は が き 通 信 | Number.30---P1 |
POST CARD CORRESPONDENCE | 1994.11.25 |
ごあいさつ 「はがき通信」もお陰で5年を過ぎました。その間、コピー印刷から郵送までほとんど担当してくれていたSさんが神経研の所内異動で他の部署に移りました。大変残念ですが、ここで深い感謝の念をお伝えいたします。 今後も皆さんの原稿をお待ちしています。
1994年11月25日 向坊弘道
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RG
◆ 私と将棋
こんにちはぁー、すっかりご無沙汰しています。さて、少し前の話です。日本将棋連盟後援による、県アマチュア将棋名人戦が行われました。その大会へ私も参加しました。家の近所に、車椅子へ乗り将棋道場を開いている人がいます。ご年配の方で過去に県大会で優勝され、全国大会へ出場された経験もあります。私は、時折、将棋の手ほどきを受けています。彼の薦めで私も大会へ参加するようになりました。師匠とは違い、普段から遊び気分で指しているところがあり、今回の結果ですが・・・。普段は師匠とよい勝負で指しているつもりです。
話は変わり、最初に書いたタイトルのことです。以前に、別な大会へ参加したとき、新聞社から取材を受けました。タイトルは新聞に載った記事の見出しです。内容を抜粋すると、「手足が不自由なRGさんが、車椅子で出場した。手作りの特製将棋盤とボランティアの学生3人に支えられ/交通事故で頚椎を/自動車のミラーや磁石付き駒/背を倒してあお向けになり口で指示・・・」です。このときの経験を“体験談”として書いてみます。
ボランティア3人と特製将棋盤大会に備えて、いつもお世話になっている大学ボランティア・サークルの方へ「将棋に詳しい人を紹介していただけないだろうか」とお願いしました。結果、男性1人と女性2人が手伝ってくれることになりました。女子学生1人以外は初めてお願いする方です。
大会当日、朝7時にボランティアの人が自宅へ来た。会場まで車で約20分ほどである。
開会式が8時半から、試合開始時刻が9時からの予定である。学生さんへ7時に自宅へ来るよう頼んでおいたが、私は早起きが苦手だ。彼らが訪れるギリギリまで、ベッドで寝ていた。慌てて身支度にとりかかる。彼らの手をかり、あごコントロール電動車椅子すへ移った。朝食は車内で軽く済ませることにして、出発まで部屋で学生さんと打ち合わせをした。電動車椅子の動かし方、将棋盤の取り付け方、排尿時の下腹部の押し方などである。私は垂直な座位が困難である。そこでなんとか寝た姿勢で将棋を指せないものか考えた。そして玩具店で売られているマジック将棋を思い出したのだ。これは磁石付きの駒とアルミ将棋盤から出来ている。不安定な場所でも将棋が楽しめるものだ。父に相談し将棋盤を作ってもらった。将棋盤は車椅子のあご部分へ簡単に取り外しができるようにしてある。
慌ただしく打ち合わせを済ませると部屋を出た。そして父が運転するリフト付き車へ乗った。車内で車椅子を固定してもらい、やっと一段落つく。いよいよ出発である。会場まで移動する間、私は過ぎていく町並みを眺めていた。そのうち様々な不安が頭に浮かんだ。
「予めハガキで申込は済ませて置いた。だが本当に出場することが出来るだろうか。開催側は、私の状態はもちろん知らないだろう。また口で指示する試合とは過去に聞いたことがない。それに今の姿勢で対局するだけのスペースが果たしてあるだろうか。試合は制限時間もあるし、学生さんとの呼吸もうまくいくのか。体力は・・・」
20分ほどで大会会場のあるビルヘ付いた。ビルの前は公園になっている。車は後部にリフトが付き観音式扉に作られている。私は降りる間にふと上空を見上げた。季節は春である。空は青く澄み切っていた。広々としてとても気持ちがいい・・・。地面に着いた。リフトから降りると、先ほどまでの不安は消えていた。◆ 受付嬢ビックリ
