と言ったのが情けないくらいです。かかった科は全部で何と6つ!一番焦ったのは、たまたま発見した左胸のしこり。《乳癌》の二文字が頭の中を暗くよぎりました。結果は良性でホッ、ホッ、ホーツだったのですが、検査結果が出るまでのあの不安でイヤな気分はたまりませんね。今後もしこりがある限り、定期的にフォローしていかなくてはなりません。以前かかった病気の再発も大きかったです。入院までの大事には至っていませんが、薬の治療で半年はかかると思います。現在腰痛バアサンになっています。トホホ・・・(感覚があったらもっと痛い?!おなかが痛くならないなんてウソ)。副作用で体調を崩さないかが心配です。

そんな中、上村会長率いる(?!)頚損連絡会岐阜支部の行事に参加しました。上村さんご夫妻とは初めてお会いしました。ゆっくりお話しできませんでしたが、たいへんお世話になりました。講演会も福祉機器展もたいへん盛況でした。新しくできた、岐阜支部のパワーを見させていただきました(車いすのプ一太郎のオッサン名古屋駅で見ましたヨ!若いカップルの誕生も期待しています)。

今回、新幹線で行き、在来線に乗り換えましたが、乗換がとてもスムーズで駅員の対応もよく、体調は今ひとつでしたが、気分は上々の旅でした。それから今話題の“イーフイツクス”に試乗できてますます欲しくなってしまいました(ちょっと高いのがネー)。会社が神奈川だということもあって、説明していたオジサンとすっかり仲良くなって、まだ企画中という車いすでの商売の話しにまでなりました(あとで名刺をみたら「代表取締役」エライ方だったのですネ)。前号で向坊さんが電動車イスは頚損の三種の神器だと書いました。ゼッタイほしい!ゼッタイ買うゾ!と心に決めています(ちょっと大げさカナ)。家の前の道路がやっと(行政に働きかけて4年)整備され、車が入りそうです。坂道の舗装もガタガタで、車いすで通のにしんどい思いをしていました。工事は10月半ばから始まり、年明けの2月頃まで続きそうですが、今から楽しみに待っています。
今年はなぜか訃報が多く、気分が落ち込み気味でした。猛暑が終わり、心待ちにしていた秋になってからの病院通い‥・。このブルーな気分を少しでもバラ色に変えたい!!今から来年の暖かな春の訪れを待つような、そんな気分の今日この頃です。
1995/10/21




レコーディング完了!!

群馬県 TETSU-YA


発狂したレコーデイング、ジャケット製作を済ませ(表紙は群馬にある尾瀬の風景写真)、入魂の16曲人り、1stCD“NOSTALGIA”が出来上がりました。

内容はタイトル通り、マンドリンがリードの懐かしさのあるムード音楽やクラシックで、知ってい曲も多いと思います。まだまだ未熟な所もあると思いますが、現段階では最高の出来上がりだと思います。レコーデイングが凄く苦しかったんですけど、音楽を始めてまず最初の夢だったので、かなりのやりがいがありました。
200枚製作しましたので、ぜひ聴いて下さい。
11月22日から発送できます。電話を頂ければ送ります。1枚2千円です。商売主義には走ってません(企み笑)。CDの宣伝させて頂き、ありがとうございました。よろしくお願い致します。
(連絡先は情報交換誌

P.S HNKラジオ出演、思いの他、評判良かったです。ちよつと俺の文を読む声がfxxkでしたけど(笑)、結果オーライです。

(TETSU-YAさんが通信に寄せた文を中心にした30分番組です。YHさんはもちろんのこと、Fさんも取材に協力したようです。神経研でも評判が良く、隠れたTETSU-YAファン層の厚さを再認識しました。でもYさんと知り合うきっかけになった“40オバサン”はイケマセン。ファンとしては“年上の女性’’と言われたはうが気分いいですよ:松井)




前号のバッテリーリチャージ

広島県 HT


今まで、特別な注意も払わずに電動車イスの充電をしていたので、あの通信を読んでそんな制約があったのかと驚きました。真偽を確かめるために日本電池(バッテリーのトップメーカ)福山出張所へ電話してみました。

会社の回答によると、鉛電池の場合、途中でチャージを止めても上野さんの言われるようなリチャージのレベルが下がることはないそうです。ただし、ニツカド電池の場合はそういうことがあるから注意が必要ということでした。日本では現在、電動車イスのバッテリーは鉛電池でしょうから、上野さんのような心配はないものと思います。
95/11/2




