は が き 通 信 | Number.34 |
POST CARD CORRESPONDENCE | 1995.7.25 |
体温調節のできにくい頚髄損傷者にとって梅雨の間は行動を稼ぐチャンスでした。Tさんは北陸から九州へ、Hさんは小倉から鹿児島へ、ストレッチヤー型電動車イスに乗るKさんはJRで1時間かけて福岡へ。出かけるところで感動を経験し、心の糧が増えます。でも、真夏は自重して計画を練り、秋を待ちましょう。
1995年7月25日 向坊弘道
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はがき通信の皆さん、こんにちは。梅雨真っ盛りという感じで、毎日うっとうしい日々が続きますが、皆さん元気でがんばっていることと思います。 この時期は散車イスもままならず、家の中でパソコンや読書に励んでいますが、外の空気が恋しくてなりません。今回ま私の夢がーつ実現できたので聴いて下さい。 6月15日より3泊4日で北海道旅行をしました。受傷以来約4年、旅行に行けるかどうかは、私にとって、また私たち夫婦にとって夢であり、将来の指針でもありました。それはど大きな目標でしたが、私の臆病さと心配性が災いして実現できませんでした。昨年、車にて実家(山口)に一泊したのが唯一の旅行でした。 行動的な諸先輩方には退屈な内容だとは思いますが、私のような初心者に少しでも参考になればと思い、ささいなことも書きました。 そもそも今向の旅行は、私の姪が札幌にて結婚式を挙げるということで実現しました。最初は話を聞いただけで断りました。しかし兄弟みんなが行くので人手は十分であり(兄2人、義兄1人)、こんな機会はそうあるものではないと周囲の者や妻に説得され、清水の舞台から飛び降りるはどの気持ちで決心しました。 私にとって心配は以下のことですが、前準備をして出発しました。 公共機関のアクセス① 飛行機は親切とはよく間さますが、予約や搭乗の不安行きは熊本ー新千歳の直行便(JAS)、帰りは直行便がなく、羽田で乗換でJALを利用しました。予約は旅行代理店では要領を得ず、それぞれの航空会社に予約しました。JASでは障害者手帳を見せた位ですが、JALは体の具合や、どの程度の手伝いが必要かと細部に気を使ってくれました。帰りは導尿後、家に着くまで8時間はかかるので羽田で導尿したいと相談しますと、医務室を必ず使用できるよう予約して頂きました(後日、自宅に新千歳ー羽田ー熊本間の受け入れ準備が出来たから安心してほしいとJALより電話があり、大感謝でした)。 さていよいよ出発の日です。 16:05発で18:30着です。昼頃より水分を控えて口が渇かない程度にしました。熊本空港に車椅子タクシーで1時間前に着くようにしました(自宅より20分)。しかしなんと1時間遅れて出発と聞いてガックリ。搭乗手続きカウンターにて、航空会社の車椅子に移るのに男性2人に脇と膝を抱えて頂きました。車椅子は普通の市販されている物でした。自分の車椅子はローホークッションと一緒に荷物として預けます。待ち時間が2時間もあるので応接室に通されました。ソファーがありましたので、また抱えてもらって横になっていました。飛行機の搭乗は、私は別のルートで、妻は一般のルートでした。搭乗が定刻便でないためタラップになり、急な階段を2人で抱えてもらいました(怖いやら、痛いやら)。 新千歳では、私の車椅子を機内までもってきてもらい、直接自分の車椅子に移り出口まで押していただきました。 さて今度は帰りの飛行機です。 新千歳から羽田経由で熊本へ、1時間以上も前に新千歳空港に着きました。すぐ航空会社の車椅子に移るより自分の車椅子の方がいいので、30分前に搭乗手続きをしました。JALの車椅子は、話に聞いていた小さいものです。椅子が浅いのと肘掛けが低いので不安定です。腿のあたりを固定するベルトはありましたが、それでも不安定です。“さもあろう”と持ってきた胸用のベルトで上半身を固定しました。機内に入った所で、さらに車椅子の肘掛けと後輪をはずすので(後ろにも前輪のようなキャスター付き)、座席へ向かう途中、肩を押さえてもらっていました。 羽田へ着陸後、機内まで“乗り継ぎ便の搭乗までお世話します”と迎えにきた男性が医務室まで案内してくれました。そこで、1時間遅れると知らされました。医務室(8畳ほどの部屋にカーテンで仕切られたベッドが4つ、冷蔵庫、洗面台、机)にてすぐ導尿しましたが、あまり出ません。1時間半後、迎えに来られたと同時に尿意、ちょっと待ってもらい、再度導尿して大安心でした。 熊本空港に到着すると、男性2人が出迎え、JALの車椅子で出口へ、そこで自分の車椅子に乗り換え、ほっとしました。
(以下、次号へ)
長いこと、ご無沙汰致しました。お忘れでしようか。忘れて欲しくないストレッチャーのTKです。 頚損にとっては辛い季節を迎えました。小生は多忙を極め痛さも忘れて仕事に没頭しています。“四十の手習い”ならぬ六十の手習いです。人に笑われるのは慣れている小生でも少々笑いたくなる習い事です。無い勇気を絞り出して立ち向かっています。 実は密かに野外写真屋を開業しました。主としてポロライド写真、ときには8ミリビデオカメラや一眼レフを使うこともあります。同居の母は、小生が外出することさえも心配の種ですが、内緒の仕事になります。心臓が悪く、ここ2年ばかり体調が思わしくない母は、よく怒るようになりました。私事で恐縮ですが、小生のために自分の幸せを捨てた現在の母の姿を見るのは辛いものです。現実的に言いますと、母は死を前にしています。少し遅すぎた感はありますが、母の生前に自立できる実証を得たいと今は、一直線に自立の確立を急いでおります。 皆さんの良きご指導を期待しております。と同時に皆さんのご健闘、お祈りしています。
1995/7/1