父と別れて、正面玄関を通り一階エレベータヘ向かった。中に車椅子が入らないと感じて、少し背中を起こして貰った。会場のある5階へ着いた。目の前が受付になっている。受付嬢がピックリしたような顔で私たちを見ていた。受付で「こんにちは、参加を申し込んでおいたGです」というと、彼女は名簿らしき物を確認すると会場内へ入って行った。開催側の人らしい背広にネクタイ姿の男性と一緒に戻ってきた。
彼は私を見て「どのようにして将棋を指すのですか」と言った。私は学生さんを見ながら言った。 「口で指示して、ボランティアの方に動かして貰うのです」それを聞くと彼は一度会場内へと入って行った。しばらくすると、再び私たちのもとへやってきて右手を差し出し「どうぞ」と言った。 ◆ いざ会場へ
会場へ入ると、すでに席に着いていた参加者の視線を一斉にあびた。彼は、一番後ろ窓際から2番目の席へ誘導して、「後ろの方で対局できるように、席を替えましたので」と言った。すでに全員の対戦組み合わせと座席は決められていたようである。私は背もたれを倒してもらい、ゆっくりと落ちついてから場内を見渡した。会場は思ったより広い。前の方から4人一組で座れる長机が数列並べてある。後には見学者用なのか椅子が置いてあるが、かなり余祈がある。のちの説明で参加者は百名以上だと分かった。
開会式が始まった。ルールは予選リーグと決勝トーナメントに別れる。4人一組で行うリーグ戦で勝ち残った者がトーナメント戦へと進むことができる。呵々意識の間、私たちは試合の準備へ取り掛かった。学生さんが車椅子上へ将棋盤を取り付け、駒を並べた。一番将棋に詳しい男子学生が私の横で相手に向かい合って座る。次に詳しい人が後ろから車椅子上の駒を動かす。もう一人が身体の介助をする。それぞれの位置ですべて準備は整った。学生(男)さんが「だんだん緊張してきましたよぉ」と、右手でガッツポーズを作って「頑張って下さいね。ぜひ勝って下さい」と言った。
試合開始の合図を待つだけとなった。私たち4人は、対戦相手に向かって「よろしくお願いします」と言った。相手は30代後半、サラリーマンには見えなかった。とても話好きなのか、知り合いなのか前の人と良く話をされていた。過去に何度か出場したことがあるらしい。とても場慣れしているように感じた。 ◆ 試合開始
主催者が「試合を始めて下さい」と合図した。相手が振り駒を投げる前に「表」か「裏」かと聞いてきた。先手と後手を決めるためである。私は「表」と告げ、先手と決まる。いよいよ第一手を指すときがきた。心臓の鼓動が高鳴る。私は相手に聞き取れるようにハツキリとした口調で「七六歩」と告げた。学生(女)さんが「ここですね」と確かめるように車椅子上の駒を動かした。それを確認しながら学生(男)さんが本盤上の駒を動かした。
この開始後の数手は、とても心が弾み童心に帰ってワクワクとするものである。受け手によっていろいろと展開が想像できるからだ。また相手の力がある程度分かってくるのである。他の人もきっと同じ気持ちであろう。一手目を指すと、相手はほぼノータイムで「三四歩」と返す。互いに角道を開けた格好である。三手目「二六歩」と指し、続いて四手、五手、六手・・・。私の居飛車に対して相手は振り飛車である。中盤はほぼ互角の勝負であった。しかし終盤、相手の玉陣をなかなか攻めきることができなかった。その結果、第一戦を勝利で飾ることはできなかった。
一戦目が終わると、急に気が抜けた。手伝ってくれた学生さんはさすがにガッカリした様子である。私も多少気落ちがしていた。だが、まだ終わったわけではない。二人目との対戦が控えているからだ。次の試合で勝つことができたら、決勝トーナメントへ進める可能性は残されている。
二人目の相手はかなり若い(男)ようだ。私は気持ちを切り替えてさっそく二戦目に備えた。再び試合開始である。二戦目も運良く先手と決まった。今度は余裕があるように感じた。盤上全体が良く観えているような気がするのだ。指し手がスムーズに進む。中盤になっても余裕があった。相手が弱かったということもあるだろう。快勝することができた。学生(男)さんが興奮した様子で「もし次の試合で勝ったら、決勝トーナメントへ進むことができますよ!」と励ました。私たちはゆっくりする暇もなく次の準備へとりかかった。
