は が き 通 信 Number.25−P2 前ページへ
POST CARD CORRESPONDENCE 1994.1.25


広報部たより

麩沢孝

新年、明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

◆ 頚髄損傷者連絡会・岐阜支部発足


昨年の12月のはじめころ、突然「夢旅人」という一冊の本が送られてきました。表紙にはモノクロではありますが、とてもきれいな絵があり、小さく頚髄損傷者連絡会・岐阜支部機関誌と書かれていました。岐阜支部設立にむけてUさんが動いていたのは知っていましたが、こんなに早く会が発足し、こんなに立派な機関誌が出来るなんて驚きでした。
内容にしても、会員の声、福祉関係の情報や施設紹介などなど、第一号とは思えないほど立派なもので、女性の会員の方や介助者の声もあり、今までの障害者団体の機関誌とは違った面もありました。

頚髄損傷者連絡会は全国に、大阪、京都など数力所支部があります。大阪や京都など大都市という事もあり会員(頚損者)の数も多く、交通機関も発達しているので会員同士の交流もある程度簡単にいきますが、最近では地方の県でも支部が発足し、その地域、地域での、それぞれの課題に頚髄損傷という障害を持ちながらもみんなカを合わせ頑張っています。関東でも東京・神奈川はもちろん、栃木でも支部が出来、今年は栃木で全国総会の予定です。でもこう考えると頚損者の数ではなく、先頭に立ってみんなを引っ張っていく人と、みんなの熱意と努力かなと思います。「夢旅人」にも書いてありましたが、岐阜県と言えば山間部が多く冬は雪に閉ざされる地方もあるそうです。このような所で頚損者を一つにまとめた、Uさんの統率カに「はがき通信」広報部長の私とすれば、爪のアカでも煎じて飲みたいくらいですよ。ほんとうに・・・
私達、障害者の中には、このような団体活動を嫌い、自分一人だけで情報を集め生活している方もたくさんいます。私も沢渡温泉病院入院中の時も何人かの患者に、頚損連絡会を問わず色々な障害者団体を紹介したり、入会を進めたりもしました。しかしそれぞれ、性別・年齢・受傷原因など違うように、自分の障害に対する考えもまったく違うもので、あまり興味を示さない人も、少なくありません。私自身も受傷当時は、テレビや新聞などで障害者が積極的に活動しているのを見ても“自分より状態の良い人だから・・・”としか感じなく、自分の苦しみや辛さは、自分しかわからないと思っていました。でも、頚髄損傷者連絡会に入会し、受傷歴のながい先輩?達が、障害を持つ本人しかわからない事など相談にのってくれ、私にとって障害者団体の参加は現在の生活になくてはならない物となっています。

「はがき通信」を始め、このような障害者の活動が、何年も家や施設に閉じ込もりきりの障害者の、少しでもの社会参加や、生活の質につながればと思います。

これからの「頚髄損傷者連絡会・岐阜支部」の活躍に期待いたします。

頚損者連絡会岐阜事務局の連絡先
〒509ー02
岐阜県可児市下恵土963−1
       モンシャトー可児AlO2(上村様方)


ブラジル訪問記その3

向坊弘道


泊まった奥先生の家で浣腸による排便をしてもらい、昼頃、天気があまりにいいので散歩にでてみようかということになって、私の車イスを今井先生が押してくれました。
大会会場のあるサンジョゼ市は人口20万人くらいの地方都市で、サンパウロ市から車で2時間です。ひじょうに町並みがきれいで、計画的な都市建設が進められた街のように感じられました。

ブラジルは今のところ、たいへん汚職と犯罪が多くて、困っているようです。しかし、汚職があってなおかつ、これだけ立派なのですから、汚職がなければ、1億5000万人の人口を誇るブラジルはたいへんな進歩をとげるだろう、と思いました。日本は安閑としていると、こういう国から追い越されるかもしれません。
日系人たちは、ブラジル社会の中でまじめに働き、出世した人が多いのですが、梶原さんという漁業会社をしている人が歓迎会に呼んでくれたので、翌日の講演のことが心配でしたが出席しました。
私もカラオケで一曲「北国の春」を歌いました。歌あり、踊りあり、酒あり、ダンスあり、料理は焼き肉が中心でした。日本科理のチラシ寿司、鉄火巻きなども出され、私はマグロの入った鉄火巻きを久しぶりにむさぼるように食べました。