時候がよいので、5月13日、兄のワンボックス車で再び博多へ行きました。嬉野インターから高速に乗れば1時間ちょっとで着きます。今回は、福岡あたりのケイソンのあいだでマドンナ的存在のISさん(親子)と、お昼ごろ博多駅の筑紫口でおちあいました。まずは空腹と貧血を癒すため、地下街でめんたいこを肴に焼酎を一杯飲み(ふだんは昼間から飲んだりしません!)鯛めしを食べ、ようやく人心地がつきました。 Sさん親子は私の小説や随想の愛読者というばかりでなく、同じ学習塾経営という間柄からつもる話がはずみました。 それから一緒に駅前のグリーンホテルへ向かい、松井先生の案内してこられたカナダのブリティツシュ・コロンビア大学のサルツバーグ助教授と、私も所属している「就問研」のスタッフ(KSさん、大分の司法書士KYさん、台湾からの九大留学生・羅世玲さん)、その他、福岡のMさんたちとホテル内のレストランで情報交換をしました。帰りがけには駅前で北九州のTKさんと例のベッド型電動車いすも見かけて感激しましたし、夕方からは博多の寺で講演を終えた向坊弘道さんも駆けつけられました。 当日、東京ではケイソン連絡会の総会が開かれていたのですが、さながらその西日本部会とでもいうような趣でした。清家さん以外は初めてお会いする方たちばかりで、そうそうたる顔ぶれに触発されっぱなしでしたが、これはSさんのコーデイネイトによるところが大きく、編集者として彼の面目躍如というところでした。 サルツバーグさんに自己紹介代わりに自作の短歌・俳句の英訳アンソロジーを差し上げたら、たいそう面白がってもらえ恐縮しました。今度は小説も見せてくれという話しになり、帰ってからさっそくみつくろってお送りしたら、折り返しご専門である日本の精神病の法制に関する論文(邦文、英文とりまぜて)をどっさり送って頂き、読みこなすのに大汁をかいています。それにつけても、人との出会いというのは不思議なものですね。 最後に私事ですが、3年来推敲している評論「障害者の文学」が「せき損ニュース」に連載してもらえることになりました。以前から文学的な理解を示してくださっていた博識の編集長成瀬さんが、編集交替前の置き土産として道をつけてくださいました。パソコンのフロッピーディスクによる入稿料と原稿料もわずかばかり出るそうで、ありがたいことです。20万字近くあるので1年以上かかることと思います。これが議論の叩さ台になればよいと願っています。みなさんも見かけられましたら、忌憚のないご意見をお聞かせください。 唐突に叫びたくなり叫ばずに またもひとりの修羅ゆききする
1995/6/26 虎彦
こんにちわ 元気イー! 5月の連休にYちゃんと出梨に続行してきました。ケガしてから初めて。 “も行こっか!!”の一声で朝3時ころ、家を出て佐久、清里、甲府経由で朝8時には霧の河口湖にいる俺らを思わず笑ってしまいました。 散歩していると小雨模様も晴だしてきて予定は順調すぎるくらい順調っす。 そして5合目を目指し富士山が近くに見えた日にや“来たねっ”て思った。 結局5合目のー番上にある神社まで車椅子で行けてLUCKY!! 俺らのためにわざわざ大きなスロープTHANXでした(笑)。 で、泊まる所は上村SANの“夢旅人”に紹介されていた小淵沢にあるペンション“太陽の子”にしました。 アットホームで他にも色々な障害を持った人たちも泊まりに来られていたけど、なんか壁があったのが残念だった。 夜は11時頃凄ました。普段はリフターで移動するけど、リフターなしに一人でやってみようと。プロレスでいったらノーザンライトスープレックスをベッド上にスイングDDTで返した状態でOKでした(笑)。これすっげわかりやすいよ。マニアックだけど。俺がデルフインでYちゃんが馳ね(笑)。まー、俺プロレス覚めたけど。とにかくリフターなしで2人で移動できたのは嬉しかったんサッ!! 次の日は小淵沢の美術館や八ヶ岳麓の滝沢牧場ectによって帰ってさたとサ、チヤンチヤンっと。初めての旅行、凄く気分爽快で楽しかったナ。また8月ネッ。写真は富士山5合目へ向かう途中の休憩所。見おろせばもう雲の上なのに見上げると富士の頂はまだまだ天に向かっている。 恐怖感すら覚えサブイもんで感動!!。 そして、一句詠みたくなったがあいにく俺にはそういう才能はなかった(涙)。 あと今月はCLASSIC(クライスラー&カンパニーとプロのマンドリンコンサートの2本)、ROCK(BUCKTICK)、JAZZ(バッハの曲のアレンジ)系と計4本のGIGに行ってきました。 なんか行きすぎたけど月が偶然の一致ということでオーライ。 ROCKに関しては今まで車椅子だと見にくい所ばかりだったけど、今度の所(高崎音楽センター)は落ち着いてOKでした。 落ち着いて見ているとノリの掛合が“う一ん、バッド レリジョン”って感じ(笑)。バンドと観客、両方を楽しめました。 あと思ったのは16、7の頃のトキメキは薄れて、ジャンルを越えて、由紀さおり姉妹とかもいいなって(笑)。演歌まではいかないけど…。 で、耳なりの後遺症が数日残り…まあアリかっ。 CLASSIC(クライスラー&カンパニーはかなりROCKアレンジがグー)、JAZZは耳の入るところが違いまたまた気持ち良かったナ。 最後に秋にCD作るぜイ。自己満足の追求で2枚だけなんですけどね。 CD製作費よりスタジオレンタル料のはうがかなり高いんですよ。 まあとりあえず自主製作で2枚だけ“アラタマ”を作っておくのサ、HA!!。 この辺は“夕焼け小焼けでショカクヤチトセ”だな(笑)。俺らにはわかる。 曲の内容はYちゃん(Super Mandolin)とのユニットでCLASSIC&POPSです。で、先日スタジオに行き…表はおもいっきり階投で狭いんだけど裏からストレートにレコーデイング室に入れたのでよかった。 音現を作るのはケガする前から夢だったし、ケガしてから実現するとは思ってもいなかった(涙)。一丁がんばりませう!!。 出来上がったらいい音でTAPE聞いて下さいませ。 ということで、少し長くなちゃってSORRY、じゃ、またっ、アデイオス!!