三戦目も私の先手である。相手は、一戦目と同じく飛車を振ってきた。中盤を過ぎた頃である。不意に後ろからカメラのフラッシュらしき光とシャッターをきる音が聞こえてきた。新聞社の人なのか・・・。またこの時間帯は先に試合を終えた参加者が私たちの回りに集まってきた。小学生だろうか、顔をのぞき込むようにして見た子供もいる。私は集中力を失った。 ◆ 戦い終って
見学に来ていた人は、将棋を読み上げる度に特製盤や本盤上をじっと見つめている。すでに終盤である。終局も近い。互いに持ち時間は使いきっていた。この先は一手、30秒以内で指さなければ失格となるのだ。形勢はやや相手が有利であるが、まだ勝てるチャンスは残されている。
互いに、持駒をぶつけては取るという繰り返しである。私は、周囲の熱気、30秒という時間、勝ちたいというプレッシャーと必死に戦った。頭の中はすでに真空状態である。心臓の鼓動がやたら大きくなっているような気がする。あっという間に終局である。その結果、決勝トーナメントヘ進むことはできなかった。見学している人たは、互いに「さっきの手はこうすれば、とか、ここは・・・」と様々に雑談している。学生(男)さんが、私に手のひらを見せて。「見て、汁かいてますよぉ!うー惜しかったですねぇ。最後はぐっと、カが入りましたよぉ。僕も勉強して大会に参加しようかな」、別な学生(女)さんは「最後の方は、真剣な目つきになっていてスッゴイ怖い顔してましたよ・・・」と云った。 参加して、自分のペースで試合を進めることの難しさと力不足を痛感した。 1994/9/10
読むのも拒絶していたのに
KSはがき通信の皆さん、こんにちは。朝夕はもう寒いぐらいになりました。季節の変わり目ですが、皆さん元気でがんばっていることと思います。
この夏の酷暑の影響でしようか、体が暑さに慣れてしまって25度位でも涼しく感じますし、散車椅子(世間一般では散歩)の途中日陰で休んでいる時、そよ風なのに寒くなります。私たちの体調も、早く冬仕度しなければいけませんね。
今回は私のぼやきを、少しだけ聞いて下さい。 一日の多くをベッドで過ごしていますので、どうしても新聞を読んだり、テレビを見たりする時間が多くなりますが、最近は見るものすべてに、何かにつけて批判的になったり、いじけたものの見方をします。経済や裁判などは、どんなに悪態をついても庶民一般似たような考えでしょうからいいのですが。テレビを見ているとあまりにくだらない番組に腹が立ち、芸のない芸能人に腹が立ち、それらと一緒に愛想笑いをしている観客に腹が立ちます。そのためにテレビのチャンネルをしょっちゅう換えますが、このチャンネル換えが大変です。ECS(環境制御装置)に接続していますが、順方向にしか接続していないので、チャンネル一周するのに20回呼気スイッチを吸います。これがピッピッピと耳障りなんですよね。政治、芸能、スポーツと腹立たしいものばかりです。そして時々自分のいじけたような、ひがんだような考え方を反省します。 今年のはじめに計画して苦節8ヶ月、やっとパソコンを購入しました。テレビでも宣伝していますNECの98マルチシリーズです。こんなに期間がかかるとは思っていませんでした。でも高価なものですから、後で後悔しないようにと、雑誌やカタログを見てかなり悩みました。 そして私たちにはいろいろ制約がありますから、なにかと時間がかかるのは仕方ありませんよね。特に機器のことでは、キーボードのシフト機能やマウスのことで悩んでいましたが、この通信を通して、佐賀の野口さんをはじめとして、いろいろな方に情報を頂き助かりました。この場を借りてお礼を申し上げます。 今はまだ勉強することが多いので、パソコンの前では「はーはー」と息苦しくなりながらも疲れるまでしています。これがまたすぐ疲れちゃいまして、体調にもよりますが、2〜3時間位しか持ちません。でも少しは体の訓練になっているかもしれません。
はがき通信の発行が5年たつそうですが、多くの方の、努力と協力のたまものと感謝せずにおられません。私も参加させていただいて3年位たちます。受傷してまだ不安定な頃、この通信を知りました。最初は、読むことも拒絶していましたが、少しずついろいろな方の話に励まされたように思います。今ではしょうもない話ではありますが時々投稿しています。今後も長く続きますように!