タンカーで階段移動

延岡市 KK


僕は、先日、脊損センターの外来で入院手続きをしてきました。
初めての列車利用の旅でした。宮崎県延岡では、何もかも準備完了した日帰り列車の利用は何度も経験しています。個人でJR利用と宿泊は今回が初めてでした。駅、宿泊先への連絡などは万全だったものの、実際にはじたばたしました。乗換は苦になりませんでしたが、プラットホームの移動の大変さに驚きました。目的地では脊損新センターのお膝元、新飯塚駅で、改札口へ出るために僕はタンカーで特段を上がったり降りたりしました。電動車椅子はホームとホームの間を駅員さんが4人で移動させてくれました。全部で7、8人の介助人でした。
始めは一人で行くつもりでしたが、寸前に妹が介助で行ってくれるようになったわけです。新飯塚駅で、始めの勢いが消え失せたとき、「ようこそ妹が付いてきてくれた。良かった」と思い、自分の軽はずみなプランを悔やみました。帰宅の途中も1ケ所だけ傾斜のスゴイ!登り階段があり、行き帰りとも駅員さんたちの懸命の対応に頭が下がりました(いくら仕事とはいえ!)。
初めての体験とはいえ、頻繁に外出している頚髄損傷者の方たちの準備などの良さや体当たりの行動は、今の僕には足元にもおよばないと感じた次第です。脊損センターは、入院連絡があり次第行く予定です。今年中に退院できれば…と思っています。そして、いろんな頸揖者と知り合いになりたいと思っています。
今回、僕の旅では気温の変動に付いていけなかった点を反省して、ふだんもっと動かなければと自分に言い聞かせています。
皆さんもくれぐれもご自愛下さい。1995/10/29




ネパール訪問報告

北九州市 向坊


8日間のネパール旅行から25日、無事帰ってきました。行きは18人でしたが、帰りは14人、つまり4人がネパールに残りました。帰りたくないのも無理ない‥・。ネパールはそんな魅力ある国でした。
私のつくったグリーンライフ研究所、と言えば聞こえはいいが、9月に私の家に来ていたマンガル君の管理する民宿には8人が泊まりました。一般には知られていないので、近所に6枚の広告看板を立てるように予算を置いてきました。そこからもヒマラヤの連峰は見えますが、22日にはヘリコプターで峯峯に接近、頭を撫でられそうなところまで行きました。
お釈迦様の生まれたルンビニー、皇太子として政治を行ったカビラ城なども回り、東洋思想の源流の産声を聞きました。カビラ城は意外にも果てしなく続く沃地で、当時の豊かさが想像されます。
帰国前の忙しい時間を利用して、空港近くにあるネパール最大の身障者施設、ジョルパティを見学して、あらかじめ用意していた新品の車椅子3台を寄付してきました。私の電動車椅子にみんな目を見張っていました。別れにその隣地で自立生活をしている数人と知り合いになりましたが、訪問の時間がなくなり、残念でした。次回にはきっと・‥と再会を約束してきました。
お陰でネパールの豊かな自然と人情に触れることができました。しかし、貧しさも相当なものでした。いま、できる写真を待っているところです。
                    
1995/10/26




Tさん宅で自立生活体験

埼玉県 TF


東京・多摩市で自立生活をはじめられた、Tさん宅にお邪魔してきました。Tさんは6年前に事故で受傷し、療護施設での生活を送り、障害レベルも私とはとんど同じで、チンコントロール電動車イスを使っている男性です。
京王線・多摩センターから電動車イスで数十分、新宿に特急で30分、銀行、商店街と最高の環境に、カーサ・ミナノとの差を感じるのが第一印象でした。
スロープで部屋に入るとフローリングの2部屋にキッチンと広く、電動車イス2台でも狭く感じず、療護施設の個室で暮らしている私にとって、自分の部屋を持つ意味がだいぶ違うように感じました。
私は、カーサ・ミナノに入居する以前の、入院期間中は病院のヘルパーさんに24時間の介助を受けてきました。介助が安定していることではとても良いのですが、ヘルパーさんが目まぐるしく変わり、どんなに細かい介助でもはじめからひとつひとつ説明や指示するのが、入院期間が長くなるにつれ苦痛に感じ、少々制限があっても療護施設の入居を選んだわけですが、お互い気持ちよい関係を保ちながら介助を受けるTさんを見て、自立生活における一番の大事なことが良くわかり、自分にとっての自立生活の意味が少し変わった気がして、またひとつ勉強になった気がしました。