1995/6/26
初めまして 私は、6年前に事故で頚髄を傷め(C4、5)、現在福井の某療護施設でお世話になっている者です。37歳、男性。右腕が少し上がり、自助具をつけて何とか食事はとれます。ふだんは、チンコントロールのリクライニング式電動車椅子に乗っています。 はがき通信は半年はど前から読んでいます。通信の他、海外情報や交換市などもあり、施設生活で情報の少ない私にとってたいへん貴重なものです。それに一般の人が読んでも判りにくい体の状態など、すんなり、いやひしひしと伝わってきます。個性的でパワフルな方が多く、障害という負の要素を感じさせないどころか、逆にプラス思考に転換していろいろなことに挑戦されている通信など、同じ障害を持つ者として感銘を受け、励まされています。 これまでは読ませていただくだけでしたが、5月、6月と、地域で自立生活をなさっているFさん、向坊さんをお訪ねできたのを機に、ぜひお仲間に入れていただきたく、ワープロに向かいました。 実は、3年前に施設に入所したものの、ずっと地域での自立生活を考えていました。が、実際には雲をつかむような夢物語で、なかなか具体性を持ったものにはなりませんでした。そして、昨年秋「冥冥なる人間」でFさんを知りました。お電話して、いずれ地域で生活したい旨話しましたら、昨年末、何と寒波がきている厳冬の北陸を訪ねて下さったのです。そのパワーと、お話の内容から少なからずショックを受けるとともに、付添の学生さん2人のいきいきとした表情が妙に印象的でした。 その時に、一度東京へぜひ、とお招きいただきました。今回、介助して下さる方が見つかり、急遽、5月12日から2泊3日の小旅行に出ました。ちょうどJR北陸線に、身障者(車椅子)に対応したサンダーバード雷鳥(富山ー大阪間)という新しい特急電車が4月末から運行になり、その試乗も兼ねることができました。 車両は4号車で、入り口の扉は広いもののホームからの段差がかなりありました。駅によっても違うでしょうが、福井、京都は20cm以上もあるようでした。客室に2席座席を外したスペースがありました。やや幅の広い私の車椅子が入ると、車内販売のワゴン車が通れません。初めからトイレ横の多目的室に入れていただきました。 12口は渋谷のNHKホールで、念願の生のN響によるマーラーを聴くことができました。ちなみに座席に移動できない私の席は、1階ホール左前方、入り口のすぐ横にあるわずかなスペースで、B席5千円。選択の余地はないようです。その日は近くのホテルで泊まりました。運悪く停滞前線の影響で東京は大雨、車椅子での移動はたいへん苦労しました。Fさんが渋谷駅にボランティアの学生さんを遺して下さったので助かりましたが。何か、よい雨対策がありましたら教えて下さい(市販されている車椅子用雨ガッパは高い!)。 翌日、新橋で京王線に乗換、多摩市へ向かいました。何とJR新橋駅にはエレベー夕がなく、階段を降りるのに人混みの中を4人で抱えてもらったのには閉口しました(渋谷駅は大丈夫でした)。京王永山駅ではバックでエスカレータを降りました。これも初体験で少し肝を冷やす思いでした。5分はど歩いてFさんのアパートヘ辿り着いたのが昼過ぎ。再会を果たし、ホッとしました。 その日は夜遅くまで、とても有意義でアツトホームなひとときを過ごさせていただきました。ボランティアの学生さんやヘルパーさんなど、本当に明るく楽しそうで、Fさんが羨ましくなりました。私たち四肢麻痺の者は、介護者なしには生きてはいけません。Fさんは、お金の関係に拠らない「実存に根ざした(J.デリダの思想に基づく)愛と優しさ」の上に立つ人間関係を大切にされていますが、そのー端を垣間みる思いでした。そして、重度の障害を持つ者が、社会から隔離されるのでなく、地域の中で普通に暮らすということが、それだけでもとても意義のあることのように思えました。 その夜は、Fさんが事務局長を務める「自立ステーションつばさ」の自立の家に泊めていただきました。思いがけず代表の木村さんご夫妻とお会いできましたが、話される内容がとても説得力があり、強い信念を持って活動されている様子が伝わってきました。翌日は、ボランティアの学生さんがわざわざ新宿駅まで送って下さり、心強い限りでした。Fさんのきめ細かいご配慮、感謝しています。
(以下、次号へ)1995/6/30
人との出会いは、本当に偶然というのか運命的なものが有るのでしょうか? 向坊さんの講演があると地方紙に掲載され、それを私が気づかなければ出会いはなかったでしょう。 この小さな記事を見つけたとき、自分の目を疑いピックリしました。九州からどういう交通手段で来られるのか、いろいろな分野で活躍中の向坊さんが本当にこの鳥取に来るんだ!という驚きでした。 でもすぐ講演会に行こうと決めたわけではありません。会場の「畢意院(ひっきょういん)」は少し遠くでしたし、当日はヘルパーさんの来られる曜日でしたので、最初は迷いました。しかしこの機会を逃したらいつまで経っても出会う機会が無いかもしれないと、思いきって出かけました。 講演の内容は、これまでの生きざまや親鸞様との出会いなどでした。 母親に愚痴や不満をもういいかというほど、ぶちまけてきたことなど赤裸らに話されました。 さて? 自分はどうかなと振り返れば、まだ母に対して不満を言ってみたり、母親を安心させられるような生き方をしていない現実が見えてきます。親不幸者をずっと続けている自分です。 講演後、宿舎へ図々しくもご一緒させていただき、夕食を共にしました。自分が頚損になった事故と原因のこと、今もなお目標を見つけられずにいることを聴いていただいたり、少しばかりですが、仏教の話を伺いました。 自分の目の前に大きな鏡があり、そこに映っている姿を見ているとのこと。 そこには良い自分も悪い自分も映っているのだけれども、今の自分には悪い自分しか見えてきません。 自分のことを「駄目だ!駄目だ!」と思えば本当に駄目になってしまう。自分の考え方を変えるだけで、人生はガラリと変わるのにと解っていても、自信がなく「一歩」を踏み出す勇気がなく、そして怖い。 でも、何とかして今の自分を変えなければいけない。自分の精神がマイナス思考になっている状態では周囲に対する思いやりなど持てるはずがありません。 向彷さんの淡々とした表情などを見ていると、何か大きなことをやろうなどと思うことの方が間違っているのかもしれません。今、自分が何をしなければならないのか、それは「生きていて良かったなあ」と思える生き方をすれば、自然と母親に対しても安心、させてやれるだろうと思えるのです。 幸いにして(?)まだこの世に残っている命を輝きの有るものにしてやりたい。でもでもばかりで、「牛」のようにじっとしているばかりで、何も変わっていない。 何事も前向きの生き方が出来る人間を目標に行動していくしかないのだろうか。 向坊さんとの出会いをまた一つのきっかけにして、自分を変えていきたいと思います。
