広報部より
[リハビリテーション工学カンファレンスに参加予定〕麩沢孝
8月3日から6日まで、所沢市の国立身体障害者リハビリテーションセンターで第8回リハビリテーション工学カンフアレンスが開かれます。このカンファレンスは年に1度、全国のリハエ学の研究で有名な研究所や病院などが事務局となり、今回は国リハで開かれるわけです。はがき通信の仲間でもある福岡のSさんや岐阜のUさんの発表もあり、4日間通しては参加できませんが、リハ工への参加は初めてで今から楽しみです。次回のはがき通信にレポートしますのでお楽しみに!
〔頚髄損傷者のピア・サポート〕
5月の終りに突然、綾瀬のKさんより郵便が届き開けてみると「頚髄揖傷者のピア・サポート」というA4版の本が届き、早速読んでみると頚損者の事例をはじめ、基本的な生活管理から余暇時間の過ごし方、レクレーションまで、頚髄損傷者が受傷から障害を受容し、社会生活までのマニュアルといった感じです。頚損者自身は勿論ですが、頚損を取り巻く方々にも読んで欲しい一冊です。この本を読んで、仲間同士の助け合いの大切さと共に、私自身も、ピア・サポートによって助けられて来たのだと改めて実感しました。
[全身性障害者介助入派遣事業] 東京・大阪に続き、埼玉でも全身性障害者介助人派遣事業が始まりました。しかし施設入所中の障害者でも、外出の際は施設の介助保障が得られませんし、カーサ・ミナノの場合ですと単独の外出は、場所的に難しいのです。施設入所中ですと、特別障害者手当にしても自動車事故対策センターの手当にしても適用がないのですが、最近、在宅障害者と施設障害者の線が、一層濃くなった気がします。 [生活保護者 川柳で侮べつ〕 6月の中旬ころ、新聞に「生活保護者川柳で侮べつ」と言う見出しが載りました。テレビでも放映されましたので、ご存知の方も多いと思います。これはケースワーカの発行している機関誌に、生活保護者やアルコール中毒者を侮べつする川柳が特集で掲載され、障害者団体が抗議したというものです。私は、この記事を目にしたとき、怒りよりもなんだか残念に思いました。それは、受傷直後からケースワーカの方には大変お世話になり、特に沢渡温泉病院のケースワーカの方には色々な手続きは勿論、今こうしてカーサ・ミナノに入居できたのもケースワーカの方のお世話があったからだと思っています。いくら冗談にしても一部の人たちによって“ケースワーカ”の名前に泥を塗った事が、とても残念に思いました。 〔広報部長〕 前号のはがき通信にもありましたように、広報部長になりました。名ばかりではございますが、はがき通信の皆さんのQOLの向上につながるよう頑張りますので、これからもよろしくお願いします。 7月8日 麩沢 孝
MTさん頚揖者の絵画展“3人展”に出展
5月、MTさんから「’93奥武蔵の風景 吉澤富男展」の案内状が届きました。そのなかに「協力作家 花‥水彩 MT」とありました。
以前、Tさんのおはがきに金魚ややぐるまそうのカットが入っていましたので、絵の好きな方とは思っていましたが、絵画展を開かれるというお知らせに、早速電話で問い合わせをしたところ、なんと協力者2人を含め、3人とも頚揖者ということでした。頚損者3人展とは初めてではないでしようか。
6月上旬、埼玉県飯能のTさんのご自宅から、お父様の運転で、Tさんのご家族と一緒に会場へつれていっていただきました。 会場は木造平屋の小さなギャラリーですが、風景画(吉澤富男)、水彩画(MT)、コンピュータグラフィック(南浩一)と3人の作品がところ狭しとばかり展示され、たくさんのお祝いの花と会場はたいへん華やいだ雰囲気でした。
Tさんの作品はすべて花でした。どの絵も「母のため一生懸命心を込めて描きました」というすてきな作品でしたが、なかでもマーガレットとフィリージアの絵はとても気に入りました。「私の絵は人に売れるような絵ではありません」とTさんは云われますが、その絵を欲しいという人が何人かいたそうです。
会場では風景画の吉澤さんが奥さんと一緒に説明してくれました。吉澤さんは11年前に大工仕事中の怪我で頚損者となり、絵を描き始めたのは、退院してからで、奥さんの運転で飯能周辺を回り、気に入った風景を写真に撮り、自宅で絵を描くそうです。今回展示した絵はこの1年間の作品と云われますが、全部で22点もあり、すでに何点か予約の札が貼られてありましたが、一番気に入った絵はいくら欲しいと云われても、手放さないとのことでした。