自分で冷蔵庫の中の物を把捉し、買い物をヘルパーさんに頼むという自立生活では何気ない日常生活の一部ですが羨ましささえ感じ、こんな“普通”が大変なビラ配りや介助者探しをしていくカになっているのだと思います。
私も、地域の中で社会と関わりを持ちながら生きていきたい願望は、今でも持ち続けています。しかし、それは並大抵なことではないことが、改めて分かった気がしました。今は、あせらずにいつでも自立生活の準備を始められる体力と意欲を持ち続けて行きたいと思います。1995/11/3




Oさんへ

鹿児島 RG


お久しぶりです。東京ではお世話になりました。
Oさんと初めてお会いしたとき、「強い人だ‥・」と印象を今でも覚えています。電動車椅子のコントロール部分ですが、やはり合わず、改造しました。満足はしていませんが、当分使う予定です。将棋について、パソコン通信はされていますか。通信によるメール将棋という方法もあります。もしよろしければ、対戦致しましょう。
1995/11/6




つっぱり人生この1年(1)

北九州市 TK


皆さん、こんにちわ。秋ですねエー。四季のなかで一番好きな秋です。その秋がしとやかにさわやかに、そして鮮やかに、しかも美しく訪れました。

仲間の皆さんは“秋”をどのように感じ、どのように接しておられますか。しかし秋の後ろで冬の到来を感じるのも現実です。ああもう1年が過ぎたなと思わず考えてしまいます。時の流れの速さを痛切に意識しています。今年も色々な出来事が国内外で起こりました。人々もまたさまざまな体験を強いられました。人は多かれ少なかれ、大波小波に洗われて生かされているのだと思いました。

小生の身辺もこの1年を振り返ると色々とあり過ぎて唯おたおたした年であったのかと反省するばかりです。そして反省ばかりを繰り返す自分に失望していますが、それでも失敗は成功の源だと屁理屈を並べてつっぱり人生を続けています。

今年は本当に多くの方々と出会い、また出来事にも直面しました。1、2月は寒さにも負けず、うまく冬を切り抜けたと安心したのが、3、4月には母が激しい喘息につかまり、発作を繰り返すうち心臓を悪化させる事態になりました。気の抜けない日々が続き、母の生命ももうこれまでかと幾度も思いました。思いあまって向坊さんに相談しました。向坊さんから奨められた漢方薬で徐々に病状も快方に向かい、元気を取り戻しました。
43年間と長い間、主として母に介護された海山の恩は別として、自分のために口では言い尽くせない苦労をかけ苦楽(楽はすこしもさせていない)を共にしてくれた母の生命が尽きようとしている姿を目前で見て、感じたことは、己の無能と存在のおぞましさ、一人きりの母親にこれ程までに数々の負担をかけ続けたことへの悔恨と懺悔の気持ちで胸が押しつぶされそうでした。元気を取り戻しつつあった母の笑顔を見ては安堵し、小生自身も救われた思いがしたのです。

絶望感に陥ったあの時以来、一人でも生きていける能力を養成する必要があると思い、改めて写真業の勉強を始めました。これまでも幾度か自立しようとして挫折したにがい経験がありますが、母や周辺の方々に心配をかけない方法で今度こそ確固とした信念で、自立の生活を確立するんだを意気込んでいます。その前に母を説得する仕事が残っていますが、心配症の母には内密に、取りあえず5月に見切り発車のかたちで野外写真屋を開業しました。記念写真が主な商品です。従って希望者を追ってどこへでも出かけることになります。セールスはすべては最初の意気込みで勝負が決まると言いますが、全くそのようです。珍しい電動ストレッチヤーに寄ってくる人、けげんな顔で避ける人、客層はさまざまですが、言葉使いも勉強させられます。スタイルの珍妙さに笑いこける客をパチリと一度は撮りたいと思っています(次号へ続く)。




自己紹介

大阪府吹田市 KY


みなさまはじめまして。僕はKYといいます。あまり手紙を書くのは得意ではないのでおかしな所があるかもしれません。なるべく注意して書きますのでご了承ください。先日、はがき通信の存在を知りそれを見せてもらい自分もお仲間に加えていただきたく思い投稿しました。それでは早速ですが簡単に自己紹介をさていたださます。