1995/7/7
この4月、受傷以来、十年ぶりに1Rで宮崎、都城から山口、宇部の友人を訪問してきました。両親と一緒です。 まず最寄りの無人駅で階段は無理なので、秘密の裏口から線路を二つ越えてプラットホームヘ上がり、鈍行で南宮崎駅へ、ガタンゴトンというあの独特のリズムが懐かしく、“うん、これだ、これだ”と感激。しかし大さな揺れが恐くて車椅子にしがみついていたので、ゆっくり景色を楽しむ余裕はなかった。 南宮崎発の寝台特急富士に乗ろうとしたところ、なんと寝台車の入り口に車椅子が入らない。外出用小型車イスだし、車内販売のワゴン車が通れるのだから大丈夫と思っていただけに、ショックでした。結局、父に寝台まで抱えてもらった。寝台ではゆったりと寝そべり、景色を見たり本を読んだりとなかなか快適、そのうち車掌さんが来て、降りる駅で駅員を手配すると言う。またまたいいぞ! 宇部駅で、迎えの友人と駅員とで車イスごとワツセワツセと長い階段を運んでくれた。 帰りは下関から乗った。改札口にいると、駅員にエレベータがあると言われた。駅裏の道路を200メートル近くも連れて行かれた。どこまで行くのかと私はすっかり疲れてしまった。こんなことなら階段を抱えてもらった方がずっと早いし、手間もかからなかっただろうに。下関では車イスの人が来るたびに、あのはるか遠くの荷物用エレベータを使わせるのだろうか。
1995/7/5
昨年11月末、「ひまわり電車」が鹿児島市内の全区間を約2時間かけて走りました。身障者の夢と希望、願いを乗せて、多くの優しさに支えられて。 この取り組みは、昨年8月、「一度でいいから市電(路面電車)に乗ってみたい・‥」と、身障者が集まって始まりました。実行委員は私を含めて当初、頚損2名、筋ジス3名、健常者のわずか数名でした。しかし会議を重ねる毎に様々な人が加わり、 協力者も増えてきました。交通事情や他県での「ひまわり電車」の調査、街頭募金を行ったり企業への賛同募金、友人への協力要請などと・・・。 最初、皆初めての経験でとても不安でした。実現できるかどうか。しかし徐々に形が整い週一度の会議が楽しみになると、表情がいきいきと輝いてきました。そして参加身障者約50名、ボランティア約150名、資金90万円はどが集まりました。さらにマスコミが「市交通局がリフトバス検討・‥」など幾度も取り上げたり、市主催「福祉ふれあいフェスティバル」への参加も勧められました。 今後、「走れ!ひまわり電車」は、毎年秋に行う予定でいます。 4年前、自宅に戻ってもベッドに寝たきりでした。ある日、気晴らしにマンションの屋上から空を見上げると、ふと、どこまでも続く大空に体中が包まれているような解放感を感じました。ゆっくりと風に流される雲をじっと見つめていると、「一度しかない人生だ。あの雲のように自由に生きたい・‥」と強い額動を感じました。その後、意欲的に情報を集め、いろいろな人に会いにいったり、催し物に参加したりしていました。また、ボランティアの方と寝台列車や飛行機、新幹線、地下鉄など多くの乗り物にチャレンジしてきました。しかし自宅から「身近な足」がなく、ジレンマを感じていたとき、知人から「ひまわり電車を走らせたい…」という話がきました。その話し合いに参加するうちに、私はハツと気づきました。「介助者がいれば車イスでも市電に乗れるんだ」と。 早速、ボランティアの方と試乗しました。すると、車内の乗客が快く手を貸してくれて、また一つ自分の世界が広がったように感じました。 会議で、一つづつ課題をクリアしていく様子は、私になんともいえない充実感を与え、勇気と希望を感じました。「社会が何をしてくれるかより、自分自身が何をやりたいのか」という気持ちを強くすることに思い当たりました。さらに私たちをサポートし、理解する健常者が1人、また1人…と増えていくことを願っています。
1995/7/6
7月4目、北海道登山から戻ってきました。 私が以前から所属している山のクラブでは、年にー度づつ車イスの人と、それ以外の障害者との登山会を行っています。どちらももう10年以上続いています。神奈川県下ほとんどの市町村が後援しています。ボランティア活動の一環としてではなく、あくまでも純粋に登山することを目的としています。一緒に行く人が、たまたま身体が不自由なだけという感覚です。登山を楽しむパートナーに他なりません。だからサポートする人をボランティアとは呼ばず、「サポート隊員」、他方を「車イス隊員」、「身障隊員」と呼びます。この登山会が有名になることを避け、長く続いてきた理由が分かる気がします。 なんと私は受傷前、サポートする側にいたのです。会の役員としてりーダーシップを取る側にいました。その私が、今度は車イスで参加する側に回りました。 初めて車イスで参加するとさは、とても複雑な心境でした。少なからず抵抗もありました。でも、大げさに言えばこの登山会に参加することが、私の社会参加の大きな第一歩であったと思っています(復職前のことでした)。 実際に参加して感じたことは、すごく悔しかったということ・‥。「何で自分は車イスに乗っているのだろう」「どうして車イスを押せなくなってしまったのだろう」私にとって歩けないのは悲しいことではなく、悔しく寂しいことでした。車イスの上でどんな顔をしてよいか分からず、途方にくれていました。