はがき通信ホームページへもどる No.123 2010.6.25.
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 怠惰な棚ぼた人生〜人間、こんなことでイイのかい?!〜〈前編〉 

C6

 今年の初めごろ編集委員の方から、「定年退職をする人にこれまでの経験を書いてもらうので、Nさんにも」と投稿の依頼があった。「皆さんのお役に立てることは全くありません」とお断りをしたのだが、1人だけではないからと押し切られた。
 そして、4月に送られてきた先号のKさんの投稿を拝見して、愕然。これは大変なことを引き受けてしまったと思ったものの、後悔先に立たず。Kさんの職業人としての立派な功績、人生に前向きに取り組む姿、どこを取っても私にはそのカケラも見当たらない。私の人生は、一言でいえば「棚ぼた人生」。振り返れば、努力もしないのに、幸せは向こうから勝手にやって来る恵まれ過ぎの人生。人生は良いことと悪いことを合わせれば、誰でも大体バランスが取れるもの、などとよく言われるが、このままでは、これからの残りわずかな人生、想像するだに恐ろしい真っ暗闇しかあり得ない!
 その始まりが、この投稿なのか? 事実を書けば、読者の皆さんから総スカンを食らって、障害者の風上にも置けないと放り出され、暗闇の淵から蹴落とされることは必至。しかし、一度約束したことを違えるのは性分に合わない。大恥をかき、社会的に葬られることを覚悟の上で投稿するしかなさそうだ。
 こうして、心の奥では、編集の方が「こんな役にも立たない駄文を!」と没にしてもらう人生最後の幸運を密かに願いつつ、ヤケッパチの投稿となった。

 ◇怠惰人間製造法
 私の人生は、戦後の名残の残る、まだ米も粉ミルクも配給という時代に始まった。しかし周囲は皆、似たり寄ったりの暮らしで、幸いにもその日の食事に事欠くということもなく、つぎだらけの服は着ていても、悩みもなく育った。母親は世間の常識から見れば変な価値観の持ち主で、人を蹴落とすためにガリ勉をして成績が良くなっても意味がないと言い、それを都合よく理解した私は、学校にはほぼ皆勤で通いはしたものの、放課後はランドセルを家の玄関に放り出し、友達と自転車に乗ったり、近くの丘に登ったり、好きな工作をしたり、お稽古事は面倒と行かず、全く勉強とは縁のない遊び放題の小中学校を過ごした。
 しかし、高校になると周囲の者は受験のために自宅や塾で「勉強」なるものを始め、それまでと変わらない生活をしていた私の成績は、下がる一方となった。長年の怠惰な暮らしで、私は努力して勉強するということのできない人間になっていたのだ。
 その結果はすぐに現れた。1年目の1校に集中した受験は見事に完敗。浪人中は予備校に通わせてはもらえたものの、第4志望補欠、第5志望でようやく合格となり、またまた他は完敗。どうせ落ちると投げ遣りで受けた最後の第3志望校。苦手な英語の試験問題は、たまたまその内容自体が興味をひかれるもので、どうせ落ちるのだからと楽しんで受験を終えた。結果を見に行くのも面倒だったが、2時間ほど電車に乗る発表会場には小旅行のつもりで出掛け、掲示の終了間際の夕暮れ、誰もいない会場にたった1人到着。しかし、そこには夕暮れの薄暗い掲示板にナント! 何故かなぜか私の受験番号があった。さして喜びも感じず、授業料の安い学校なので、ここに通うかといったイイ加減な思いで帰宅の途に就いた。しかし、これが棚ぼた人生の始まりであったかも知れない。

 ◇怠け通した大学生活と惨めな就職活動
 大学には何とか入ったものの、学生運動盛んな時代。学校はロックアウト中で、ようやく夏休みになって学外の補講が始まる始末。生来怠け者の私は、箍(たが)が外されると何をすることもなく、朝寝坊、宵っ張りの暮らしに落ち、1年の後期に始まった正規の授業は半分くらいしか出席しない状態に。そのくせ覚えた車の運転にのめりこみ、夏や春の休みに全国ドライブをするため、ガソリン代を稼ぐアルバイトだけは熱心に行った。
 そんな暮らしの行き着く先は明らかで、お決まりの留年。それも肝心な必須科目の取りこぼしで、その当時の最終学年の春から始まる呑気な就職活動さえも必須科目が取れていないと「卒業見込証明」がもらえず、就職活動さえできない情けなさ。このため、証明なしで受けられた公務員試験を仕方なく受験。市、県、都、国、そして県企業団まで片っ端から受験。どうせどこも合格しないと就職担当教授からも冷ややかに見られ、「就職は学年末の3月になっても紹介できる会社はあるから、とにかく卒業できるよう、今は勉強に専念しなさい」と言われる有様。ところが、ここでまた第2の棚ぼた。景気が少し持ち直し、公務員の人気が下がり始めた時期とは言え、受けた試験に全て合格。国の試験に至っては、成績優秀な修士に進んだ元クラスメイトより順位が上で、学科の七不思議とも言われる驚きの結果。これが第2の棚ぼただろうか。