寮さも増してきます。お身体には充分気をつけてお過ごし下さい。 それではまた・・・さようなら 1994/10/17
車いす一人のさぴしさを感じる中で
HS公務員として復職してから2年近く経つのに、大勢の職員と一緒に入庁するとき、全く抵抗を感じないという日はありません。緊張はしなくなりましたけれど、やはり視線は感じますし、車いすは私一人という心細さがどこかで抜けません。朝は貧血が強いのでとてもすぐには車いすに乗れず、出勤の1時間は前に起きてベッドを起こして準備します。そんなこともあり、毎朝一度は「今日は休もうカナ」という思いが頭をかすめます。今日も一日がんばろうなどと思わず、どうってことないと思うことにしています。
それでも自分の職場のデスクにつくとホッとひと息。仕事は以前からの慣れた仕事なので、充分リラックスしながらマイペースでやっています。課の庶務的な仕事で、各自の仕事分担が分かれているので、休んでも同じ係りの人に余り迷惑をかけずに済みます。ただ、仕事量がこなせないし、いつ体調をくずすかわからないので、時間がある時に先へ先へと進めることにしています。この辺は仕事を知っている強みでしようか。忙しくてパニックになることもありますが、暇で時間を持て余す方がつらくて・・・。とにかく車いすに長時間座っているだけで疲れるのだから、何もしないでいるのが一番つらい!そういう時の方がどういう訳か具合が悪くなります。
午後の3時を過ぎると疲労がたまってきて、毎日万年疲労が抜けません。残業までしている頚損の人もいると思いますが、私には午前8時半から午後5時までの勤務時間が精いっぱい!今は雑用がないし、外へ出たり、他の課へ行ったり、息を抜ける場所がない分しんどくなってしまいました(疲れるとトイレへ行くことにしています。18階の身障トイレは私しか使わないので、臭わないし静かできれいです。広いので体操もできます)。
課の人、係りの人はみんなやさしくていい人たちばかりですが、上記にも書いたように車いす一人の心細さというか、さびしさを些細なことでたくさん感じます。何気ない会話や談笑に入っていけないことが往々にしてあります。自分が健常だったら、きっと気にも留めず聞き流せたでしょう。それに職場の上司、同僚とのコミュニケーションというのは、仕事以外の親睦(飲みに行く、有志で一緒にレクに行くetc・・・)でより深められるということを痛感します。職場の行事やレク、旅行も参加できないことが多いし・・・。正直言ってつまらないですよね。そんなことどうってことないことなのでしょう。仕方ないことだし、そんなことでいちいち落ち込んでいたら身が持たないのはわかっているのに、何か一人取り残されたような、仲間に入って行けないさびしさを感じます。毎日一度はそんな瞬間(とき)があります。つきつめて考えてしまうと、「歩けないことのさびしさ」につながります。
仕事をしたくてもできない、職がないという頚損者はたくさんいると思います。そのためもどかしい思いをなさっている方もいるでしよう。ただ、いくら職場が給料をもらうための集団だと言っても、人間関係が和気あいあいとして楽しいにこしたことはありません。仕事がある私は本当に恵まれていると思います。でも、車椅子になって通勤する今、「お金じゃない。お金だけではない」とつくづく痛感します。私のレベルがもっと良ければまた違うのでしようが、身体的にギリギリのところで健常者の中で勤務していると、目に見えないストレスが塵も積もるようにたまる毎日です。 1994/10/24
近況
NT前回、「カナダBC州のレポート」に関する私の感想を掲載していただき恐縮しました。あれだけ読むと、私が終始批判的であるように見えますが、あの前には著者たちの活動が眩しいとちゃんとフォローしている部分もありますので、はがき通信の読者のために悪しからず。しかしそういう部分を削らずにはいられないところが誠実さなのでしょう。
また、村松さんのご指摘も貴重なものに思えました。日本の障害者たちも次第に足もとを見つめないわけにはいかなくなるでしょう。