でも、常連のサポータから「車イスで参加したSさんに感動した」と言われました。そう感じた人が一人いただけでも、本当に参加して良かった…!その後の力強い心の支えになりました。 私がサポータとして参加していたとき、本当に楽しかったのです。なんとあの富士山を巻尺で測ったこともありました。そうした準備や気配りは大変でしたが、障害を持つ人たちのパワー、エネルギー、感性の鋭さなど学ぶことがたくさんありました。登山とは単に山の頂きを目指すものではなく、その過程をいかに楽しむか、内面的な豊かさをどう持つかと学びました。車イスでも、多くの人の手さえあればどこにでも行けると思っていました。それが困難であればあるはどファイトが沸きました。 車イスでの参加は今年で6度目、年々「めいっぱい楽しむゾー」と気持ちの切り替えが着実にできてきたようです。身体にハンディを負ってもなお登山にチャレンジする人の姿が健常者を励まし、勇気づけ、ギブアンドテイクのパートナーになれるのです。以前、私がサポートした車イスの人たちとも、今では同じ目線で話せるようになりました。健常のときには出来なかった話もできるようになりました。 今回の「北海道登山」は、楢前山に500人体制で登る計画でした。実際は512人、5年前からチャリティーコンサートやバザーなどで資金を集め、計画してきました。やっと実現したのに、梅雨のないはずの北海道でどしゃぶりの雨、登山は中止。その分夜のすすきのに繰り出し、繁華術に車イスやつえ、装具をつけた人、白い杖の視覚障害者がウロウロ、ラーメン横町なんて車イスで渋滞していました。 車イス15回目の記念登山に、もう一度楢前山に登ろうと、転んでもくじけても、ただでは起きないファイトの持ち主が我がクラブです。 1995/7/5 追伸:夢運び人さん、あなたの心優しい通信に心の中がホッと暖まりました。真心を伝えるには行動しなくてもできると実感しました。 93年10月末、突然ロシア春夏脳炎ウイルスに侵され、当初は右足の指がわずかに動くだけで、言葉をはじめ、全身麻痺ではとんどの運動機能を失いました。5ケ月の入院後、自宅に戻り、家族、医療スタッフ、多くの友人に支えられて、今に至っています。未だ、両上肢機能は全廃状態で、日常生活は夫に全介助してもらっています。装具を使って、介助をしてもらいながら、すこしずつではありますが、歩行訓練を行っています。リハビリはOTとSTを週2回通院で受けています。 このようになってから、まだ1年9ケ月足らずなので、恵まれた環境にいるとは思っても、追い詰められた気持ちになってしまうことが多いのです。現状を真正面から認める勇気がまだまだ足りないのだと思います。ただ、今、私のまわりに、同じようにハンディを持つ仲間がいず、語り合える機会がないことに、淋しさを感じています。こちらから健常者の中に入っていくのも、ひとつだとは思うのですが、ここの土地柄もあってそうもいかず、行き詰まっていたところでした。そこに宮崎の古川さんから「はがき通信」が届いたのです。全国にたくさんの皆さんが、いらっしゃることを垣間みた思いでした。 突然のお便り、失礼いたしました。どうぞ皆さま、マイペースでお過ごしくださいますよう。 はじめまして YO(24歳、C35)の母です。昨年7月にわが家に帰宅して、暑い夏、寒い冬と1年間の生活を乗り越えることができました。 昨年8月、顔に赤い斑点?が出ました。尿か便かと取ってみましたが、ひどくなるばかり。夜になって近所の医師に往参を頼みました。家が判らず、近所の奥さんが快く車で医師を迎えに行ってくれました。その上、医師を送って薬までもらってきてくれました。 先生はご夫妻で来で下さり、注射のおかげでみるみるうちに良くなり、ほっとしました。 子供のころから住んでいるので、息子のことをよくしてくれます。今年の4月にも夕食後、間もなく食べ物が気管に入って苦しがり、慌てて、近所の酒屋さんに電話で助けを求めました。すぐ奥さんがとんできました。車椅子で押して息子を近くの医院へつれていきました。医師が自宅へ帰る直前でした。痰がとれて少し楽になったようです。「熱が出たらすぐ入院するように、肺炎になるから」と言われました。 自宅にもどり、ベッドに上がって、背中を叩き、胸を叩き、呼吸に合わせてお腹を押したりと、繰り返しているうちに、小指はどのじゃがいもが出ました。夜、11時になっていました。うれし涙がでました。酒屋さんにも、先生にも電話を入れました。 翌日、レントゲン、血液検査を受けましたが、正常でした。 ご近所の方に恵まれ、助けられ、過ごせることに感謝しています。 1995/6/1 うっとおしい梅雨をいかがお過ごしでしようか。 6月1日、主人は、年一回のバス旅行に今回もかろうじて参加できました。 「おしん」で有名な最上川を舟で下りました。エンラコラマカセの最上川舟歌も舟上で聴くとまたー段と味わい深く、ひようきんな船頭さんの語り草に思わず笑顔いっぱいの舟下りでした。 バス旅行といっても主人は現地まで往復バンの荷台に敷いた布団に寝たままの移動です。今回は、目玉が舟下りと聞き、どうしたものかと迷いました。ペーシング以外は他の人たちと同じ、車イスか寝たきりです。一人で行くわけではないし、「主人も乗ります」と言ったら、担当者はびっくり。「Mさんは乗らないだろう」と軽く考えられていたようです。私たちにすれば年1回の旅行です。チャンスを逃すなんて考えられません。 夜の体交時に寮母さんが力の入れすぎで腰を痛めて病院行き。次は尿検査でブドウ球菌が検出され、外出禁止。もうダメかと思ったら、旅行の直前に()になり、ほっとしました。ところが当日、現地に着いたらなんと川風が強く、とても寒いとのこと、しっかりと持参した冬用の防寒着の上下を着込んで、なんとか乗ることができました。 施設側は「行きません」「乗りません」と言うと、「分かりました」と言います。決して「乗りましょう」とは言いません。良く言えば「体に無理をかけないように」「体調を崩さないように」ですが、悪く言えば熱意が感じられません。 私もそこらへんの駆け引きがうまくなったと思います。旅行後、主人は体調を崩すことなく、また静かな生活に戻りました。 主人が動くことで主人に村する施設側の考えが少しづつ変わっていくような気がします。皆さんも家に篭もることなく、どんどん外へ出て周りの意識を変えてみては如何でしょうか…。