昭和52年3月1日生、怪我をしたのは今から2年前、部活のラグビーの試合中にやってしまいました。最初は呼吸もできましたが手術後マヒが上がってきて一週間後には呼吸が止まってしまい、その状態が今も続いています。手足はマヒしています。ただ幸運にも自宅で療養することになり去年の六月から家で暮らしています。

ただ帰ってからはずっとペットの外へはでてないので外に行ってみたいです。はがき通信を読んでいるとみなさんが外出する際に注窓する事や外出先でのアクシデントなどとても参考になります。それに読んでいるととても励みになります。これで楽しみがふえました。長くなりましたが、みなさんどうかよろしくおねがいします。




仲間に入れて

東京都 HT


皆さん、こんにちわ。いつもたいへん楽しく読ませて頂いています。僕も通信の仲間に入れて下さい。初めての通信です。まずは自己紹介します。

1971年生、24歳、大学で幼児教育を学びながら幼児教室の講師をしていました。94年7月に交通事故で頚椎の5、6番を損傷、レベルはC5の完全です。現在、所沢の国立身体障害者リハビリテーションセンター病院に入院しています。急性期にできた褥蒼がやっと治ってきたので、10月中には車イスに乗れそうです(95年5月から寝たきり&一日12時間のうつ伏せでした)。起き上がれば、自分で食事をしたり、普通に本を読んだり出来るのですが、寝ていると腕をうまく動かせないため、自分で出来ることが少なくなってしまいます。もうすぐ起き上がれるので楽しみです。

この病院には大勢の頚損・脊損の人が入院していますので、知識や情報が豊富です。前の病院では、ほとんど頚損の人をみることはなかったので、はがき通信の皆さんにはとても感激しています。なかでも可山優零さんには特別にお世詰になりました。まだ頚損になって右も左も分からない時に、面会に来て下さったり、外へ連れ出してもらったり、ご自宅に泊めて頂いたりしました。深く感謝しています。
これからも楽しい通信を読ませて下さい。
                     
1995/10/18




自己紹介&旅行

島根県 SF


「はがき通信」の皆さん初めまして、私は島根県浜田市近隣の郡部で車椅子生活をしているSFという者です。

Sさんが編集されている「就労問題研究会・会報」は6号から読ませて頂いておりますが、「はがき通信」は向坊さん宅を訪問して初めて知りました。

簡単に自己紹介します。
・1958年6月25日、昭和33年生まれ。37歳。独身。
・工業高枚.建築科卒。役に立ちませんが2級建築士を持ってます。
・1982年5月、交通事故で頚髄損傷。自損事故で人を傷つけずに済んだのが唯一の救いです。受傷後13年半。
・手術は受けず約2年間入院、治療.リハビリ。
・岡山県の訓練施設で、5年間リハビリ。
・1989年4月、自宅に帰り車椅子生活、パソコン購入。両親.妹夫婦.姪と一緒に生活。

体の状態。車椅子からベッド.洋式トイレへのトランスファーが、高さ.形状.体調等いろいろ制約がありますが、条件がそろえば可能です。左右差がり生活動作はすべて左手で、親指と人差し指が割と自由が利き、車椅子は樹脂コーティングした手動車椅子で、屋内の平坦な所なら軌道修正しながら移動できます。四肢不完全麻痺。
家での生活も6年半を過ぎました。パソコンを中心に、何かしなければと思いつつ生活してきましたが、家から出ることが億劫になり2年余り家から全く出ない時期もありました。

就労研会報で海外旅行・海外留学されている方のレポートを読み、あれこれ理由をこじつけ自分の可能性の芽を摘んでいたのは、自分自身だと感じるようになりました。

また、ここ数年の間に60歳を目前に叔父2人・23歳の従兄弟・5l歳の従柿妹と相次いで亡くなり、人の命の儚さをまざまざと感じ先で何かしたいと思っても、先の我身の命の保証は何もなく、今の内に何かしておかないと死ぬ間際になって後悔すると感じ、9月4日より受傷後初めて小倉・博多と2泊3日で旅行をしてきました。
観光目的ではなく、かねてより行動力・志の高さに憧れ素晴しいと感じていた、向坊さん・Sさんと直接会って話が出来れば、何か自分も一皮剥けるのではないかと感じたからです。
両氏とも温かく迎えてくださりとても感謝しています。

向坊さん宅では1夜泊めてもらい、将来への不安等いろいろな話をさせて碩き、また、フィリピン日本人障害者の家に長期滞在のお願いもしました。Sさん宅では、羅世玲さんとも出会うことが出来ました。
今回の旅行・出会いで、長いトンネルから抜出たような気がしています。もっと早く外に出るべきだったと後悔の念もありますが、自分に訪れた転機を逃さず行動に移れたことをとても感謝しています。出会いが縁で、これまで面識の無かった方とも連絡を取らせていただくようになりました。出会いは素晴しいです‥・!!