ところで、前回「障害者の文学」のことを書いたら、さっそく中嶋輝洋子さんから情報を寄せてもらいました。さすがは「はがき通信」のネットワークですね。ありがとうございました。 また9/23には福岡の清家さんが遊びに来て、ハッパをかけてくれました。お返しに10/16には、私が彼を訪ねました。当日は台湾からの留学生でポリオの羅さんや広島のケイソン細川辰正さんともお会いすることができ、楽しい一日でした。 こちらは「ペン人」22号(文芸同人誌)の編集中です。不一 1994/10/25
追伸:10月24日には、向坊さんが長崎へ行く途中に寄ってくれました。エネルギッシュな介護人さんとともにまたぞろハッパをかけられてしまいました。
サッカー観戦についてのレポート
福岡県 夢運び人暑かった夏も過ぎ、コスモス咲く秋になったかと思えば、冬をけ前にしている今日この頃ですが、皆様元気でお過ごしでしょうか。 今回は、Jを含めたサッカー観戦について書きます。
Jリーグの場合、全国的に人気があるチームと地元だけの人気チームがあり、中でも読売ヴェルディやアンチヴェルディの代表である鹿島アントラーズの人気は、群を抜くものがあります。どこの会場の試合でもチケットの入手は困難を究め、地元の人ですら手に入らず、ヴェルディのチケットは10倍ものプレミアがつき、ダフ屋等が売っていて、チケット欲しさにいつ事件が起こってもいいような状態にあります。十代の若者、特に女性に人気があるようです。アントラーズに関しても、鹿島に住んでいても手に入らないほどです。先の2チームはテレビでも視聴率が稼げますので、大抵の試合はテレビ放送も同時に行われています。
▲チケット Jリーグを観戦しようと思う場合、一番大事なものとして、チケットがあります。チケットさえあれば、たとえ車椅子であっても帰れとかはいえません。チケットはプレイガイドで並んで買うか、電話予約するしかなく、発売日は大抵、日曜日の朝10時からで、学生が買い易くしてあります。プレイガイドで並んで買う場合、人気チームともなれば整理券が渡され、その順に買えるのですが、番号が大きい場合、売り切れも考えられます。私の知人が人気チームのチケットを買おうとした際、整理券番号が54番目で、3時間近くも並んだのに、前から5番目で売り切れて買えなかったこともあります。人気チームの場合、相当な覚悟をして買わなければなりません。電話予約の場合、店頭と同時発売なので、発売時間の5分前ぐらいからかけ続け、2時間以内につながればいい方といえましょう。一人4枚までとかで、予約番号9ケタを控え、予約日から数日以内にプレイガイドヘ行かなければ、自動的にキャンセルされます。 ▲駐車場 どこの会場へ行ったとしても駐車場はまずありませんので、そのつもりでいかなければなりません。少しぐらい遠くても車が置けるところであれば、そこにまず車を置き、タクシーを拾い、会場へ向かうといいでしょう。車椅子の場合、係員に車椅子ですからといって、会場のすぐ前で車椅子と人だけまず降ろし、そこから車をどこかに置きに行くのがベストですが、広島のような会場は、一本道ですので、7〜8kmも混み合うとのことで、それなりの心積もりが必要です。チケットを手に入れたら、試合時間よりも2〜3時間早めに会場に着かなければ、試合観戦できなくなる場合も出てきます。 ▲トイレ 大抵の会場は新しくできた会場ですので、あるにはありますが、車椅子専用となると、ない場合があります。事前に会場へ電話で問い合わせることです。試合が始まると動けなくなる場合がありますので、直前に行くことがいいでしよう。 ▲どのチームの応援か 指定席はなく、早いもの順ですので、自分が応援するチームがどちらの側か知っておくことが必要です。どちらでもなければ、係員の誘導に従えばいいと思っています。以前は、車椅子の身障者は招待していたチームもあったようですが、車椅子があまりにも増え過ぎ、安全が確保できなくなったこともあり、招待は行われていないと思った方がよろしいでしょう。車椅子の客だけが観客ではないということです。小さな会場で、あまり人気のないチームの場合、観客通路ではないところで観戦できる場合もあります。大きな会湯の場合、何万人もの観客が来、係員はその対応に追われていますので、車椅子であっても必ずしも特別待遇で対処してくれるとは限りません。早め早めに会場に入り、運を天に任せるしかないでしよう。雨の場合の雨具はいつも用意しておくことです。