1995/6/30
通信32号でお便りをいただき、たいへん嬉しく思っています。 お便りによれば、呼吸器に不慣れな病院の対応など、本当に驚かされました。呼吸器のジャバラにかびが付くまで交換しなかったり、痰が詰まったことにも気づかないなど、信じられないことでした。お母様も礼治さんもさぞ不安と心配で心を痛めたことでしよう。 私もKに付き添って6年間、いろいろなことがありました。病室に入ると呼吸器のアラームがなっているのに、誰もKの側にいません。びっくりして駆け込むと、Kは、声にならない声で看護婦さんを呼んでいましたが、ガラスの向こうのナースステーションには届きません。30秒もアラームが鳴り続けていたのです。目の前のナースステーションには大勢の看護婦さんがいるのに、誰も気づかないのです。担当のナースは実習生、前日来たばかり、音がアラームかどうか分からなかったそうです。私の到着が遅れていたらと、考えるだけでも恐ろしく、胸の痛む思いでした。病院にいても安心出来ないと、思いました。 早く退院したい、家に帰りたいと思いましたが、どこの病院も受け入れてもらえず、たいへん困りました。入院中の大学病院の紹介でやっと訪問診療、訪問着護の病院が決まり、住宅を新築し、2年2ケ月後やっと自宅に戻ることができました。 入院中、一度も呼吸のリハビリは行われず、24時間呼吸器依存の状態で帰りました。今考えると、退院は遅くても良い、せめて10分でも15分でも自発呼吸ができてからの退院が賢明ではなかったかと痛感します。呼吸器が取れればと、必死の思いで私はいろいろと試してみましたが、Kは自力で呼吸できるようにはなりませんでした。 Gさんは、C2の損傷部位で、自発呼吸の訓練によって呼吸器を完全に外して退院されたと伺い、信じられない思いでした。人工呼吸器が24時間必要な状態での在宅生活は、心身共に疲れます。呼吸器の点検、器具の消毒、アラーム音などに気持ちが休まるときがありません。 礼治さん、どうぞお元気でいろいろなことに努力されますよう、お祈りいたします。
1995/7/8
最近、思うこと‥・ 5月13・14日に、東京・代々木で頚髄損傷者連絡会、全国総会があり、私は初めて1人でJRを利用し出席してきました。県内ぐらいですと1人で電動車イスを使いパソコンを見に行ったりしますが、泊まりでの単独外出は初めてでした。電車内では周りの人の視線が気になりますが、なれると快感に変わる!?ような気もして、結構ワクワクドキドキでした。会場では、数年前の総会にくらべ高位頚損者と呼ばれるC4・5頚損の出席がとても増えたこと・…驚きました。そして何人かの「はがき通信」の仲間とも再会することが出来、とても感激でした。 しかし、懐かしい顔と再会できるのは良いのですが、会う入会う人、皆さん積極的に目標に向かって前進しているような気がして、自分だけ療護施設という温室で、無駄な時間が過ぎているような感じを受けたのです。そして皆さんに、「山にこもっていないで、そろそろ街へ出て来いよ」とか「まだ施設にいるの?」と言われ、結構ショックでした。カーサ・ミナノに入所して3年がたち、その頃の「はがき通信」には“快適な生活”と書いたのが恥ずかしいのですが、それは単に病院の生活から比べれば・‥・だったのかもしれません。 これから先、「一生施設で暮らすのであれば、こんな良い療護施設は無いと思いますが、積極的に生きようと思っている私は(気持ちだけ)結構、ストレスが貯まるのです。そうはいっても、今は自立生活!?をするパワーも人を引きつける力もありません(私の努力が足りないのですが)気持ちばかりが、先走りしている感じです。これは一つのスランプでしょうか? このスランプを抜け出し、また何か自分の気持ちに、感じるものがあれば‥‥と思っています。 Let's get a dream. 1995/6/29 ★ 大田区福祉資源活用シンポジュウム (1995年10月1日)開催について地域にバラバラに遍在する情報を結び付け、有効に活用できる組織化を目指すユニークな企画です。大田区内外に参加を呼びかけています。関心のある方は実行委員会代表の内山幸久氏(TEL/FAX O3-3751-8885)に問い合わせて下さい。 ★ 重度四肢まひ者の就労問題研究会編:ワーキング・クオーズ(№lO)が発行されました。 特集1:WINDOWS Ver3.1を利用した知的生産活動環境 ★ ポータブルのリフター バンクーバ在住のKUさん(プロの通訳)からカタログを送っていただきました。リフトなしに手動で安全にトランスファできる装具が製品化されました。カナダドルで$400以下だそうです。車椅子の背袋に入れて運べる大きさと重量です。 ★ 車イスのための環境整備 社会の中で身障者のための環境整備はー目繚然にソフトがわかるディスプレイです。歩道投差の解消では日本は他国を抜いてトップのようです。アメリカやヨーロッパでは主要都市でもこの面は遅れています。しかし、日本では店舗や公共建築物でのスロープ設置については不十分なのは残念です。土地の狭さに関係があるようです。 全世界の福祉都市の手本になっているアメリカ・サンフランシスコ湾岸にあるバークレー市では全市のバスにリフトがついていて、羨ましい限りです。あらゆる障害者のための環境設備が完備し、重度身障者が多数通学しながら自立生活を楽しんでいます。最近亡くなったエド・ロバーツさんたちの福祉准進運動のたまものです。 日本では国民負担率が高く、個人による自由裁量の範囲が小さいために、福祉関係の環境整備は“お上“がやるものという考えがあります。それで日本では彼のような英雄が育ちませんでした。彼は「障害者だけの特殊な閉鎖的社会を作るべきではない」という原則を一生貫いています。バークレーから全米に広まったC.Ⅰ.L.運動は環境整備や自立生活に関して多くのサービスを提供するプログラムを持ち、大きな成果をあげてきました。 以前、アメリカ旅行をしたときに、そのたびに電話で介助者の派遣をC.