長く家から出なかった私が、突然変異の如く旅行に果てはフィリピンまで‥・我ながら驚いてますし、先がないからこんな気になったのではと少し心配でもあります。
「与えられた命・お陰」という気持ちは以前からありましたが、向坊さんとの出会いで再確認しました。
自分には計り知ることの出来ない万物のお陰で、幸いにも五体満足で、この世に生を受けました。自分の過ちで障害を持つ身になりましたが、万物のお陰の中で生を受けたこの身、障害も生と同様自分に与えられたものと感じています。
与えられたこの生、後戻りも引き延すことも叶いません。
最後はお任せするとして、生ある内は障害を抱えてでも懸命に生きたいです。
                      
1995/11/5




家族通信:「あの子の笑顔は永遠に体操少年笹井建ニ・19年の生命の証」出版

埼玉県 HS

あの子の笑顔は永遠に
笹井裕子著
制作:日本教会新報社チャペル工房

菊薫る季節となり、朝夕は寮さを感じる頃となりました。故・建二の6年間の闘病生活記録が出版の運びとなりました。昨年10月より1年かけて書き続けました。“あの子の笑顔は永遠に”と建二の笑顔にぴったりの表題がつきました。サブタイトルは“体繰少年笹井建二・19年の生命の証”としました。表紙は、明るいクリーム色をバックに大きなボタンのお花と一緒に建二の笑顔の写真が入っています。私たちに笑いかけています。頁数は383ページとかなりな枚数になりました。そのなかには、事故の日より建二の生活のすべてが記録されています。

「小児病棟の日々」では、多くのお友だちが出来、ワープロで手紙の交流もできました。病気に苦しむ小さな子どもたちへのいたわりの気持ちや愛の心と、数かぎりない体験を通し、建二の心は発達しました。そして、やっと念願叶い、自宅へ退院できました。

「自宅での療養生活」では、自宅での自由な時間と家族との楽しい生活が出来ました。また、学枚の先生、同級生とも交流ができました。それから教会の先生、ボランティアの方々、「建二を支える会」(二審の裁判から結成)の方々、大勢の方々の交流を通していろいろなことを学び、充実した時間を過ごすことができたと思います。多くの方々の愛と優しさを建二は知ることができ、幸せな6年間だったと確信したい思いです。建二は私たち家族にとって大切な存在でした。8ページにわたるカラーグラビア写真には思い出がいっぱい詰まっています。写真が語りかけてくれるようです。

私はこの1年間、原稿を書き続けるなかで、もう一度建二と会話の出来たことを嬉しく、幸せに思っています。11月25日には自宅にて出版記念会を祝うことになりました。この1年間を振り返り、ただ感無量の歓びを味わうことができました。皆様、励ましをありがとうございました。1995/11/6




パソコンの公費申請

大阪府 NM


すっかり寒くなりましたね。お元気ですか? 私も定さんも元気で毎日送っています。アゴで操作する電動車椅子で、家の回りをぐるぐる2時間ぐらい散歩できるようになってきました。そろそろ福祉タクシーをチャータして紅葉見物に行けるんじゃないかと思っています。しかしなにぶん温室育ちになっちゃいましたので、寒くなると、外にでるのがおっくうがるみたいです。

8月のリハ工カンフアレンスに声をかけて頂きましたが、付添さんがいなくて、私はでかけることができませんでした。残念でした。近かったのでとても行きたかったのに。でもあの有名な(?)TETSU-YA君とHさんがわざわざ訪ねて来てくれたので、定さんも私もたいへん嬉しかった。新幹線で、とても疲れたように見えましたが、いろいろ話しが聞け定さん大歓びでした。