JリーグよりもJを目指しているJFLの場合、ファンサービスが盛んです。JFLの前売券は、Jの3分の1ぐらいしかしませんので、無理のない程度としてJFLをお勧めいたします。「はがき通信」のサッカーファンの皆様、どしどしサッカー観戦に行きましよう。お元気で。 1994/10/30
地域ケア・シンポジウムで講演して
T体験者の立場から 先日、10月29日(土)に、「米原町健康まつり」の一貫として、地域ケア・シンポジウムが行われました。『支えあう介護』というテーマで、司会・助言者に長浜保健所長が、またシンポジストとしては、「開業医の立場から」「介助者の立場から」「患者の立場から」「保健婦の立場から」、それぞれ意見発表がありました。 僕も「患者の立場から障害を乗り越えて」というテーマで意見を述べる機会を与えられました。やはり障害者自身の生の声ということもあってか、一生懸命に聞いて下さり、涙を流して下さった人もおられたようでした。また、舞台から降りる僕の側まで見ず知らずの方が何人も駆け寄ってきて、『頑張って下さい』と励まして下さいました。次のものは、今回意見発表しました原稿です。 僕は平成元年7月7日の深夜に、カルチャーセンターの裏の田んぼに誤って、自転車のままで飛び込み、頸髄の第5・6・7番のところを損傷してしまい、長浜赤十字病院で1年10ヶ月もの長期の入院生活を送りました。 手術の前に主治医の先生から病状や今後の僕の身体の状態の説明を受けまして、血の気が引いていくのをはっきりと覚えました。この時には、もう二度と自分の足で大地を踏みしめることができないのだ、他人の手を借りなければ何一つとして行うことができないのだということが、頭では理解できていても、これ程きついとは考えてもいませんでした。今日の僕があるのは寺院に生まれ心の支えがあったこと、家族や親戚の者や村の方々や病院関係の方々など有縁の人々の励ましがあったからこそと思います。 先ず住宅改造などにつきましては、病院の医療相談室の先生やリハビリの先生方が親切に相談にのってくださり、具体的な改造方法や、町役場への補助金申請の方法などをいろいろと教えていただくことができました。スロープや本堂との段差解消リフトの設置、渡り廊下、便所、お風呂の改造をしました。また、車椅子のまま乗り降りのできるワゴン車や入浴用リフト、電動車椅子、手動式車椅子などの購入をし、保健所の先生のお世話で床上式移動リフトをお借りすることもできました。
そして家族が僕の看病のため、疲れて病に伏してしまった時など、役場の福祉課の方や日赤病院の相談室の先生のお世話で、今津にあります療護施設「清湖園」へ2度も入所しました。また、入所中には心配して日赤病院のリハビリの先生や相談室の先生が清湖園までわざわざ様子を見に来て下さいました。
また日赤病院の訪問看護を、2週間に1度の割合で受けております。家でももちろんお風呂に入れて貰っていますが、2週間に1度、看護婦さんが来て下さり、血圧測定をしたり、褥瘡ができていないかを調べたり、身体全体をよく観察し、適切な処置をして下さいます。お風呂にも入れて下さいますので、安心して日暮らしをし、来て下さる日を首を長くして待っています。 このように相談の窓口としては、病院・役場・保健所の方々が、生活全般に渡って心の支えになって下さいましたし、村の人々の励ましも僕の自立に大きな影響を与えてくれました。これらの積み重ねにより、自分に厳しく前向きに生きていこうと思うようになり、次第に社会参加もできるようになりました。今では村の祭りや会議に参加したり、檀家へのお参りをしたり、米原町内外のさまざまなイベントなどにも積極的に参加しています。家の中ではワープロを打ったり、少しずづですがいろんなことに挑戦しています。 次に、困ることとしては、腕にカがないために、自分一人で車椅子等に乗り移ることができないことです。手動式車椅子では、畳の上の移動やスロープや坂を上がったり下ったりすることがしにくく、手首を使うために傷が絶えません。