今度のブラジルの旅行ではコンビーといって、フォルクスワーゲンのボンゴタイプの車がたいへん役に立ちました。車イスに乗ったまま車内に入り、目的地に行けます。寝るときは必ずボーイスカウト用のエアマットに体を乗せて休みました。これがなんといっても旅行では床ズレをつくらずにもっとも安眠できる方法です。
6月5日、いよいよ身障者大会の日がやってきました。朝10時から始まるというので、9時半からコンビーに乗って会場に行ってみると、たくさんの人が集まっていて、盛んにビデオや写真を撮っていました。
私はポルトガル語で講演する時間も迫っており、発音がたいへん気になりましたが、幸いに今井先生の奥さんのマーシャさんを見かけましたので、しばらく発音の練習をみてくれるように頼むと、喜んで引き受けてくれました。
会場の体育館に女性の市長と秘書、その他市の重要メンバーが到着し、壇上に並んだので、私も間もなく車イスで壇上に上がりました。
壇上にはアミダ仏の絵像が掛かっていて、参加者は次々に花を捧げ、仏教式に焼香をして自分の席に戻っておりました。
式典は順調に進み、重奏な音楽が流れた後、アルファベットで書いた賛仏偈をみんなで読経しました。この讃仏偈は大無量需経の中に載っている美しい詩で、「あなたを救うために私は毒の中に沈もうとも、いといはしない」というアミダ仏の力強い誓いが述べられていて、何度となえても最後のところは涙が出そうになってきます。
身障者大会は市長の挨拶が終わり、いよいよ緊張のうちに私のポルトガル語の講演が始まりました。私の「甦る人生」という本に基づいて約30分間話しました。人生で多くの困難に直面し、アミダさまに導かれてそれらを克服していく内容が非常に参加者の心を打ったようでした。
講演の後、嵐のような拍手に迎えられて壇を降りました。私も目が覚めた思いでしたが、みなさんに聞いてみると、発音は非常によくできていて分かりやすかった、ということで、胸をなで下ろしました。
たった30分間しゃべるために、半年間も勉強し、30時間以上も旅行して来ましたが、こういうふうにみんなに喜ばれて本当によかったな!と感激しました。私の体験が参加者の役に立つということはなんという幸せでしょう。

朝から小雨が降っていましたが、昼頃にはじゃんじゃん降りになりました。もし天気が良ければ、800人くらいは集まるのではないかという予測もあっただけに、残念な雨でした。
午後にはゲームなどがあり、みんなで楽しんで5時ごろ散会しました。体育館の中に渦巻く友情と心のふれあいは末永くかれらの間で伝えられるでしょう。一度脳梗塞で倒れた日本人の坊さんのおかげでここまで盛大になった身障者大会は、21世紀に向かって宗教というのはどうあるべきか、ということに対する答を出しているように思われます。
やはり、社会の福祉のために、少しづつでもみんなで力を出し合って行こうというのが宗教の根本ではなかろうか、と思われます。そういう心の動きを通じてこそ、社会は、心豊かになり、住みやすくなってゆくことでしょう。(終)