             ●首里城にて左よりNさんとHさん


 しかし、喜んでばかりはいられない。試験合格者は、この段階で「卒業見込証明」の提出を求められ、万事休す。しかし、事情を学務課に話し、証明書の発行を懇願したところ、「あと1単位なら、せっかく試験も受かっているし、もったいないな」と例外的な温情で発行の次第に・・・。
 かろうじて手にした「卒業見込証明」を提出し、今度は就職面接。今からは想像もできないが、まだ暑さの残る時期だったこともあって、いちおうボタンは襟まで留めたものの、それまで背広を作っていなかった私は、ワイシャツ姿で面接試験に及んだ。合格種目を受け入れるところは片っ端から受験したが、ワイシャツ姿が悪いのか、「英語はカタコト程度と」そのまま言ったのが悪いのか、通産省などは「ほかにあなたに適した場があると思いますので、そちらで頑張って下さい」と即座にその場でお断り。そんな中で受けたのが、合格をいただいた○△省。ここも受験の際に、「本省をご希望ですか? それとも研究所ですか?」と受付で聞かれて、「えっ、研究所があるのですか? 両方受けることはできませんか?」などと聞く、まったく下調べもなくイイ加減な態度。控室に置いてあった研究所のパンフレットを見ると、何と実家から歩いても行けるような「ああ、あそこにあった、あの」というところだった。
 何カ所か結果待ちになっていた時に掛かって来たのが、先の○△省からの電話。「内定しました」と伝える声に「本省ですか? 研究所ですか?」と答える私。「研究所です」と電話の声。「実は、第1志望がほかにあるのですが、少しお返事を待っていただけますか」と厚かましく言う私に、「それは無理です。待てません。来ていただけるのでしたら、今すぐお返事を」とキッパリとした相手の答え。「それでは、お願いいたします」と、これまたイイ加減な遣り取りの中で就職決定! 後から考えれば、就職先では、当時としては破格の予算が付いて大掛かりな実験を始める時期にあり、その実験要員として通常より多くの採用をしたということであった。

 ◇就職はしたものの
 採用当初はアカデミックな仕事(と言うよりただの勉強?)もしていたが、しばらくして前に書いた大規模実験の部隊に組み入れられ、実験施設や機材の調達のため、連日、メーカとの会議、下打合せ、資料作成といった泥臭い作業の連続となった。それでも「頭の悪いもんは、手と足で働く」などと言いつつ、さして不満もなく毎日遅くまで作業の日々を送っていた。
 そうこうして2年。職場では純粋研究を指向するグループからは私の属する実用指向の研究開発に対する批判の声が上がるようになり、そうしたグループの先輩からは「そんなところにいつまでもいると、研究者としてダメになるぞ」などと言われ、また関わり始めた組合とはどうも考え方が合わず、精神的に落ち込み気味になっていた。

 ◇青天の霹靂2題
 そんな中、あの日は巡って来た。友達と3人で出掛けた海水浴。雲一つない抜けるような青空の下、「こんなに世の中は晴れ渡っているのに、自分は何をグチャグチャと考えているんだ」などと思いつつ、ふわりと軽く飛び込み櫓から飛び込んだ。こうして、医者も「そんな条件でどうして首が折れるのか?」と首をかしげるようなことで、障害者の私が誕生していた。
 26歳の時であった。しかしこれも、ある意味で棚ぼた人生の一つだろうか?
 こうして、何から何まで、下の世話に至るまで人様に頼る入院生活となったが、当の本人は「これで期待されぬ人間像になった」(当時、文部省だったか「期待される人間像」という言葉で教育変革を唱えていた)と、何もできなくなった自分を、一切の責任から逃れられたように思い、案外サバサバとして、甘やかされた入院生活を送ることになった。
 入院生活も2年を超え、職場の休職期間が期限を迎える1年ほど前、思わぬ連絡が入った。そのころ元の所属部署の室長になった人物、新しい上司から「君にその意志があるなら、復職の支援をするつもりだ。仕事は君に合ったものを考える。意志があるのなら、はっきりと意志表明をして欲しい。それが始まりだ」と呼びかけるものだった。ソーシャル・ワーカー(MSW)は、「あなたの障害では、復職は非常に難しい。そんなことをしても、辛い思いをするだけだ。あなたがつぶれるよ」と真っ向から反対。それまで私は、復職などということは微塵も考えていなかった。しかし、声を掛けてくれたその人物には受傷前から世話になっており、その人が常識では考えられない提案をしてくれている。そこまで言ってくれるのだから、結果は無残なことになると分かっていても、その厚意に応えなくてはせっかくの厚意を無にすることになる。そんな訳も分からぬ思いを抱いて、当時OT訓練で練習していた電動和文タイプライターで復職希望の文書を書いて職場に提出することとなった。これこそ正に棚ぼたとしか言いようのないことであった。(後編へ続く)

東京都:M.N.