町役場や郵便局、銀行、スーバー等へ出かけますが、スロープの手前に物が置いてあることがよくあります。また、車道から歩道に上がるとき、段差がきつくて上がれない所がありますし、四つ角のところの歩道を曲がる時には、車椅子のハンドルを取られてしまうことがしばしばあります。
道路を横断する時に特に注意をしておりますが、先日も左から来た車が止まってくれましたので、横断させてもらおうと思ったのですが、右から来る車は一向にとまってくれません。左側の車が5〜6台止まって、やっと右側からの車も止まってくれましたので、横断させてもらうことができました。
今年の3月に検討委員会の中垣委員長から知事に対して、検討結果を取りまとめた『住みよい福祉の町づくりの推進に関する報告』が提出されましたので、もうすぐ『県・住みよい福祉の町づくり条例』ができると思います。スーパーの玄関は自動ドアではありませんし、町役場の玄関は外は自動ドアですが、内はそうでないため、誰かに開けてもらわなければなりません。今度できる米原中学校にはエレベーターが設置されるそうですが、駅やスーパーの2階へは、エレベーターがないために行ったことがありません。
全国の高位頚髄損傷者の交流誌『ハガキ通信』や県脊髄損傷者協会の仲間に入れてもらっておりますが、同じ一級障害者といっても車椅子に来ってバスケットポールをしたり車の運転ができる人たちと僕とでは、悩みが異なるのは当然だと思います。頚髄損傷者は「特級障害者」とでもいうべきだと思います。
以上、僕の経験や日頃感じている事をお話しさせていただきましたが、障害者だからといって閉じこもるのではなく、どんどん積極的に外へ出て社会参加すべきだと思います。そうした中から、お互いの立場への思いやりや気配りができ、住みよい福祉のまちづくりができるのではないかと思います。 1994/11/4
ハラヘリハラヘリ
ナカジュニア唐突ですがおいらひじょうによくハラがへるのだ。 おいらはケイソンの人たちとの交流がはとんどないので他の人のことは分からないけど、とにかくよくハラがへる。まあ食欲がないよりは良いかもしれないけど食い過ぎも良くないのではないか。 運動をしているわけでもない(たいして動かすところがないから)、一日中本を読んでいても、テレビを見ていても、寝ていてもハラがへる。今まで何回減量に挑戦してきたことか。しかしそのたびに低血糖?状態になり、我を失い、気づいたときにはお菓子を食いすぎ気持ちが悪くなっているのだ。
しかし大袈裟にいって、酷だ、酷なのだ、数少ない楽しみの一つの食事をおいらからとってしまったら何を楽しみに生きていけばいいのだ!(握りこぶしを作りドンッと机を叩きたいところだができないのでマウススティックでポコンと机を叩く)、たしかにおいらはもう少しで車椅子にお尻が入らなくなりそうだし、1年前に体重を計ったとき74キロだったから今はもっとあるだろうしハッキリ云ってデブだ。しかしおいらを世話してくれる回りの人のことも考えなければならない。けれどおいらの意志に反してどうしても、どうしてもハラが減ってしまう。おいらはどうしたらいいのだ。誰か、誰か教えて下さい。
先日入院していたときに知り合ったS君のお母さんから電話があり、その話になった。おいらは食欲がありすぎて太ってしまって困っているというと、お母さんは、「うちの子は太らなすぎて困っているのですよ。どうしたら良いものでしょうか」と逆に相談されてしまった。実際に彼はおいらの半分くらいしか体重がなく、脂肪が少ないせいかしょっちゅういたるところに床ずれができてしまい入退院を繰り返し現在も入院している。それを聞いて彼にくらべたらおいらはなんて幸せなやつなんだろう。今まで床ずれはできたことはないし、もちろん床ずれで人院したこともない。彼に比べたらおいらの悩みなんて(上を向き涙がこぼれるのをこらえた)、電話を切った後、自責の念にかられた。