コンピュータグラフィックの南氏は、車イススポーツ選手でも著名な方ですが、作品もたいへんな腕前で、「作業療法ジャーナル」の表紙に、上村数洋氏の後、登場しています。来年もまた3人展を開催予定とのこと、楽しみにしています(松井)。
山形のSMさんとKOさんを訪ねて
最近、呼吸器を付けたままの状態で退院を勧められ、困っているというご家族の相談もあり、Mさんが療護施設でどのように生活されているのか参考にしたく、6月下旬、Mさんを訪問してきました(松井)。 SMさん
酒田駅から車で数10分、はるか鳥海山をのぞむ静かな、ひろびろとした月光園がMさんの生活の場です。ちょうど昼食時間でしたが、Mさんは食堂ではなく、ベッド上で食事を済ませた後でした。ベッドの両脇の壁には奥さんが書かれた吸引とスーフル(自呼吸の訓練用具)の使用手順が貼られていました。横隔膜ペーシングの使用は奥さんがいるときのみで、奥さんがいないとポータブルの呼吸器につながれた状態で、移動がたいへんなので車イスは使わず、食事もベッド上で済ませているようでした。30分くらい自力呼吸で持つので、お風呂には呼吸器を外して入れるそうです。
Mさんにもカナダから贈られたスピーキングバルブを使ってもらいましたが、パルプを装着していると、肺に空気が溜るようで苦しいと使用していません。初対面のときに比べますと、今回、奥さんの通訳なしにMさんからかなり細かいことも聞き取ることができました。でも声がでれば、もっと会話は楽になりますし、車イスで自由に動ける人たちも気楽にMさんの部屋に話しに来れるのにと思ってしまいました。 KOさん
Mさんの奥さんから酒田へ来るなら、KOさん(通信の読者)を訪問するように、Oさんのお宅は東京の人がびっくりするほど大きく、頚損者に必要な設備もいろいろと整っているので、必ず参考になるからと勧められていました。
実際伺ってびっくりしました。瓦屋根のついたりっぱな門を通り、玄関や廊下の広さにあっけにとられている私を、酒田市の名家・21代目の当主であるKOさんは、「お待ちしていました」とにこやかに迎えて下さいました。Oさんの笑顔で、旧知の親しい友人に再会したようなリラックスした気持ちでお話を伺うことができました。 Oさんは自宅では電動車イスを使い、畑の見回りをするときは電動三輪車に乗り扱えています。ベッドから車イスヘのトランスファは“こまわりさん”、電動三輪車に乗り換えるときは、写真のようにホイストを使っています。お屋敷の周囲はコンクリートで舗装し、電動車イスに乗っていれば、自宅から畑まで一人で移動できるように環境を整備されています。
交通事故で酒田市立病院に運ばれたときは、Oさんが最重度の頚損者だったそうでが、その1カ月後C2のMさんの入院で、2番目になったとのこと。Oさんは不全マヒ、肩から下の痛みがひどく、人と話している間だけ、その痛みを忘れることができるので来客がとても楽しみだそうです。
その日も近くに住む車イスの大先輩・Sさんがみえていました。帰りは、Sさんの車で酒田駅まで送っていただき、途中Sさんのお宅へ立ちより、婦人編物のお店を経営する奥さんにもお会いしてきました。奥さんも車イス、脊損者同士のご夫妻です。Sさんの奥さんは、新潟地震のとき階段から転んで脊損になられたそうです。ご夫妻ともに脊揖歴数10年の大ベテラン、OさんやMさんの良き相談相手になっているようでした。
KSさん腸閉塞の疑いで緊急入院
5月末「K君を支える会たより」がとどき、封筒を開けると「K君緊急入院!!」という文字が目に飛び込んできて、びっくりしました。「お腹がポンポンに腫れてしまい、手足が紫になってしまったそうです。一時は本当に心配しました。腸閉塞を心配しています。手術をするかどうか今のところ未定です。どうぞ励ましてやって下さい」という手紙が入っていました。さっそく入院中の病院へ伺うと、昨日ガスがでて、やっと落ち着きましたと、つきそいのお母さんが説明してくれました。
KSさんは、自宅で人工呼吸器を24時間使っています。夜中、お母さんがKさんの様子をみたときは異常なかったのに、明け方、急変に気づいたそうです。原因は腸内の宿便から発生したガスが抜けなくなったためですが、入院してもガスがなかなか抜けず、たいへん苦しみを経験してしまったけど、腸閉塞でなく、短期の入院ですみました。
英国の脊損者「不安な航海」(walking
into Darkness)から
HK
これはイギリスの最大の脊損病院であるストーク・マンシュビルという病院を退院した137名の男の患者を追跡調査し、その内の77名にインタビューして問題点や満足度を調査したものである。「はがき通信」を読んでいる人に参考になるような事にしぼって中身を紹介したいと思います。