海外情報その5、米国高位頚髄損傷の実態

HK


『高位頚髄損傷の長期療養の展望』ゲール・ホワイトネック編著

高位頚髄損者のケアは、急性期のケアをクリアして退院のためのリハビリを受けるということだけで、特別のプログラムの成功と不成功が決まるわけではない。本当に成功したかどうかは病的状態、死亡率そして退院後の生活の質による。ここではこの数年特殊のプログラムで治療した高位頚損者の長期の結果を調べ、将来この結果に影響を与えるものを推察することである。
高位頚損者を組織的に評価する機会を得たのは、障害者とリハビリテーションに関するナショナル・インスティチューションから、この本を準備するのに協力した高位頚損者独特の3つのプログラムヘの助成金があったからである。3つのセンターに以前いたこの長期療養者の追跡調査、リハビリテーション調査研究所のエドワード・カータ医師とマーガレット・アン・ウイルカーソン氏、サンタ・クララ・バリー医療センターのコーナル・ウイルモット医師とカリル・ホール医師、そしてロバート・メンター医師とスーザン・チヤーリフューウ医師、そしてクレイグ病院のこの本の著者を含む医師と研究者によって行われた。この章は1985年に報告された追跡調査研究結果の要点を述べたものである。

追跡調査対象となる人々

この調査の対象となる人は外傷性脊髄損傷で、1973年から1983年までに、1年以内に3つのセンターの一つに入院したC4レベルか、それより高位の完全損傷者である。
広範囲の医療の記録を調べたり、個人的に追跡面接をしたり、沢山の健康の世話をする人からデー夕を集めたりして、216人の情報が得られた。
調査グループの杓86%は男性で、70%は11才から30歳の間に受傷した人であった。自動車事故は受傷者の44%、ダイビングの事故は19%、銃の受傷者は10%、落下9%、アメリカフットボールを含むスポーツ関係の事故が7%、フットポールの事故が4%、残りの4%は暴行や医療の合併症である。

この研究の全ての人は退院時に完全麻痺の高位頚損者であった。57%はC4、17%はC3、13%はC2,10%はClかそれより上の四肢麻痺であった。
脊損病院入院中には62%が器械的呼吸器(ベンチレータ)を使っていた。しかし退院時にはたった35%が′常時、または一時呼吸器を必要としたにすぎなかった。残りの65%は退院時に呼吸器を使わないですんだ。
退院時の住居についての調査では、74%が自宅退院、9%は転院、7%はナーシングホームか施設に移った。そして3%が他のグループで生活している所に移った。残り8%(17人)はせき損病院から退院する前に死亡した。

この最初入院時に死亡した17人中、4人は心不全で死亡した。3人はその時人工呼吸器を使っていなかったので呼吸不全で死亡した。そして呼吸器使用の3人は脳血管系の病気がもとで死亡した。残りの5人は肺塞栓や出血性十二指腸潰瘍や気管切開に伴う動脈破裂や他のはっきりしない病状などいろいろな原因で死亡した。
グラフ
追跡中の死亡率

退院時に生存していた199人の長期の生存状態を分析した。呼吸器を使っている人と使っていない人の間に大きな差が見られた。受傷後1、3、5、7、9年後の人工呼吸器離脱者の生存率はそれぞれ93%、83%、79%、77%、73%であった。
人工呼吸依存群では、生存率はそれぞれ86%、70%、63%、63%、59%であった。全ての数字は1、3、5、7、9年前に受傷したケースを基にしたものである。退院後の追跡中に死亡した33人のうち8人は肺炎によるものである。心不全による死亡は8人であった。呼吸不全によるものが3例報告されている。敗血症と腎う腎炎でそれぞれ2人が死亡した。遺伝性舞踏病、栄養失調、えそ、肺塞栓、肺萎縮、頭部外傷、いんとうに異物が詰まることが主な原因で死亡した人がそれぞれ一人であった。3人の死亡については原因が分からなかった。

次の機会には症状や生活面について述べたいと思います。

一月三日朝、全脊連支部の佐々木さんから「今日の読売新聞に脊連再生の記事がでている」と電話があり、早速、図書室の新聞で見つけたのが、上の記事でした。
このニュースは同じ日の朝日や毎日新聞でも報道されました。でも私は読売の記事に特別な関心を持ちました。それは読売の記事だけにあった研究グループの一人、川口三郎という名に覚えがあったからです。
その方は、それまで不可能と考えられていた「哺乳動物の中枢神経の再生の可能性」を1982年の日本生理学会に報告されました。それが新聞に「せき損治療の朗報」として報道され、当時、全脊連の機関誌「せき損ニュース」の編集者・井沢隆氏はその記事に注目し、学会会場まで川口先生を尋ね、実験結果と「せき損治療の可能性」について説明を受けてきました。