Ⅰ.L.に要請したところ、面接に行く手間はかかったものの、短期の日本人旅行者にも介助者派遣サービスを提供してくれることが分かりました。これこそ開かれた国際感覚だと感心しました。 発展途上国では障害者が外に出るのさえ恥ずかしいことだと思われています。平成7年までの10年間にGLIP(日本人障害者の家)によってフィリピン・ルセナ市の身障者に寄贈された車イスは37台ですが、わずか15万人の地方都市で車イス希望者が年々増えているという事実には興味津々です。 ★ バッテリー 身障者の障害の程度は一人一人違うため、手動車イスと電動車イスのどんなタイプのものをどんなT.P.0.に応じて使うか、要注意です。飛行機で外国に行くとき、チェックインの際に説明すれば、手動車イスと電動車イスの両方を必需品と認定して無料で運んでくれる航空会社が多くなりました。しかし、バッテリー液の漏れには神経質ですから、クーラー・ボックスなどの収納箱をあらかじめ用窓すると搭乗の時のトラブルは少ないようです。 電動車イスの使命を制するのはバッテリーです。現在、バッテリーには自動車用とサイクルサービス用があります。自動車用というのは充電しながら同時に放電もするタイプで、鉛の量も少ないうえ、寿命も長いものです。サイクルサービス用というのはゴルフカーや電気自動車に使用されているもので、充電の後に放電、そのあと充電という具合に充放電を時間差で繰り返すので、鉛の量を多くしてあります。 車イス用にはサイクルサービス用バッテリーが本当は良いのですが、大きくて重いために自動車用バッテリーで代用する人も少なくないのが現状です。メーカーはバッテリーにわざわざ車イスのマークをつけて、特別に開発されたサイクルサービス用だと説明するのですが、実際に使ってみると安売りの自動車用と同じくらいで、すから、自治体の支給品目認定に甘えている面もあるように感じられます。 官産の慣れあいとかいう次元の問題ではありません。もう少ししっかりやってもらわないと困る、というのは、弱いバッテリーだと電動車イスが路面の低い方へ引きずられて高い方へ戻る力がなく、万一溝にはまると危険な事故になるからです。 画期的な素材ですぐれたバッテリーをつくる可能性はないのか、という質問に対して、メーカーによれば、今世紀は鉛電池を使わざるを得ないとのことです。 漏電の防止、ドライ(密閉型)バッテリーの性能向上、充電時間の短縮、液の補充など、問題点はかなり多く、素人にも管理しやすく使いやすいバッテリーの開発が待たれます。ちなみにドライ・バッテリーは内部に液がありますが密閉してあるタイプで、液の交換をする必要がないのがお年寄りに喜ばれています。しかし寿命が少し短く、通常タイプの3年に対して2年半くらいでしようか。 ★ 電動車イス わが国に始めて電動車イスがお目見えしたのは、昭和40年アメリカからの輸入車です。国産のものは昭和43年、バッテリーを積んだ簡単なものが発売されましたが、高値であったのであまり普及しなかったようです。 昭和50年でも全国の電動車イス台数は百数十台でしたが、昭和57年ごろから数社が競争でモジュール型を売り出し、急速に普及しはじめました。昭和61年には四千五百台、昭和六十二年には5600台、そして昭和63年は7500台売れています。三輪タイプ、四輪タイプ、リクライニング型など、いろいろそろってさましたが、現在許可されている最高時速は6キロメートル、出力0.6キロワット、連続走行距離20キロメートルぐらいで、少し不満です。アメリカのように13キロくらいのスピードがはしいところです。 モジュール型から一歩進んで、高速型、室内専用型、内燃機関併用の長距離走行型など、多車種が開発されるように望みたいものです。最近のドイツ製のように車軸の中心部にモーターをつけたタイプは折り畳み式で軽便です。制動装置や制御装置などについては、国産品はよくできているようですが、外国に持ち出すと繊細にできすぎているためか、故障が直しにくい欠点があります。 自治体が車イス業者に払う車イスの値段に私たちは無関心ですが、今では電動車イスの普及率は高いのでもう少し値段を下げるべきだと思われます。自治体に採用されている福祉機器の指名業者制は談合をしやすいし、値段も製品も硬直化しやすいので改めるべきです。 年間2方台も売れる電動車イスが軽自動車と同じくらい高いのでは消費者の納得は得られないでしよう。情報の公開を求めて私たちはもっと福祉制度の内容を知るべきです。 どんな国でも、身障者が車イスを使いこなし、スポーツ、買物、仕事はおろか、旅行などにも気楽に出かけられるようになった時、車イスを利用して障害を克服し、自由生活を実現したと言えるのではないでしょうか。その上、社会も身障者を差別なしに受け入れるやさしい心を醸しているということになるでしよう。年をとっても大丈夫、安心して生きて行ける、という信頼感が私たちを包んでくれる社会ができれば、これはすばらしいことです。 最先端の頚損プログラム 5月22日から3週間、バンクーバに行ってきました。昨年に引き続き、呼吸リハビリテーションと頚損医療福祉システムの調査が目的です。 前回同様、カナダBC州の先進的な状況に今回も驚きと感嘆の連続でした。この通信でもたびたび相談のある呼吸ケア、痛みや排泄管理など貴重な情報をたくさん入手しました。 訪問する先々で、「何をお手伝いしましょうか」、「できることはお手伝いします」と、貴重な情報や資料が惜しげもなくたくさん提供してくれました。「日本に帰ったら、情報を必ずシェアーして下さい」と、提供した情報は必要な人々に還元し、役立ててはしいとも言われてきました。 日本の頚揖者の現状を説明しますと、バンクーバでも以前は同じ状況だったと専門家の答が返ってきます。世界最先端と自負するバンクーバの頚損ケアシステムは、出来上がるまでに長い間いの歴史があり、自然に与えられたシステムではないと強調されました。 日本に帰る前の日、“Physical Manegement for the Quadriplegic Patient”という本を上野久仁子さんに見せてもらいました。