‥・で、あの2人のように一緒に音楽などやりたいね、パソコン使えたらいいね、ということになり、パソコンを購入しようと、福祉に給付申請しました。が、なんと言語障害の表示が手帳にないから駄目、ワープロなら給付しますと言われ、ガーンとなりました。で、私は、言語障害の申請をするために、あちこち病院をまわり、結局、主治医(内科)の先生に耳鼻咽喉科の診断書を書いて頂き、それを耳鼻咽喉科の判定医のいる病院へ持って行って証明書をもらうという、まわりくどい方法で無事、申請にこぎ着けました。

定さんが病院に行けたら早いのですが、状態を話すと来てもらうのは気の毒だということでその方法になったのです。でも良い主治医の先生や訪問看護婦さんに恵まれているなあと、回つくづく感じました。突然、かけこみで診断書お願いした市民病院にも親切にしてとても心強かったです。
決定はまだ先の話しですが、人工呼吸器がついていると言語障害にあてはまるということを知らなかった私がバカでした。
とまあ近況はこんなところです。年賀状の写真も撮れました。昨年より定さんの顔はほんの少しですが、細くなりました。ダイエットに励んでいるからです。楽しみにして下さい。それでは風邪など引かぬようお元気で。
1995/11/8




広報報だより

①疑われる電気製品

福岡県 MMさんより

米国食品医薬品局発行のFDAコンシューマ誌によると、医療装置は、近くにある携帯電話などによる電磁波障害にさらされると誤作動の恐れがあるそうです。ヨーロッパの病院では、すでに病院内の携帯電話の使用を禁止しているところもあり、FDAは米国の病院にも同様の処置を勧告しています。ペースメーカや無呼吸監視装置などの医療装置が誤動作する事故が多発していますが、電磁波障害がその原因ではないかと疑われています。電磁波障害には携帯篭話の他に、コンビュー夕を無線でネットワークにつなぐ装置、マイクロ汲の信号、ラジオやテレビの送信機、ポケットベルなどからも生じる危険があるそうです。

北九州では、実際に、類似の事故がありました。無線機を使用中、車椅子のスイッチを切って、ブレーキロックしていたにもかかわらず、急に車椅子がグルグルと回りだし、車椅子から振り落とされ、大怪我をされた方がいるそうです。

②FESの講演会

MOさんの依頼により、10月末慶応大病院で開催されたFESの講演を聞いてきました。報告は米国のペッタハム教授、バイオメディカル・エンジニアでした。当日配布された抄録を紹介しましょう
機能的電気刺激(FES)システムはC5、C6レベルの頚揖者に掴んだり、放したりする機能を調節するために開発されました。システムは手の活発な動きを通じて日常生活動作(ADL)の向上を可能にします。今回、初期にシステムを造設した30例の成果について報告します。

造設可能なFES人工神経システムは、胸部に外科的に造設された8チャンネルの刺激器を利用します。前腕と手の7神経に造設した電極は、手掌と側面に把握と解放の動作を供給します。いくつかの筋肉にはFESによって興奮しない脱神経が発見されていますから、脱神経筋を興奮筋に置き換えるために腱転移が実施されます。8つの電極は、感覚のフイードバック用に使用します。このシステムの他の要素は、胸あるいは手首に造設されたコントロールセンサーです。2つのコントロールユニットはシステムのパワーとユーザのコントロールを供給します。
コントロールは、筋肉に供給される刺激を調節する肩(または手首)の段階約な運動によってユーザが行います。制御する運動に応じて手の開閉運動をおこすために必要な収縮を徐々に強化していきます。小さな速い肩の運動で安定した把握運動を起こす。感覚刺激はオン/オフでコード化した電気触覚合図でユーザに伝え、把握モード(例えば手掌と側方のつまみ)、閉じる、強い握り動作を起こす。

最初のシステムは19986年に造設されました。米国、英国、オーストラリアで造設されたのが現在30入います。FESとは無縁の死因と感染による死亡2例を除き、全システムが可動中です。手の開き、強い握りなど動作は統計的に有意に改善されています。ADLの向上に寄与しています。高い満足度を得ています。その成果をビデオでご覧下さい(松井訳)。
(供覧されたビデオは術前と術後が一つの画面で同時平行して示されます。術後の変化、手の動きがはっきりと分かりました。かなり実用的な動きに見えました)

③10月22日、HNKラジオでTETSU-YAさんの番組が放送される

はがき通信に投稿し続けた通信が中心となった30分放送です。Yさんと共演の曲も挿入されました。10月12日NHKテレビ、明日の福祉では「四肢マヒ者の就労」が放送されました。KSさん編集のワーキングクオーズがとりあげられました。Sさんがゲスト出演、向彷さんとSさんも出演しています。