受傷時、退院時、インタビュー時皆それぞれに不安をかかえている事が分かる。 特に印象に残った言葉は、リハビリテーションで大切なことは脊損者が自分を肋けるのを手伝うということであるという言葉であった。
麻痺は単に動かす機能の正常な状態が失われ、感覚が失われ、排便や排尿をコントロールする機能が失われたというだけでは無い。体というものは各部分が集まったというだけのものでは無い。麻痺した手足にはじょくそうができたり、痙攣が起こる。これらは脊損者の意識や福祉に影響を与え、ついには体全体の機能を損なう事になるということを本人だけでなく回りの人も知っておく必要がある。
最近脊損者によって明かにされた一つの見解では、多くの人が障害を全く社会的な圧迫から来ていると考えている。つまりケアをしない、知らない社会によって障害者にかせられた社会的な規制である(こういう考え方もあるということを一般の人にも知ってもらいたい)。
いまのイギリスでは、受傷した75%以上の脊損者が6週間以内に専門病院に移されている。そして4ヶ月から8ヶ月で退院するのが一番多い。昔よりかなり短いということが分かる。
30ページには受傷後5年たって筋肉の動きや感覚の能力に意義のある変化を起こした例があると書いてある。 はっきり云って一般病院は普通、脊損という専門的な治療を必要とする病気に対処する事ができない。専門病院から退院したあといろいろな問題が起こるので専門病院と規則的なコンタクトを取っておくことが必要である。 レジャー活動をすることが出来るということは脊損者が変化した環境に時間がたつにつれて適応することが出来るようになったことを示している。実際新しい興味を育てる能力は有意義なもので障害者のキャリアーの積極的な面を示している。
満足と不満のレベルの差はレジャーする機会に著しい抑制を与えていることが、満足に影響を与える他の原因、例えば雇用とか自動車を所有しているなど、によって代償されている事を示している。
ある障害者は次のように述べている。障害者の最大の問題は誰かに頼っているということである。障害者である事ではなく、頼らなければならないという事である。だから自分自身の自由だけでなく、世話をする人の自由も重大な問題である。・・・これは頚損者の率直な気持ちだろうと思う。 つぎにこの本の要約を述べる。
第二次世界大戦の終り以来、医学とリハビリの進歩によって、文字どおり両足麻痺と四肢麻痺の数万人の生活は変わった。彼らは全く以前には死んでいたのである。二十世紀終りの中心問題は脊損者が生き延びる事ができるかどうかということではなくて、どういう生活が期待できるかということである。既に脊損になった人のみならず、これから毎年400人以上予想される新しい脊損者にとっても生活の質の問題が中心課題である。だから現在のサービスを改善し、将来の計画を立てるのに、現行制度のどこが悪いかはっきりした観念をもつことが重要である。良く云われるように、我々がどこにいるか知らないで、どこに行くか知ることはできない。現行制度やサービスの欠点を障害者の観点から理解する事が特に重要である。我々が知る限り、この本はこのことをめざした最初のものである。・・・少なくとも脊揖者に関しては。
脊損者が個人的な反応と外部環境で社会的に適応するには少なくとも9年かかるということが我々の所見から分かった。
脊損者の多くは、生活、レジヤー、社会的コンタクトを追及することが出来る。時が経つにつれて活動に変化が起きるが、幸せな、充実した生活は可能である。しかしながら、建物へのアクセスとか、公共の輸送機関を利用できないとか、特に電動の車椅子のぴったりしたのが得られないとか、時には自動車の維持費がかかるというような、生活面での多くの規制がある。個人的な関係については、車椅子が友好関係を作る障害になっているように思う。そして重度の四肢麻痺の人が家族に頼るのではしばしば友好関係を作るのが難しくしているように思う。個人的な問題に介入するのは適当かどうか疑わしいが、物理的環境−−−建物や交通機関など−−−の改善によって脊損者の生活は有意義なものに改善されることは疑いのないことである。その上、ぴったりした車椅子の支給や自動車を買うのに必要な財政的援助は、レジャーをしたり、実のある社会生活をする機会をもっと開くことができる。
(紹介された本は“WALKING INTO DARKNESS The Experiencc of Spinal Cord lnjury”by M.01iver,etal.MACMILLAN PRESS,1988) |