おいらは決めたのだ。これから少しだけ体重を落とそう。それにはただ食事の量を減らすだけでなく、食事を上回る楽しみ、寝食惜しんで、あつく熱中できるもの、刺激のある楽しみを見つけるのだ!しかしそれを思い続けて何年になるだろうか。光陰矢のごとし、おいらもずいぶん年を取ってしまったものだ(といってもおいらはまだ20代前半なのだ)、今年はもう残り少ないから、来年こそナニかやったるで、と内に秘めつつ今日も夕めしを食いすぎて苦しんでしまったのであった。
初めての東京へ(1)
NF晴海で開催された福祉機器展へ10月27日行ってきました。 障害を持ってから一人で飛行機に乗るのも初めての経験で、まして東京へ行くのも初めてのことでした。 東京行きを決心したのは、10月7〜8日に滋賀県で開催されたテクニカルエイド研究フォーラムへ参加したのがきっかけでした。 滋賀県で福祉機器アドバイザーの高椅洋子さんから「あなたの車イスは身体にフィットしてないから福祉機器展へ行って見てこられるといいですよ」と声を掛けていただきました。いろいろと話を聞いているうちに好奇心は湧いてくるし何としても行きたいと思い立ち、一週間後にはホテルと飛行機のチケットを予約していました。 とは言っても不安がありました。空港から会場へ、会場からホテルへの交通手段はどうしようかと思い、誠に突然と思いつつも松井和子さんに相談の電話をしたのが10月17日でした。 松井さんから小野誠さんや高橋正彦さんを紹介していただき、東京での交通手段やボランティアについてお願いできないかと相談したり、松井さんが(福祉機器展に行くという)藤木さんに相談して下さり、20日藤木さんと連絡が取れ、前日藤木さんの自宅へ泊めて下さることになり、交通手段も分かりやすく丁寧に教えていただきました。 とりあえず交通手段のことは解決しましたが、不安な気持ちのまま出発の日を迎えました。当日の朝は少し寒かったこともあり、厚着をして、それに使い捨てのカイロを両足首と両膝へ2個ずつと骨盤のことろへ1個ずつ付けていざ空港へと向かいました。 (この厚着とカイロがハプニングの元になろうとは・・・)次号へつづく 1994/11/10
自己紹介
横浜市 HS皆様、初めまして。新聞の医療ルネッサンス欄で「はがき通信」のことを知り、編集部のご厚意でバックナンバーを送っていただき、拝見いたしました。
私は昭和2年生まれで67歳、自営業で電気保安管理の仕事をしていましたが、平成5年7月自宅で高い所の物を取ろうとして椅子から転倒して受傷、C4レベルの頚髄損傷で5年9月第3〜7頚椎弓切除十後側方固定手術を受け、1年余りの病院生活も終わり、現在自宅療養中です。
当初、医者からあなたは一生寝たきりでしょうと云われて、ー時は失意のどん底に突き落とされた思いで、このまま死んでしまいたいと考えたこともありましたが、医者の云うことは頚揖に対する一般的な、今までの学説でものを云っているのであって、本当の人間の体内のことは分からないのではないかと思う。まま奇跡ということもあるのだから、とにかくやれることはなんでもやって一生懸命頑張ってみようと決心、リハビリテーション並びに自主トレーニングに歯を食いしばって励んだ結果、退院時には車椅子につかまって立てるようになり、思うように動かない手足をフルに活用して危なかしい足どりで、ヨチヨチ歩きができるまでになりました。今は一歩進めて杖で歩く練習をしています。
しかし帰宅してからの体調は思うにまかせず、月日が経つに従って、手足の痺れや手足の指の変形、膝、腰、腕、肩などの疼痛及び痙性が一段と強くなり、機能低下が感じられるようになりました。
医者に相談してもあなたは一生寝たきりだと云われたのがこれだけ回復したのだから良い方じゃないですかと云うくらいで、こちらのいろいろな疑問に対して明快な回答が得られず、自分でももう少し何とかならないものかと毎日苦しみ悩んでいます。
このようなわけで、皆様方との交流を通じてより多くの情報と良きアドバイスをいただけたらと思っています。是非お仲間に入れていただきたくよろしくお願いいたします。
1994/11/9
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