④「あの子の笑顔は永遠に」が出版される

HSさんの通信で紹介された「あの子の笑顔は永遠に」(1800円+送料380円?)を購入希望される方は、下記へご連絡下さい。故・建二さんは在宅で人工呼吸器を使っていましたので、ベンチレー夕使用の方にはとくに参考になると思います。
連絡先は情報交換誌「はがき通信」に掲載

⑤口で描いたテレホンカード

古小路さんの絵が2点(“雪原のコンサート”№795と“ひろがる愛”№798)採用されています。50度数、1枚千円です。収益は障害者の育成、援護に使われるそうです。

⑥はがさ通信は今回で丸6年となりました

現在発送部数約270、印刷部数は400です一部の方々からご寄付をいたださていますが、印刷、発送、切手など費用の大半は神経研社会学研究室の負担です。
その予算の使用は来年3月までが限度となりました。

来年4月以降も継続するとすれば寄付か会費制にせざるを得ません。寄付で運営するか会費制(200部発送として、年額2500円から3千円くらい)にするか、皆さんのご意見をお伺いします。次号までにお願いいたします(松井)。




最先端の頚損プログラム(3)

松井


最先端の頚損プログラムを自負するBC州でもベンチレータ使用頚損専門のリハビリテーションが開始したのはつい最近、1993年でした。その施設は前号で紹介したGFストロングセンターに設置されました。約2年間におよぶプロジェクト委員会の検討の結果、提出された“提言’’がはぼ100%盛り込まれたようなプログラムです。メンバーにはベンチレータ使用頚損の代表が参加しています。居住者のニーズが十分反映されたプログラムであることも大きな特徴でしょう。

1995年5月、GFストロングの高位頚髄損傷ユニットを訪問しました。定員8人、居室はすべて2入部屋でした。電動車椅子で移動でさる十分なスペースの部屋でした。夕方、施設を案内してもらいましたが、夕食時問で、みな食堂へ行って留守でした。

一人だけナースの介助で食事中の少年がいました。彼の損傷高位はC1だそうです。まだ呑み込むことができず、経管栄養による流動食でした。しかしベッド上ではありません。電動車椅子を約60度にリクライニングさせて食事介助を受けていました。パジャマではなく、上着とズボンを身につけていました。受傷後5ケ月半です。ベンチレータは外していましたが、気管カニューレは挿入、カニェーレのサイズは7、BC州で使用されているカニューレとしては太いほうでした。担当ナースの説明によりますと、経管栄養から経口摂取と切り替えつつ、より細いサイズのカニユーレに持っていき、いずれストーマを閉鎖する予定です。

少年はかすれ声なので、ナースに質問すると、案内してくれたソソーシヤルワーカから本人に質問するよう注悪されました。彼は頭も意識も正常だから私の質問に答えられるというのです。
少年は手も足も全く動かせない状態で、急性期センターから移ってきました。しかし驚くことに最近、両足を挙げ、左手を動かせるようになったとワーカが嬉しそうに説明します。そして実際に足と手を動かして見せてくれました。スタッフの予想を裏切るような回復ぶりでした。今後、どこまで回復するか可能性を追求してみたいというのが担当ナースの説明でした。