その直後、川口先生は、井沢さんにつぎのような手紙を送っています。

中枢神経繊維の再生が場合によっては起こりうることを実験的に証明したが、そうした知見がせき損者対して神経繊維の再生構築といった治療が行いうるようになるかどうかは全くわかりません。もし将来それが可能になるとしてもそのあいだには途方もない距離があり、非常に多くの人たちの膨大な努力なしにその距離が埋まるとは考えられません。現在では夢のまた夢です‥‥‥。
私たちはこれから神経繊維の再生が起こったり起こらなかったりする条件を明らかにしたいと考えておりますが、それはいわば真っ暗闇のなかを手探りで出口−しかもそれがあるという保証もない−を探すようなものです。
脊髄損傷者の方々にはたいへんもどかしく思われるかもしれませんが、もし将来治療が可能になるとすればそれはこうした道程を抜きにしては考えられないと思います。このような事情をご理解して下さって私たちの研究に過大な期待をかけないで、さりとて絶望はしないでご鞭撻下さるようお願い申し上げます。1982年4月6日

京大医学部脳神経施設
          助教授 川口三郎

その手紙は「せき損ニュース」110号(1982年5月)に「研究学者からの手紙」として掲載されています。私は井沢さんから直接経過について何っていましたし、川口先生の手紙にもたいへん探い感銘を受けました。
その手紙から11年後、今回の新聞報道について川口先生はどのような見解を示されるか、その点も機会があったら伺ってみたいのです。なお発表論文はできるだけ早く入手して、できれば次号で紹介しましょう。



≪年賀状コーナ≫


『向坊弘道さん』

明けましておめでとうございます
いかがお過ごしですか。私はおかげで元気です。
懸案のネパール民宿仏教研究所は3月ごろ完成の予定です。ぜひどうぞお越し下さい。 空港から車で10分、素泊まり1泊5百円、往復航空券13万円。ヒマラヤやインド方面に行かれる方の情報も豊富です。合掌

『KSさん』

あけましておめでとうごぎいます
退院して、地域での2年間のお正月を迎えることができました。昨年は、環境制御装置を送ってもらったことが私の生活を変えました。
そして、友人だけとの旅行、エアーマットの購入、付添さんの交代、同居人を求めての講演とビラまき、日曜日のボランティアの手配、海遊館での授業といろいろありましたが、友人、卒業生のお父さん、お母さん、ボランティアの人たち、病院や保健所、ほんとうにたくさんの人に支えられての1月1日を過ごすことができました。ありがとうございました。
今年の目標は一人でできることを増やしたい。(ペンで文字をかけるようになりたい)そして、学絞に復帰すること(これは相手があるので)。家での生活を改善することです。あゆみはのろいですが皆さん焦らずに見守ってください。今年も皆さんとともに充実した日々が送れるよう祈っています。
(この年賀状は、コンピュータで入力しました)

『本島総合病院リハビリテーション科・YHさん』

新年明けましておめでとうございます。
いつもはがき通信を送って下さりありがとうございます。
毎回、患者さん(C5レベル)と共に楽しませて頂いています。送って頂くばかりでちらから何もせずに申し訳ありません。表現したり、文章を考えたりすることが下手な患者者さんですので、お許し下さい。どれだけ心の支えになっていることかしれません。今後ともよろしくお願い致します。