 ◆けい損者の人工呼吸とNPPV(非侵襲的陽圧換気療法)  〈前編〉 


 [今、NPPVが注目]
 今、NPPVがけい損者の間で脚光を浴びている。神奈川けい損連絡会の機関紙「葉話友」でも、FLCの「飛瑠夢」でも紹介された。全国けい損連絡会の機関紙「けい損」でも取り上げるとのこと。発端は長年、気管切開による人工呼吸だったHさんがNPPVに切り替え、今まで普通に話せなかったのが、声がよく出るようになり、電話でも会話が可能になった。その劇的な変化が新しい呼吸療法、NPPVに注目を集中させているようだ。
 NPPVを「これからの人工呼吸」と著書や看護学雑誌の特集で精力的な普及活動を展開中の石川悠加医師によると、欧米ではすでにNPPVがICUから在宅まで人工呼吸の主流であり、日本でも2006年、日本呼吸器学会による「NPPVガイドライン」が公表された。そのガイドラインはインターネットから読むことができる。ガイドラインは疾患・障害別にNPPVを「行うことを強く推奨する」から「行わないよう勧める」の4段階に推奨度を示し、頸髄損傷も含まれる神経筋疾患は現時点で推奨度B「行うことを推奨する」に分類される。
 NPPVの利点は、“非侵襲的”と表されるように“侵襲的な”気管切開せずに使用できる陽圧換気の人工呼吸である。気管切開に伴う継続的な煩わしい医療ケアが不要、しかも発声も障害されず話し声も明瞭、けい損者の社会生活に最適のように思える。しかしHさんの報告にあるように、NPPVを扱う病院は現在なお国内で数カ所、それも地域的に限定され、専門病院が集中する東京や神奈川でもなしに近い状況である。さらにHさんにとってNPPVは一長一短あり、もろ手を挙げてNPPV推進者にはなっていないようである。

 [NPPVの長所、短所]
 昨年12月、和歌山から帰宅途中にNPPV訓練入院中のHさんを見舞ったとき、長いパイプのようなマウスピースをくわえながら、かっこう悪いと不満げだった。声はよく出て話ができる。だが話すたびにマウスピースが外れる。そのつどそばにいる者がマウスピースを口にくわえさせる。マウスピースは命綱、外れたら人工呼吸器から送風されてくる空気が肺に入っていかない。Hさんの個室はナースステーションの向かい側だが、マウスピースの外れにそのつどナースが対応できないのだろう、お母さんが付きっきり、喉元の気管切開孔はガムテープのようなもので塞がれていた。近く、手術で気切孔を塞ぐ予定とのこと。
 1月に再度訪問したときは、マウスピースが固定され、外れても自力で戻せるよう工夫されていた。しかしお母さんの付き添いは必須、入院訓練なのに、マウスピースによるNPPV訓練中、付き添いは欠かせない。お母さんは近くのウィークリー・マンションから通勤、夜、お母さんが帰るときに鼻マスクに切り替える。当初の予定よりも入院期間が大幅に延びている。八方手を尽くし探しているが、退院後の受け入れ医師が見つからない。そのうえ、NPPVの主治医も出産を控え、間もなく退職し、子育てに専念するとのこと、関東でフォローしてくれる医師に心当たりがないかと、主治医から相談される。すぐには思いつかなかったが、帰宅後、八王子在住のけい損者が北海道の石川ドクターのもとでNPPVを導入してきたという看護学雑誌のNPPV特集を思い出し、八王子近辺に受け入れドクターがいる可能性ありとのメールを主治医に送信、折り返し、さっそくあたってみるとの返信があった。Hさんの退院はそれから1カ月後、ご家族の努力で受け入れ医師をどうにか確保された。
 退院後、Hさんは飛瑠夢128号に「NPPVにチャレンジ!」と題して手記を寄せている。
NPPVを導入して良かった点
i.声がしっかりと出せる
ⅱ.入浴時、肩までお湯に浸かれる
ⅲ.外出時手荷物が減った
ⅳ.服の選択肢が広がったこと
反対に不安な点
ⅰ.マウスピースの外れ
ⅱ.誤嚥の注意から食事に時間がかかる
ⅲ.口腔内の乾燥
ⅳ.マウスピースのままうたた寝ができないことを指摘する。(後編へ続く)

編集顧問:松井 和子



 ゆずります 


 神奈川のHさんから「はがき通信」120号でもご紹介しました携帯用会話補助装置・手ぶら拡声器“ギガホン”を必要がなくなったので、どなたかに(原則的に先着順で)おゆずりしたいとのご連絡をいただきました。2回しか使用していないそうです。
 着払いでお送りするということで、送料のみ負担していただきます。希望される方は、編集委員の瀬出井までご連絡ください。




 腰折れ俳句(15) 


空を恋ふ少年麦笛の天使

末席に散歩のわれら山開き

丹念に生きるつもりの更衣(ころもがえ)

索足なる我や海彦汐干狩

おろそかにせぬが流儀の母日焼



 井上ひさしさんの『吉里吉里人』を読む。29年前の現状認識の本でしたが日本は何も変わっちゃいない。今日にあってもSF大賞がふさわしい—。





 金星に向かって「あかつき」が宇宙を旅している。どきどきする。 
 

熊本県:K.S.

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