GFストロングの脊損プログラムは、高位頚損が加わったことで、ユニットが2つになりました。脊髄損傷一般と高位損傷レベルの2つです。呼吸筋麻痺があるか否かの区別であって、対麻痺か四肢麻痺かという分類ではありません。手が使えるか否かはもはやBC州ではリハビリテーションの分類基準ではないようです。
さらに特徴的なことは、リハビリテーションのゴールが頚揖であるクライエントとスタッフの話し合いで決定される点です。C4では無理、C5までとか、あるいは不全麻痺か完全麻痺かなどと、損傷高位や麻痺レベルによってゴールを決めてはいないことです。ゴールは画一的な基準ではなく、一人一人の条件やニーズによって決める。個性が尊重されるゴールの設定です。
リハビリテーションのチームは、ドクタ山、ナース、OT、PT、リクレーションセラピスト、呼吸療法士、カウンセラー(ソーシヤルワーカ、人生設計、心理、性教育、司教、ピア指導者)で構成されます。さらに必要に応じて、技術的なサポート、栄養、薬剤、姿勢矯正療法が供給されます。そのうえ、高位損傷レベルにはクライエント一人に一人のコーチがつきます。コーチの投割は、クライエントが自己決定能力を身につけ、学習やゴールに到達できるように援助することです。コーチは彼らの生活にもっとも接触の多いナースが担当します。
ゴールの達成に関与するのは、GFストロングのスタッフのみではありません。家族や友人、さらに先輩脊損や頚損も参加します。そのため個室の談話室のみでなく、家族が長期に宿泊できる特別割引のホテルがセンターの近くに用意されています。
居室には、ライト、ナースコール、電話、テレビ、ラジオなどの電源を〉一人で操作できる環境制御装置、ベンチレータの装置が配備されています。GFストロングに入所と同時にできることは自力でする、セルフケアの訓練が始まります。施設の生活すベてが自立教育の対象です。麻痺した手の替わりとなる環境制御装置は各員のベッド上に配備されています。入所者のー人に日程表をみせてもらいました。月曜から金曜までの日程表です。セルフケアの時間帯が目立ちました。GFストロングには入所者用のマニュアルがあります。
そのタイトルは“YES、YOU CAN!(そう、あなたはできる)”、副題が“セルフケアのために”です。
麻痺のためできなくなったことは環境制御装置など福祉機器で補いつつセルフケアを追求する。“四肢麻痺になっても、ベンチレータ使用者になっても自分でできることがある”と教育するのがGFストロングのリハビリテーションです。リハビリテーションとは教育であり、潜在能力を開発するのが教育だと案内のワーカは誇らしげに説明します。つまりGFストロングのリハビリテーションとは、潜在能力を開発する教育だそうです。
日本で交通事故に遭ったカナダの男性を紹介されました。センターの頭部外傷ユニットに入所中の人でした。植物人間状態だったのがセンターのリハビリによって車イス生活となり、地域生活の準備中とのことでした。日本の石庭に魅せられて10数年大阪で生活していました。「バンクーバに戻ってきて良かった。日本の病院にあのまま入院していたら、こちらのようなリハビリは受けられなかっただろう」と彼の弟さんは何度も強調していました。日本は元気なときはとても魅力的な国だが、重度の障害者になったら放置されてしまうからと言われているような気がしました。






あとがき


*HSさん、追悼出版おめでとうございます。建二さんの3回忌に間に合って良かったですね。
“書きつづけることでもう一度健二と会話が出来た”その思いがあの大作になったのでしょう。TETSU-YAさんもCDの完成おめでとうございます。でもTETSU-YAさんが急に改まった文牽を寄せると、がっかりする人が多いのではとちょっと心配です。

*新しい仲間が増えました。KYさんはベンチレータ使用者です。ベンチレータ使用のご本人が通信を寄せたのは、8号(91年3月)のIAさん以来です。Kさんはパソコン通信をなさいます。
先輩頚損の皆さん、どうぞ直接Yさんと交流して励まして下さい。

*今回は長編の通信をフロッピーで送っていただき、助かりました。そのうちパソコン通信で通信を受信できるようにしたいと思っています。いましばらくの間、98またはマックを使っている方は、できればフロッピーでお願いします。テキストファイルであれば、強制改行の必要はありません。普通の入力が好都合です。フロッピーは通信と一緒に返送します。

*Mさんの通信にある「人工呼吸器使用だと言語障害に当てはまる」とは、バンクーバーの上野さんはさぞびっくりされていることでしよう。日本の医療福祉の貧困さを見せつけられた思いです。でもそのお蔭でパソコンが公費支給になるとはなんともチグハグですね。

*麩沢さんの自立生活体験記は短いけど味のある通信になっていますね。あせらずに体力をつけながら、いつでも始められるよう準備をする、貴重な体験になったようです。ただし、麩沢さんがご自身の自立生活に忙殺されているため、ただいま広報部だよりが手薄です。前号はOさんが貴重な情報を寄せて下さいました。今回も松下さん、土屋宏蔵さん(通信に含めた)が援助して下さいました。広報部だよりにも情報お待ちしています。皆さんのご協力お願いいたします。

*Kさん、折角の長編ですが、編集の都合上2回に分けさせていただきました。ご了承下さい。5月と8月と2回もKさんにお会いでき、たいへん感動しました。勇気を与えられた思いでいます。

*今年最後の通信となりました。皆さん、どうぞ良いお年をお迎え下さい。
  





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