『KKさん』

謹賀新年
皆様のご多幸とご健勝を心よりお祈り申し上げます。
昨年は発熱や床ずれに一度も悩まされず、これで丸2年しごく健康に過ごしてまいりました。これも皆様のお陰と感謝しております。
また相模原市の自宅にもいつでも泊まれるようにベッドやリフターを少しづつ揃えはじめ、暮れには・最後の大物のスロープも取り付けました。そして実際この夏からは施設から電車を乗り継いで相模原の自宅へ戻り、マイルドライフケア社の介助を受けながら月に数泊づつの帰宅を始めました。
そんな帰宅は、年老いた母や子だくさんの女房の負担になることもなく気が楽でしたし、当然心も和みました。今年こそ、そんな機会を利用して皆様と私の育ったあの家でお会いしたいものです。
とは申せこの様な自宅生活を持続するほど裕福なはずもなく、他人介護手当が実現するまでの間は月に数日から一週間の帰宅となる予定です。

『TTさん』

謹賀新年
ざ・夢社会と言う障害者グループで活動しています。姫路は市内交通がとても悪いうえタクシーの補助もありません。問題は山積です。

『可山優零さん』

謹賀新年
おかげさまで、私のアパートでの一人暮らしも1年を経過しました。最近の日々の生活は、次から次へと予定の行動を消化するのに忙殺されて、じっくりと文庫本を楽しむ余裕のない状況であります。多くの人と会って会話を交わす事に終始する毎日であります。まさに東奔西走と言った感がありますが、今の人生を甘受して楽しみたいと思います。これからも、ご指導ご鞭撻をよろしくお願い致します。

『清家さん』

A HAPPY NEW YEAR l994
1993年12月、「就労問題研究会・会報」9号を編集・発行しました。
「特集:自営業と重度四肢麻痺者」
ぽくも、アマチュア(セミプロ?)ながら、執筆、翻訳.などの仕事をしています。1993年2月末入居した大手門公団で、「会報」⑨の編集発行作業も行いました。
今回の会報は120頁を超えました。一太郎 Ver.5は、文書を16編集でき、編集機能も強力ですが、100頁を超える文書をいくつも並べて作業していると停止してしまうことがあります。メモリを17.6MBまで増設していますが、NEC PC9801−FAは約15MBまでしか認識してくれません。
第9号は、初めて、印刷製本によるものとなりました。写真と英語をできるだけ多くとり入れ、英文タイトル、著者紹介(和文、英文)をつけさせていただきました。海外の人にも伝わるものになれれば、思います。
今回の会報からは、生き生きと仕事をしている寄稿者の皆さんの姿が伝わってくると思います。
今年も「就労問題研究会」をよろしくお願いします。

『うめ吉さん』

頚髄損傷になって今年の1月1日で丸12年が過ぎましたが、その間、皆様には一方ならぬお力添えにあずかり誠にありがとうございました。
                      
1990年3月大学院修了後、父と共に不動産事業を創業いたしましたが、昨年2月より手始めに賃貸マンション「アジュール宝塚」の経営をスタート致しました。現在、日中はアジュール宝塚2階の管理事務所にて仕事をしております。地道な努力を続け、一歩一歩進んで行きたいと思います。
なお付近にお越しの節はぜひおたち寄り下さいますようお待ちしております。 (以下略)
宝塚市


あとがき

*新年早々、研究室にたくさんの年賀状が届きました。昨年より一段と多くなった年資状に通信の広がりを実感しています。はがき通信も5年に入りました。マンネリや自己満足に陥らないよう、先走りしないよう配慮しつつ、皆さんと交流を楽しみながら通信を続けていきたいものです。今年もよろしくお願いいたします。

*今回は郵便料金の値上げがあり、その前に発送できるよう準備する予定でしたが、やはりぎりぎりになり、相変わらず佐藤さんに負担をかけてしまいました。ゼロックスでの両面コピーは枚数に限度があり、有志のカンパにのみ頼るわけにもいかず、はがき通信もそろそろ有料化を検討する必要に迫られてきたようです。

*普段は98中心の仕事なので、すっかり御無沙汰していたせいか、いざ25号編集を始める否やマックの機嫌が悪く、途中理由も分からずロックしてしまい、あせってしまいましたが、何とか間に合いました。

*前号から中谷さんが校正や印刷を手伝って下さっています。