それは「写真でみる四肢麻痺者のリハビリテーションー日常生活の自立に向けてー」(医歯薬出版、15,450円)というタイトルで日本語に翻訳されています。ハローベストをつけて車椅子の訓練、トランスフアーや膀胱直腸管理など日常生活の自立訓練が体系化された内容を紹介した本です。その本を見つけたとき、カナダには素晴らしい本があるものだと、感嘆したものでした。 本の中の若い女性の写真(日本語版で43ページ)を見せて、「それ誰だか分かりますか」と上野さん。私が首を傾げていると、「私ですよ」という。受傷後間もない、20代の若々しい上野さんでした。 さらに本の表紙に使われた車椅子の男性を指して、「その人は誰か分かります」と、また聞かれました。上野さんが私に尋ねるからには、私の知っている人に違いないが、検討もつかない。「それ、ハウさん」、「えっ、ハウさんも頚損ですか」と思わず聞き返しました。 ハウさんとは、バラプレジア協会BC支部(BCPA、会員数8千人)の代表者、カナダでも最先端というBC州の頚損医療福祉システムを作り上げてきた実力者です。多忙な日程を精力的にこなすので、約束しても会うのは容易でない人物です。今回は運良く、会議の合間に時間を割いて会って下さいました。初対面なのに窮屈さを感じさせない、温かい親しみのある紳士でした。 そうか、ハウさんは頚損か、世界最先端というBC州のシステムは頚損が中心となって作り上こげてきたのか、そのことを日本の頚損者にまず最初に伝えたいと思いました。 1980年代半ば、ベンチレータ使用の頚損者6人が地域で自立した生活をしたいという要求を出しました。ハウさんたちBCPAの後援で作られたのがグループホームのクリークビュー、最初の入居者6人中4人はその後結婚、グループホームを出て地域で生活しています。その 一人、ウォルターさんは、4年前からリハビリテーションセンターで常勤職員として働いています。最初の2年間は高位頚損のリハビリテーションプログラムのプロジェクトチームとして、2年前そのプログラムが実際に稼動すると、高位頚損専用ユニットのピアカウンセラーとして働いています。 バンクーバでもベンチレータ使用で結婚し、常勤で働くウォルターさんは例外的存在という見方もあります。しかし彼の存在は、ベンチレータ使用の頚損にとって現実的な自立の目標となっています。彼らがグループホームで生活を始めたとき、6入とも数年足らずでバタバタと死ぬに違いないと掛けまでした専門家がいたそうです。 ウォルターさんはモントリオールへ長期出張の前日、職場でお昼休みの1時間割いて、会ってくれました。インタビュー室に介助者は入れず単身、姿勢の崩れもなく、私の質問に答えてくれました。気管切開しているのに、カテーテル吸引は必要なく、排痰は上半身の前後運動と介助者の腹部庄迫で解決できるよう訓練したこと、15年間留置していた勝胱カテーテルを結婚を機会に抜去し、コンドーム方式の尿失禁対策に切り替えたこと、排尿を促進するタッピングは入浴前のみ、身体的なトラブルがないように自己管理しているということでした。 頚損による身体的トラブルを実に良くコントロールしているのは、ウォルターさんに限りません。今回私は、上野さんに笑われながら、くどいはど痛み、褥蒼、膀洗、膀胱のトラブル、姿勢保持など頚損特有の問題を聞きだそうとしましたが、みなあっさりと“なし”で片づけられました。 頚損者の自立とは、精神面や生活のみでなく、医療的な依存からも自立させることなのだと、痛感しました。日本では必発のような急性期の褥蒼もバンクーバでは稀でした。急性期のケアと自立を目標としたリハビリテーションが充実していると驚嘆する思いでした。 頚損ケアの充実ぶりは、“Management of Spinal Cord Injury”とA4版で700ページにおよぶ大著となってまとめられています。脊髄損傷というタイトルでも高位頚損に重点が置かれ、頚損の身体的精神的ケアがほぼ網羅されています。 日本ではベンチレータ依存の頚損は、リハビリの対象外にされてしまうし、病院探しも家族の仕事になっていると私が説明すると、「病院探しは専門家の仕事であり、責任」と断言されました。専門家の役割についても今回私は、たたき込まれてさたような思いがしています。 頚損者の抱える身体的精神的問題は、どんなことでも医療の専門家が受け止め、解決の方法を追究する。その取り組みの成果がベンチレータ依存の頚損者でも医療の自立、自己健康管理となって地域で自立した生活を可能にしているように感じました。 具体的な内容については次号から報告する予定です。 *今回も個性溢れた通信をたくさんいただきました。それも長編が多く、ページ数の制約でIさん、Tさんは2回に分けざるを得ませんでした。また一部カットしたり、表現を簡潔にするため短縮した通信もあります。ご了承下さい。 *5月博多でお会いしたTKさんに、パッタリと通信が途絶えた理由を伺いました。皆さんの通信があまりに立派で出しそびれていると言うのです。繰り返しになりますが、この通信が要求するのはオリジナルで生活に根ざした体験や情報です。キムさんの通信から私には生の声が聞こえてきますが、如何でしようか。それにしてもストレチヤー電動車椅子で博多の街を闊歩されたキムさんの勇気には脱帽します。超大型電動車椅子の参加で、サルツバーグ先生を博多の屋台に案内する計画は吹っ飛びましたが、夕方の稼ぎ時、予約なしに6人分の電動車椅子(キムさんのは2、3台分のスペース)を快く受け入れてくれた博多駅構内のレストラン店主にも感動しました。ちなみにキムさんがレストランで食事したのは40数年ぶりだそうです。 *車椅子で外出すると日本人は振り向くのかと、カナダ脊損協会BC支部のキムさん(女性)に質問されました。日本にとても関心があり、ぜひとも来日したいけど、車椅子のアクセスが心配だそうです。カナダのキムさんに皆さんの体験や行動を伝えたいですね。 *これから2ケ月間厳しい夏を乗り超えて、また9月下旬にお会いしましょう。
(松井)
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